日本企業で、昨今よく耳にするようになったのが「人的資本経営」という言葉です。
2020年に経済産業省の「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」が、通称『人材版伊藤レポート』と呼ばれる報告書を公表したのがきっかけです。これは、座長である伊藤邦雄(一橋大学CFO教育研究センター長)の名前に由来します。
人材版伊藤レポートでは、人材の価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる人的資本経営というあり方を提唱しています。
ただし、この提唱内容だけでは「人的資本経営は、ひとつの考え方としては理解できるが、これまでと何が変わるのか」や「抽象的な概念過ぎて、何に取り組めばいいか分からない」という声も聞かれます。 そのため、真の人的資本経営ビジョンのもと、どれだけ小さなHR施策であっても一歩を踏み出せる企業と、動き出せない企業の差が生じているのも事実です。
今回の記事は、人的資本経営を単なる「お題目」で終わらせないために、人事部門が成すべきことについて考えていきます。
人的資本という概念は新しいものではなく、一説には18世紀イギリスの産業革命時代にさかのぼるともいわれます。
海外では日本よりも先行して、「人的資本経営」を導入する動きが進んでいます。 欧州では2017年以降、企業に対して人的資本に関する情報の開示が義務付けられました。アメリカでも、米国証券取引所が上場企業における人的資本についての情報開示ルールが30年ぶりに改定されました。 アメリカの知的財産に関するアドバイザリー企業であるOcean Tomoが発表した「Intangible Asset Market Value Study」によると、S&P500の市場価値の構成要素として、近年は無形資産が大きく増加しているのも見逃せません。 1975年には有形資産が8割ほどだったのが、2015年には逆転し、2020年には無形資産の割合が9割を超えていることがわかります。 市場価値の構成要素として無形資産が重視される傾向からも、人的資本が企業競争力に与える影響の強さがうかがえます。
【参考】OCEAN TOMO「Intangible Asset Market Value Study」
一方、日本企業に目を転じると、人的資本をはじめとした無形資産に目を受けている企業はまだ少数という印象が拭えません。
逆の見方をすると、世の中の企業に先駆けて人的資本経営に対応する施策を講じれば、数年後には大きな競争力につながる可能性があるともいえるでしょう。
人的資本“経営”の名称に影響され、人的資本経営は経営者あるいは経営陣が考えるべきとお考えの方もいるかもしれません。
しかし、人的資本経営は「経営」と「人事」がセットになって取り組まないと、本来的な価値が享受できないといえます。
経済産業省の提言で注目すべきは、従業員を「人的資本」(Human capital) と定義している点です。
つまり、経営者・経営陣が従業員を「資本」と位置づけるスタンスが、まずは何より必要となります。 そこからもう一段、ブレイクダウンしていきます。 従来の日本企業は、従業員を「人的資源」(Human resource) と捉え、採用費や教育費などは「費用」とする考え方が大半でした。
従来型の考え方では、「資源」という言葉の通り、従業員が身に着けた能力を、いかに効率的に「消費」するかという解釈になります。 そのため、人材に投じる資金はコストとして捉えられ、いかに支出を抑えるかがマネジメントの主眼になりがちでした。
人的資本経営下では、従業員の位置づけや定義を変えたうえで、HRや組織開発に関する予算を消費ではなく「投資」と捉えるのです。 これまで「資源」的に施していた人事制度や人事施策を、人事部門が主導で「資本」へと変更する必要があります。
人的資本経営が流行言葉で終わらず、日本企業に浸透するためには、このように経営と人事が一枚岩となって取り組む必要があるといえるでしょう。
で現実的に、人事部門が主導で人的資本経営に取り組もうとすると、一体何をすればいいのでしょうか。 ここでは「伊藤レポート」で提言されている「人材資本経営を進める上での、3つの視点と5つの共通要素(3P・5Fモデル)」の枠組みについて解説します。
第一に、経営戦略の実現を支える人材戦略を構築・実行すること、そして現状とのギャップを定量的に把握した上で定期的に見直しを行うことが重要です。
前提として「As is-To beギャップ」を把握するためには、従業員のデータを迅速に収集できるよう、あらかじめ人事情報基盤も整備しておく必要があります。また、新たな人材戦略を企業文化へと定着させるには、経営トップが自ら積極的に発信し、直接従業員と対話することが有効とされています。
その中でも特に注目したいのが、一つめの「経営戦略と人材戦略の連動」です。 経営戦略と人材戦略は車の両輪のような関係で、連動し合って真の効果を発揮するからです。 このため、同レポートでは「企業は自社のビジネスモデルや経営戦略に向き合い、自社に適した人材戦略を考える必要がある」と強調しています。 現状でも、経営戦略と乖離した人事戦略を掲げている企業は稀かと思います。 しかし、細かい人事施策は経営戦略とは独立し、その時・その場で最適な施策を講じている企業も少なくありません。
例えば、若手社員向けの研修を例にとって説明します。「3年目は中だるみしやすく、リテンションの心配もあるから、交流も含めた研修を企画する」では、人事目線・現場目線に偏り過ぎの理由かもしれません。
「中長期で新ビジネスを生み出すためには、若手のアイデアが不可欠なので、早いうちから発想力を鍛える研修を企画する」と説明できることが、経営戦略が人事施策レベルまで連動している状態でしょう。
では、次に伊藤レポートの「5つの共通要素」をもとに、人事施策レベルで何をチェックすべきかをさらに探っていきます。
人事部門が旗を振っていく上で特に重要視すべき観点が、以下の5つの共通要素です。
動的な人材ポートフォリオ
知・経験のダイバーシティ&インクルージョン
リスキル・学び直し
従業員エンゲージメント
時間や場所にとらわれない働き方
一つずつ、具体的に取り組む際のポイントを解説していきます。現実的には5つの要素に見合った施策を一気に動かすのは、よほどのリソース余力がないと難しいでしょう。
そのため、自社の課題や施策インパクトの大きさを思い浮かべながら、優先順位を組み立ててください。
人材ポートフォリオと聞くと「仕組み」や「管理システム」を思い浮かべる方も多いかと思います。
しかし仕組みやシステムを構築することは、目的ではありません。構築してからが、重要です。
「動的」と記述されているように、ビジネスモデルや経営環境の変更に応じて、柔軟に対応できることがポートフォリオ運用のポイントです。仕組みを活用して「どんな人材がどこにどれだけ必要か」というTo beを考え、As isとのギャップを配置転換・採用などで埋めていく運用が望まれます。
運用を通じて、徐々に多様な個人が活躍する人材ポートフォリオに近づけていくことが要諦でしょう。
多様な従業員、チーム・組織が活性化していることによって、生産性の向上やイノベーションの創出が実現します。
組織開発や風土改革に近い取り組みとなるため、日本企業の人事部門は苦手意識がある領域かもしれません。現場マネジメントの意識改革や、インナーコミュニケーション施策も含めて、地道に取り組むことが秘訣となります。
時間はかかるものの、個々人の多様性が対話やイノベーション、事業のアウトプット・アウトカムにつながる環境に近づくでしょう。
リスキリングも人的資本経営同様、ここ数年日本企業に広がりつつあるムーブメントです。
ただし、DX化の影響を受けて、リスキリングの内容がITリテラシーに偏り過ぎている企業も多い実態もあります。
経営戦略実現のために「誰の・何の能力開発が必要か」は改めて考案することが望まれます。
また、リスキリングの浸透ポイントは、社員の自主性に委ねすぎず、さりとて、強制しすぎないスタンスです。
社員個人の成長が経営成長に繋がるというビジョンを示し続けつつも、社員個々人がモチベーションを高めながら学べる環境に配慮しましょう。
人的資本経営の施策を行う上で、必要不可欠な要素が従業員エンゲージメントが良好であることです。
本記事で紹介した人的資本経営のいずれの観点でも、経営や人事が一方的に施策を押し付けるのではなく、従業員からの賛同・コミットメントが前提となります。
従業員エンゲージメントが低下したままの状況では、どのような施策を打っても効果は見込めないでしょう。
従業員エンゲージメントが把握できていない場合は、まずは可視化を進める必要があります。
現在はクラウドで実施可能なパルスサーベイもあるため、着手しやすい手法を選ぶことがおすすめです。
「ワーク・ライフ・バランス」が声高に叫ばれるようになり、急速に日本企業で取り入れられたのが働き方に関する観点です。
重要なのは制度を導入するだけではなく、きちんと「使われているか」に注視することです。
例えば、リモートワークが導入されても、上司が毎日オフィスに出社しているため、メンバーが制度を利用しにくいという状況も散見されます。
制度ではなく風土として根付かせることを見越して、導入だけではなく浸透施策も合わせて検討しましょう。
「人的資本経営」でメディアに登場する企業事例を見ていると、大手企業が中心の取り組みと誤解されがちな傾向もあります。
しかし今回ご紹介したように、人事で舵取りをする取り組みにまでブレイクダウンしていくと、規模を問わず取り入れられる内容であることはご理解いただけることでしょう。
むしろ、社員数が少ない中堅中小企業の方が、大手企業と比べると社員一人の影響力は大きいといえます。
「人的資本経営」はあくまで概念・捉え方です。したがって、その概念を動きにまでブレイクダウンするミッションは、人事部門が担っているのです。
人的資本経営は、大がかりな制度変更や大型のシステム導入が必要なわけではありません。
現在運用している人事評価面談や社員研修を、「人が資本」という視点で捉え直すことに、十分意味はあります。
そして、見直せる部分から着手するだけでも、人的資本経営への一歩目を踏み出したといえるでしょう。