多くの経営者が人的資本を「最も重要な資産」と位置づけているにも関わらず、貸借対照表で認識されることはなかった。その点に問題意識を抱き、逸早く人的資本の本質的な特性を解き明かしてきたのが、神戸学院大学経営学部教授の島永和幸氏だ。著書『人的資本の会計-認識・測定・開示-』では、人の持つ知識・スキル・能力等に着目した会計のあり方、すなわち「人的資本の会計」がいかにあるべきかを提示している。「日本も人的資本の会計時代がようやく幕開けした」と語る島永教授に、人的資本会計への向き合い方を聞いた。インタビューの後編では、人的資本会計の概要や時代観を語ってもらった。
従業員の人件費は費用という言葉がついているように、販売費及び一般管理費の一つの項目として、給与や年金、健康系などさまざまなところにお金が掛かっています。さらには、メーカーであれば、製造原価の中にも入ってきます。ということは、全て費用として損益計算書の項目として扱われてきたわけです。
会計自体が経営者の判断を歪めてしまう可能性があります。人件費は損益計算書上の費用項目であり、人件費を削減すれば手っ取り早くコストが浮き、利益を計上しやすくなります。有名な大手自動車メーカーのV字回復もその一例と言えます。ただ、日本企業には伝統的に人を大事にする思想が根付いていました。終身雇用や年功序列に代表される日本的経営が有名です。
統合報告書などで「従業員は我が社で最大の資産です」というお決まりの言葉がみられます。しかしながら、貸借対照表上では、人的資本は計上されていません。会計は実態を映し出す鏡であるといわれます。では、人的資本を資産として捉えたときに、会計システムの持つ本来の役割の中で、いかに人的資本を貸借対照表上に計上していくか問われることになります。
とはいえ、人的資本をいくらで測定するのかといった測定可能性の問題や、モノの場合は自らなくなることはありませんが、人の場合には優秀な人材であればあるほど、他の企業に移ってしまう可能性があります。つまり、優秀な人材をコストと時間をかけてせっかく育てたのに、競合他社に奪われることになるわけです。そこをどう捉えるかですが、投資家や経営者といった利害関係者は、あまりネガティブな話として考えるのではなく、むしろ人材が、その国で好循環しているとポジティブに捉えられるような発想の転換が求められているといえます。
昨今は、タレントマネジメントという言葉も良く耳にします。あるポストに対して、どれぐらいの期間埋まっていないのかといった話も出ていたりします。実は人材が余っている部分もあるはずです。私はこれまで日本の政策は、中小企業にかなり寄り添っていたと思っています。それは、保証も含めてです。何かイレギュラーなことがある度に、生産性が低い企業、あるいは赤字で倒産すべき企業に手が差し伸べられてきました。結果的に、そこで働いている人たちの雇用は守られますが、他の人材が不足している分野への労働力の移動を政府主導で妨げているという側面も否めなせん。
今の中小企業の経営者の人たちは、「社会に守ってもらいたい」「低賃金で働ける人材を確保したい」と思っているのかもしれませんが、市場経済の弱肉強食の中で、本来淘汰されるべき中小企業の人たちを守ってきたがために、新たな価値創造が生まれて日本独自のビジネスモデルが確立していく成長の芽を摘んできた側面もあるように感じています。そこも、人的資本の情報開示で悪い部分を洗い出していく必要があります。この点を指摘している研究者はあまりいません。特に人事系の方だと良い面を強調されがちです。そうではなく、やはり大きな目で見た時に、「陰の部分をこのままで放置していて良いのか」という議論もあわせて行っていく必要があるように思います。
大企業に視点を変えると、「今期は3兆円の利益を上げました。素晴らしいでしょう」ではなくて、「利益は1兆円です。これは取引のある中堅・中小企業にも価格を転嫁したがためです。それによって当社はサステナブルな経営が実現できています」とアピールしていかないといけない時代に入ってきています。その時に、人的資本の会計は情報開示を通じて成されます。単に一企業の投資を集めるだけではなく、人権を守ったり、あるいは地域の雇用を守ったり、ひいては日本経済の成長エンジンに繋がっていくような問題解決の一助になっているという気がします。そう思って、研究をずっと続けてきました。
そうです。これまで人的資本の情報開示に関する研究があまり本格的に行われてこなかったというところが、一番大きいわけです。もちろん、有価証券報告書の中で平均の給与額や従業員数など一部の情報は開示されていました。人的資本の情報開示が各国で義務化されていますが、「ISO30414(2018年に国際標準化機構が策定した、人的資本情報開示のガイドライン)にこういう項目があるからそれを守る」「それさえ守っていれば問題ない」といった印象も見受けられます。果たして「本当にそうなのか」という疑問が私の中にはあります。
人的資本の会計時代の幕開けと私が言っているのは、「自分で考えましょう」というメッセージです。「与えられたものを鵜呑みにして受け入れるのではなくて、もっとクリティカルなことがあるのではないか。優先順位が違うのではないか」と問いかけているのです。
例えば、人的資本の会計の中には「生活賃金(Living wage)」(労働者が生活水準を維持するために必要な賃金)の開示があるのですが、人事の方はあまり語りたがりません。何故なら、コストが上がるのを嫌がるからです。賃金を沢山払うことを保証してしまうとコストは上がってしまうからです。
つまり、人的資本の情報開示で解決すべき課題は、社会問題の縮図ともいえます。そう考えていくと単なる人事の問題に矮小化すべきではなくて、経営者の問題となってきます。人事や環境、技術、CSRなどと問題に合わせて役割分担をサイロ化してきた歴史を統合するというのが、統合報告の理念です。それがやっと動き出してきたということで、人的資本の会計時代の幕開けだと期待を込めて発言しているわけです。
――島永先生、ありがとうございました。
島永 和幸氏
神戸学院大学
経営学部 教授
1975年長崎県生まれ。1998年長崎大学経済学部卒業。2003年神戸大学大学院経営学研究科博士課程後期課程修了(博士(経営学))。2003年神戸大学大学院経営学研究科 助手、2004年神戸学院大学経営学部 専任講師、准教授を経て、2019年より現職。専門は、人的資本会計、サステナビリティ基準、国際会計。とくに、人的資本の開示や会計問題に関心を持つ。主な著書に、『人的資本の会計-認識・測定・開示-』(同文舘出版、2021年)がある。同書にて、グローバル会計学会2020年度学会賞(2021年)、日本公認会計士協会学術賞(2022年)受賞。