JOB Scope マガジン - コラム

第4回 売上10億円の壁を超えるのは、自分を乗り越えること

作成者: JOB Scope編集部|2023/10/20

第4回

売上10億円の壁を超えるのは、自分を乗り越えること

部下育成とチームビルディングの本質


2023/10/20



01 ―――

創業1年半で売上1億円

 

今回は本シリーズの(第1)(第2)(第3)を受けて4回目となるが、ある企業の事例を取り上げたい。(第1)(第2)(第3)をご覧になった後でお読みいただくと、理解が深まると思う。

 

この連載の記事一覧へ 

 

結論から言えば、この企業Aは2006年に倒産している。Aは、1980年代半ばに人材派遣会社として創業した。当時はバブル経済(1986年~1991年)がはじまる直前の時期で、プラザ合意以降の円高不況を乗り越え、多くの業界や企業で反転攻勢をかけようとしていた。

創業者Mは1970年代からフリーのスチール・カメラマンとして10年程の経験を積んだ後、80年前後から大手運送会社でドライバーを5年程して開業資金を貯め、30代前半の時、1人で起業した。

Mは、気性が激しいために人間関係でトラブルが多かった。私生活でも問題はあり、20代前半で結婚したが、1年で離婚をする。妻との喧嘩が絶えず、時に殴ることもあった。

一方で、ビジネスチャンスを見つける嗅覚やそれをビジネスにするプランニング力や行動力は類まれなものがあった。例えば、80年代後半からテレビ局が衛星放送(BS放送)をスタートするのを80年代前半に知人であるテレビ番組制作会社の役員から聞かされる。その直後から運送会社で働きながら資金1500万円を貯め、80年代半ばの創業時に一気に使いこんだ。

渋谷のマンションの一室を借りて、そこを本社オフィスとして人材派遣の免許をとり、テレビ番組制作会社の役員から紹介された20代のフリーディレクター数人と労働契約を交わし、派遣社員としてテレビ局の衛星放送部に送り込んだ。

局から1人のディレクターにつき、1か月平均70~80万円の派遣料を受ける。そのうち、本人との契約通り、30~40万円を差し引く。それは、本社オフィスの家賃や光熱費、物品購入費、Mの人件費(給与)などとした。この時代は、派遣会社が国内には少なかった。衛星放送へのディレクター派遣がまだ浸透していない。こういう中、Mの狙い通りとなる。競い合う会社はわずかしかないので、派遣するディレクターの数は創業1年半で25人を超え、売上は1億円となった。

1年半程が経つと、ほかのテレビ番組制作会社も自社のディレクターを派遣社員としてテレビ局に派遣するようになる。それでも、Mが経営するAは毎年10~15人のペースで新たなディレクターを派遣することができていた。その数は、ほかを圧倒する。


02 ―――

設立10年目で売上は9億円

 

それには、いくつかの理由がある。

まず、Mの営業力だ。社員には激しく当たり散らし、時に罵倒をして退職に追い詰めるが、テレビ局の幹部には接待漬けをしていた。50~60代の幹部には愛想がよく、かわいがられる若手社長を演じた。幹部の息子が大学に合格すると、10万円前後の時計をプレゼントするほどだった。

もう1つの理由は、派遣するディレクターの技能だ。ほかの番組制作会社が番組をつくることができる純然たるディレクターを派遣しようとするのに対し、Mの着眼は違った。

衛星放送の番組の7割がアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの放送局が制作した番組をそのまま放送している。その言語である英語、ドイツ語、フランス語を日本語に、しかもテレビ番組用に翻訳されていることに目をつけ、これらの言語に堪能な人材を翻訳家や通訳を外部委託として雇う会社や団体に何度も足を運び、紹介を受けた。

そして、その人たちと労働契約を交わし、そのうえで番組制作の大まかな流れを1~2か月で教え、派遣社員として放送局に送り込んだ。当時は、受け入れる放送局の側も自分たちがどういうディレクターを求めているのか、明確ではなかった。そのような中、番組制作能力は高いとは言えないが、語学力は抜群に高い人材を「ディレクター」と称して送り込む。

Mの差別化戦略は、見事だった。設立5年目で派遣するディレクターは、90人を超えていた。それぞれのディレクターに放送局が払う金額は、平均90万円を超える。ほかの番組制作会社のそれは、60万円程。「語学に強いディレクターを多数抱えるA」と、業界では静かな話題となる。設立10年目の1990年代半ばに売上は9億円前後となる。ここまで短い期間で順調に業績を拡大していたのは、当時この業界ではごくわずかだ。


03 ―――

退職した社員からは「独裁者」扱い

 

Mのような創業経営者として才能豊かであろうと、10億円の壁にぶつかる。

大きな問題は、社員を育成することができないことだった。売上が9億円の時に派遣するディレクターは90人を超えていて、ほとんどが5年以上は勤務する。3年以内の退職者は、ゼロの年もある。これが放送局の信頼を勝ち得た理由の1つとなるが、本社オフィスの社員約10人は次々と辞める。総務・経理の社員4人程は1年以内に辞める。

大半の理由は、わずかの問題が生じるだけでもMが徹底して叱りつけるからだ。怒鳴り、殴らんばかりに「なぜ、こんなことができないのか」と追求する。警察の取り締まりのような雰囲気になる。殺伐とした職場に嫌気がさして、次々と辞める。数人は、抗議の意思を示すために退職後、弁護士を通じて内容証明郵便を送りつけてきた。

Mは、あくまで強気だ。その後も、自らの期待に沿えない仕事をする社員を常に叱り、罵倒する。興奮し、手元にある書類やたばこをぶつけることもある。顔に傷を負わせたことすらあるのだが、自分が責められると、会話ができないほどに激高する。

役員は、ほかに2人がいる。1人は実の弟であり、東北の実家で家業である漁業を営む。もう1人は、妻(再婚後の妻)の父親。創業10年目で本社オフィスに管理職は5人程がいたが、1~2年でほぼ全員が辞める。労働組合は、もちろんない。社内で、Mに何かを言える人はいない。ワンマン経営に徹していて、退職した社員らは「独裁者」とも言う。

 

 

04 ―――

創業12年目に経営危機に

 

創業12~13年目の90年代後半になると、状況が変わる。この時期、91年に崩壊したバブル経済の影響が深刻化し、多数の中小企業やベンチャー企業が経営難に陥り、倒産や廃業する。経営が安定していると長年言われてきた都市銀行もが大量の不良債権を抱え、自力では抜け出せなくなる。多額の公的資金(税金)を受け入れ、事実上の倒産に近い状態となる。

広い業界でリストラがはじまり、雇用が不安定になる。放送局もまた多数の番組のスポンサーを失い、業績ダウンが相次ぐ。大幅な経費削減やリストラも行われる。番組制作会社に委託する製作費は1本につき、少なくとも数百万円は減り、倒産や廃業する制作会社も増えた。番組制作会社の9割以上は正社員が100人以下で、売上は10億円に達しない。

衛星放送で受け入れる派遣ディレクターの数も大幅に減る。一時期、東京に本社を構えるキー局全体で2000~3000人はいると言われた派遣ディレクターは、90年代後半から2003年前後までに1000人近くが放送局との契約を解除された。

また、この頃には海外の放送局がつくった番組をそのまま放送するのではなく、衛星放送部で独自に制作した番組を報じるようになった。語学に堪能なディレクターが求められる機会がめっきり減る。



05 ―――

借りられるだけの額を借りていた

 

Mが経営するAで放送局に送り込んでいた派遣ディレクターは、最も多い時期の1990年代半ばで、約90人。だが、年々減り、2003年には40人程になる。

放送局の契約を解除されたディレクターを解雇にすることは法律上難しい。30人程を本社オフィスで雇うことになるが、受け入れる経営的な余裕も担当させる仕事もない。かつてはMが興奮し、怒鳴り散らせば辞めていったが、30人を相手に罵倒して退職する手法は通じない。

2001年頃から、給与日に賃金を払うことができない月が数か月続く。本社オフィスに勤務する社員や派遣ディレクターが10数人辞めるが、残る社員らに給与を払うことができない。

ある時、労働基準監督署に訴える社員が現れた。それを受けて、労働基準監督署は会社に来て、Mに「ほかの社員にも賃金の遅配や未払いがあるのではないか」と言う。Mは止むを得ず、それを認め、早期に支払うことを受け入れる。しかし、そのような余裕はない。

Mは総務の管理職に当たり散らし、「銀行に融資をしてもらえるように懇願せよ」と命じる。だが、すでに数億円の借金がある。融資の額は少なく、焼け石に水だった。

Mは90年前後から90年代後半までに「海外の放送局の視察」と称して、会社の経費を使い、家族や親類を連れて海外旅行を繰り返した。都内中心部に1億5000万円を超えるマンションを購入し、1500万円程の外車や3000万円を超えるクルーザーを買う。前妻との間に生まれた息子を私立大学の医学部に進学させる。

この時期に銀行から借りられるだけの額を借りていた。しかも会社の経費や自分のプライベートマネーなのか、区別がつかない。



06 ―――

倒産

 

03年頃には経営状態がますます悪化し、資金繰りが深刻化する。04年に不渡り寸前となっても、ワンマン経営を長年してきたMには、相談ができる相手が社内にはいない。知人から紹介を受けた経営コンサルタントや税理士、弁護士とも激しく喧嘩をしてしまう。

この時期、再婚した妻とも口論が絶えなかった。時に殴ることもあった。別居の末、離婚する。その父親とも疎遠になり、役員を辞めさせる。報酬を払うことができなくなっていたために、父親は「報酬を支払うように」と弁護士から内容証明郵便を送る。だが、支払う資金はない。

東北に住む弟は、自らの意志ですでに役員を退任している。Mはお金を借りに行くが、断りを受ける。友人や知人を頼り、借金を頼むが、1人も承諾をしない。はるか前に離婚した最初の妻に連絡をしたが、借りることはできなかった。

銀行や信用金庫、ファイナンス系の会社、取引先、役所、さらには電気やガス、水道の料金の支払い催促や督促が1日に数件は来る。1か月で150件を超える。

ついには、この時点で40人程の社員のうち、約15人が労働組合ユニオンに入り、賃金の支払いを求める。残りの25人程の約10人が弁護士を通じて督促状を送ってきたり、労働相談情報センター(東京都の出先機関)に訴えたりして、未払いの賃金の支払いを求める。

会社は2005年の時点で事実上、倒産に近い状態となる。売上は1億5000万円ではあったが、それをはるかに上回る支払いがある。Mは、意に介さない。「悪いのは、期待に沿えない社員や税理士、弁護士、銀行やファイナンス系の会社」と言い放ち、自らを顧みない。

2005年の暮れに銀行取引停止となり、倒産の扱いとなる。Mは弁護士にすべてを依頼し、債権者集会に出ることもしなかった。社員や取引先への支払いのほとんどは自己破産のため、免れた。実際は海外の別荘や株式、土地などの資産は倒産前に数人の知人にいったん譲り、名義を変えていた。10数年後に自己破産から回復した後にまた、自らのものとした。

2023年の現在、70代半ばとなり、医師となった息子やその妻、孫らに囲まれ、悠々自適の生活を送る。債権者となった銀行や信用金庫、ファイナンス系の会社、社員らにはお金は支払われていない。Mは、決して電車には乗らない。この人たちに会うのを避けるためだ。常に息子や義理の娘が運転する車に乗る。



07 ―――

自分に跳ね返ってくる、とリアルに考えることができない

 

この事例をどう捉えるかー。おそらく、Mに賛否両論の意見はあるのだろうが、創業者で大株主である社長に、こういうタイプがいることは否定しがたい事実である。ビジネスチャンスを見つけ、それをビジネスにする発想力や行動力は通常の会社員ではまず見かけないものだ。

社員らへの対応にも大いに問題はある。だが、創業前に会社員の経験がなく、部下を持ったこともないのだ。それでいきなり、会社を経営するのだから無理もないのではないだろうか。こういう男性を特殊なタイプと見るだろうか、それとも創業者に多いタイプととらえるか。

「多い」とは言えないが、決して少なくもないのだ。会社員経験が10年以下で、管理職の経験に乏しい人は相当に多い。このタイプは得てして、5~8億円までは比較的スムーズに進むが、壁にぶつかる。

チームをつくることが苦手で、部署を設けながらも次々と壊してしまう。役割分担やそれにともなう権限と責任の明確化は、大の苦手だ。社員を時間をかけて育て上げることがなかなかできない。不満があると、仕事を取り上げ、自分でしてしまう。それが経営者である自分に跳ね返ってくる、とリアルに考えることができない。



 

08 ―――

10億円の壁を超えるのは、自分を乗り越えること

 

危機はある日突然、現れたわけではない。派遣するディレクターを増やしていた1990年前半に、30歳前後の社員が会議でこんなことを進言した。

「特定の放送局に派遣を続けると、そこと何らかのトラブルになった時にまずい。派遣する放送局を増やし、リスクマネジメントをしたほうがいい」

Mは、殴らんばかりに怒った。執ように退職勧奨を続け、1か月後に辞めさせた。

90年代後半には、30代前半の男性がまた、会議の場で話した。

「派遣ビジネスだけでは、危うい。これだけの人数の派遣ディレクターが仮に契約を切られたら、パニックになる。派遣するのを放送局以外に、例えば金融機関やメーカーの社内放送セクションにも広げるべき。あるいは、本社で通訳や翻訳の仕事を企業や団体、役所から請け負ったほうがいい。派遣ディレクターは派遣先との契約が切れたら、当分はその仕事をすればいい」

Mはキレた。意見を言うものを許さなかった。数か月後に男性は辞めた。進言をする社員は他にも数人いたが、ことごとく辞めさせられた。

10億円の壁を超えるのは、創業経営者にとって自らを乗り越えることでもある。だからこそ、難しい。





著者: JOB Scope編集部
新しい働き方、DX環境下での人的資本経営を実現し、キャリアマネジメント、組織変革、企業強化から経営変革するグローバル標準人事クラウドサービス【JOB Scope】を運営しています。