日本企業の最大の問題点は、「事業ポートフォリオの組み替えが進まないことである」と指摘されているのが、一橋大学大学院経営管理研究科 教授の円谷 昭一氏だ。「成長分野に人材を異動させ、変革を進めていかなければいけない」と主張する。金融庁が策定するコーポレートガバナンス・コードに織り込まれている「人的資本」の意味合いも同じ方向性といえる。「人的資本は人事の問題でも開示の問題でもない。あくまでも経営の問題である」と強調する円谷昭一教授にその本質を聞いた。インタビューの前編では、コーポレートガバナンス・コードにおける人的資本マネジメントの目的や開示の意義などを語っていただきました。
そもそも、私が何故人的資本に関する書き物を書いているのかと言えば、2020年から金融庁が運営する「スチュワードシップ・コード及びコーポレートガバナンス・コードのフォローアップ会議」のメンバーになっているからです。これは、スチュワードシップ・コード(機関投資家の行動規範)やコーポレートガバナンス・コードの策定・改訂を検討するための会議体です。なお、この場で述べることはすべて円谷の私見であり、金融庁またはフォローアップ会議の公式見解ではありません。
コーポレートガバナンス・コードとは、上場企業に求められる企業統治(コーポレートガバナンス)における指針として位置づけられる原理・原則です。日本では2015年に制定されました。以後、3年に1回の改訂を基本としており、2018年と2021年に改訂が行われました。
2度目の改訂となった2021年に企業の持続的成長を促すことを意図して「人的資本」に関する情報開示という項目が初めて織り込れたのです。経済産業省が「持続的な企業価値の向上と人的資に関する研究会 報告書 ~人材版伊藤レポート~」を公表したのが、2020年ですから、相前後したタイミングとなりました。
「人材版伊藤レポート」の目的は、おそらく人材の価値をいかに高めるかという点にあると私は考えています。一方、コーポレートガバナンス・コードでは事業ポートフォリオの見直しという目的のために人的資本のマネジメントを提唱しています。
詳細は省きますが、2021年の改訂版コーポレートガバナンス・コードでは、3つの項目で人的資本という言葉が盛り込まれました。狙いは、日本企業に事業ポートフォリオを組み換えてもらいたいということです。つまり、多角化をしてしまい不採算の事業を抱えている会社に不採算事業を外してもらい、その事業で活躍できる企業に渡す一方、自社で強みがある分野は他社から事業を譲り受けて、より強みを強化するというポートフォリオの再編を促し、利益率を高めることが目的となります。
元々、2015年にコーポレートガバナンス・コードを策定した段階から、ポートフォリオの再編を目指してはいたのですが、なかなか進みませんでした。何故かと言えば、それぞれの事業に従業員が張り付いていて、既得権益化して動かせてなかったからです。そこで、ここは事業に張り付いている従業員のスキルを見える化し、浮かせてあげれば、その下に入っている土台である事業が動かしやすくなるのではという発想で、人的資本という言葉をコーポレートガバナンス・コードに入れたのではないかと私は考えています。
従って、この人的資本という言葉は、常に事業ポートフォリオに関する実行や見直しとセットになっています。あくまでも、人的資本は主ではなくて従です。目的は事業ポートフォリオの組み替えになるわけです。
私が副審査委員長を務めた「第3回日経統合報告書アワード」(主催:日本経済新聞社)で優秀賞を受賞された荏原製作所の統合報告書(アニュアルレポート)2023を題材としてご説明しましょう。
その中に、「技術戦略と技術元素表」と題する特集が組まれています。技術元素表とは、荏原グループが持ち合わせているコアコンピタンスと技術人材を元素表に見立ててマップ化したものです。具体的には、荏原グループにインフラカンパニーやエネルギーカンパニー、建築・産業カンパニーなど5つのカンパニーがあるのですが、必要となる64もの技術を元素記号のように特定化しています。内訳としては、それぞれのカンパニー特有のコア技術と複数のカンパニーでの共通技術、全社的な横断技術があります。
この技術人材マップと技術元素表を策定することで、従業員がどのような技能や技術を持っているのかがわかります。さらには「あなたにはこういう能力を期待しています」みたいなものも見える化することで、「このスキルはこの事業で必要なのでこちらに移ってください」と促すこともできます。
金融庁の目的も、あくまでも事業ポートフォリオの組み替えをしやすくするために人を動かしやすくすることだと思います。なので、私も日頃のセミナーではそうした目的に基づいてお話をしています。
例えば、今ある会社がA事業とB事業の二つを営んでいるとします。それが仮にn年後はA事業は縮小し、B事業は拡大するとともに新たにC事業にも進出するとします。となると、C事業で生み出すべき価値は、既存のAないしB事業の人材を再配置するか、リスキリングないしは外部から投入していかないといけません。このように考えるのが、事業ポートフォリオの組み換えを目的とした人的資本のマネジメントです。
ですので、人的資本のマネジメントでやるべきことは4つに集約されます。
1.今自社が手掛けているA事業とB事業で保有している自社のスキル、いわゆる全てのカレントスキル(現在スキル)を見える化する。
2.未来に必要なスキルを明確化する。これはフューチャースキル(将来スキル)と呼んで良いかもしれません。
3.そのスキルを新たに身に付ける(適材適所)。
4.ポスト(ジョブ)とマッチングする(適所適材)。
こういうことをやってほしいというのが、人的資本のマネジメントのポイントです。
そうです。従ってリスキリングも、フューチャースキルからカレントスキルを引き算すれば良いのです。式としては単純です。ないものを身につけてもらうということです。よく「学び直し」という言葉をリスキリングの訳として聞きますが、これだと今まで学んだことが駄目だというイメージになってしまいます。なので、私は「スキルや知識の追加取得」という訳を用いています。
改めて説明すると、コーポレートガバナンス・コードでは事業ポートフォリオの再構築を重視しています。そのために人を動かす必要があるということです。そうするとすぐ不採算部門の売却みたいなことを言い出す人がいますが、そうではありません。
例えば、自動車業界がエンジンからモーターへと転換する場合に、最大の問題は今エンジンに関わっている技術者をどうするかということではないでしょうか。その人たちを再配置するためには、エンジン技術者が持っているカレントスキルを可視化しなければいけません。例えば、今の仕事で使っていなくとも、「趣味でプログラミングをやっている」「実は中国語が喋れる」といった従業員もいるでしょう。理想としては、そうしたスキルも見える化していく必要があります。
一橋大学名誉教授の伊丹敬之先生は、「変革の疎害理由は3つに集約できる」と指摘されています。既得権益、資源の固定性、心理の粘着性です。なかでも、心理の粘着性が最大の問題となってきます。要は、「昨日と変わらない今日を過ごしたい」「今日と変わらない明日を過ごしたい」という想いが、組織変化にとって最大の阻害要因になるわけです。なのでスキルを明確にして、「あなたはこういう能力があるから、こういう事業でもしっかりやってもらえるよね」と伝えれば、「新しいことをやってみよう」という気持ちになります。それによって、その人たちがいる土台である事業を動かしやすくなる、そういう発想です。
例えば、レゾナック(旧昭和電工)の髙橋秀仁社長です。「RESONAC REPORT 2023」でこう述べておられます。「レゾナックの人的資本経営として、ポートフォリオ戦略と人材戦略は合致することが必要です。(中略)レゾナックの人的資本経営の強みは、CEOとCHROが完全にシンクロして、これに全てをかけていることだと思います。もう一つの強みは、私が10年後の姿を明確にイメージできていることだと自負しています」
髙橋社長は、将来ポートフォリオをどう組み替えるかというセットでないと、人的資本経営は成り立たない。それだけを抜き出しても何の意味がないことを良く理解されています。なので、役員のスキルマトリックスの中にもポートフォリオ経営の実現に向けて役員がまずはどのようなスキルを持つべきであるかを明確にしています。
要は、経営陣がまずは率先して変化するということです。経営陣が将来会社をどうしたいのかというポートフォリオのイメージを持ち、さらにそれを情報開示していく必要があるのです。私は「情報開示とは勇気と決断です」と日頃から言っています。そういう勇気と決断を見せることが大事なのです。
もう一人、ご紹介します。SWCC(2023年に昭和電線ホールディングスから社名変更)の長谷川隆代社長です。同社の統合報告書2023にも記されていますが、長谷川社長は猛烈な勢いで人的資本経営を展開されています。今言ったように事業を組み替え、そこにいる従業員を入れ替えています。同時に、これまで稼働していた製造設備を撤去し、新しい製品の製造に次々と着手しています。従業員からすると、現場で働く同僚たちが別の製造現場に異動になるということが目の前で実際に起きているわけです。それによって、「この社長は本気で取り組もうとしている」というトップの意思が現場の社員たちに明確に伝わります。
開示とはこういうことを見せつけることでもあります。なので、そうした開示とポートフォリオの組み替え、さらにはそこで働く人たちにどういう能力が必要かというフューチャースキルの見える化、引き算をするためのカレントスキルの明確化、この辺りがポイントになってくると思います。
そんな1年や2年でできる話ではありません。ただ、それをやらないと事業ポートフォリオの組み替えはできないというのが、私の考えです。これは、あくまでも大手企業、すなわち多角化のデメリットが生じている会社を組み替えることが目的になります。それが一つ目の視点です。研究者の視点とでも言いましょうか。一方でこれとは別な視点もあります。それは教育者の視点です。
去年あたりから、多くの企業から学生の採用に関する問い合わせが寄せられています。「新卒が取れない。特に3つの数字が悪化している」と言うのです。具体的には、「そもそも応募者数が激減している」「内々定の辞退率が大きく上昇している」「入社後すぐに辞める率がすごく上がってしまっている」という3つです。「若者が何を考えているのかを知りたいので、円谷先生のゼミに行って15分でも良いので時間をいただき、学生さんと意見を交換させてほしい」などといった依頼が届いています。
もう既に人が採れなくなっているのは事実です。しかも、今後は人口の減少が顕著ですからね。現在の大学4年生が生まれた2003年の出生数は、112万人です。それだけの数がいても、もう既に新卒採用が難しくなってきています。実は、2023年の出生数は75万人ちょっとです。もう3分の2です。そうなると今後ますます採用環境は悪化します。
仮にこの75万人に平均寿命の80歳を掛けると、日本の人口が今の1億2000万人から30、40年後には半分くらいになってしまいます。簡単に言うと、国内の売上が半減するということです。その中で本当に生き残れるかどうかを経営陣が考えているのですかという、そうしたことを問い直しているのが、もう1点です。
今一橋大学商学部の卒業生が行く就職先を見ると、コンサルティング会社と資産運用会社が上位を占めています。数年前までは大手の金融機関も入っていましたが、トップ10にも上がってこなくなっています。意識が大きく変化して来ていることが見て取れます。
やはり我々の世代では、人事の発想・視点は新卒入社から定年退職までの全期間における、従業員の幸せの面積をいかに最大化するかにありました。いわゆる、「積分の発想」だったわけです。しかし、今の学生は「微分の発想」で生きています。つまり、「20代にどれだけ自分のスキルを高めることができるか」という20代でのスキル向上の「傾き」を彼ら彼女らは重視して就職活動に臨んでいるようです。
そんな1年や2年でできる話ではありません。ただ、それをやらないと事業ポートフォリオの組み替えはできないというのが、私の考えです。これは、あくまでも大手企業、すなわち多角化のデメリットが生じている会社を組み替えることが目的になります。それが一つ目の視点です。研究者の視点とでも言いましょうか。一方でこれとは別な視点もあります。それは教育者の視点です。
例えば、「最初の3年は地方の支店だ」みたいに金融機関が行っているような人の使い方をしていると、急激に学生が来なくなります。「積分の発想」を「微分の発想」にしないといけません。どうしたら良いかという問い合わせが企業から来るので、私のホームページでは、学生が就職活動で何を重視しているのかをテーマにした学生対談の動画を配信しています。
学生による「就職したい」会社座談会(45分)
http://tsumuraya.hub.hit-u.ac.jp/corporate.html
これは、45分ぐらいの動画です。それをご覧になった企業の採用担当者から、「このままではいけない。取締役会で役員に話してもらえませんか」と依頼されたこともあります。
やはり、学生が重視しているのは、「配属リスクが少ない」ということです。いわゆる、“配属ガチャ”(希望する勤務地や職種に配属されないかもしれないという不安な状態)をすごく気にしています。「最初の3年はこの工場で働いてもらいます」と事前に何の説明もなく、行かされることをものすごくリスクだと感じています。今までそうだったからは、もはや通用しません。
一方で、最も気にしないのはワークライフバランスです。逆に20代のうちは、思い切り仕事をしたいという学生が結構います。なので、その辺りの企業と学生とのギャップが出ているような気がします。今後、企業の将来を見る上でとても重要なモチーフになってくるのではと思ってます。開示の事例としてもう1社、紹介しましょう。
ある大手食品メーカーの事例です。同社の統合報告書2023に人財マネジメントに関する章が設けられています。
各社とも「女性活躍」を謳い、女性管理職の比率を開示していますが、「女性活躍の定義は何ですか」と聞くと、そこは意外と考えていなかったりします。管理職の比率は法定開示の項目なので、それで開示しているだけだったりしています。もちろん、女性が管理職になることは女性活躍の一部であることは、私も否定しません。ただ、それだけが女性活躍なのかと言うと疑問です。「そうではないでしょう」と言いたくなります。言い換えれば、現状では管理職は男性が多いはずです。それをもってして、男性が今活躍していると言えますか。そうではないですよね。と言うことで、「活躍」の定義を考え開示している会社はまだ少数です。
そんななかで、同社では中核人材における多様性を打ち出しており、2050年の目標として男女が「ともに」活躍することを掲げています。「活躍」の定義が曖昧になっている問題を理解されているからです。
従業員エンゲージメントのスコアも開示されています。それを見ると35歳までと36歳からで仕事への満足度が全く違うことがわかります。35歳以下の場合は、仕事への満足度がすごく少ないです。それが36歳以上になると、満足度がすごく高く、完全に二極化しています。その気持ちはとても良くわかります。多くの会社に「御社の従業員エンゲージメントのスコアがどうなっていますか」と聞くと、皆さんほぼ同じ傾向が窺えます。年齢の切り方で多少は変わりますが、やはり上と下でパターンがわかれます。それをそのまま放置してしまうと、優秀な人からどんどん抜けていきます。ある意味リスクと言えます。
それにも関わらず、同社ではしっかりと開示されています。「どうしてなのですか」と話を聞くと、「実際これは現実なので致し方ないです。問題はこれをいかに変えていくかです。それが、我々の課題ですので数字はオープンにします」とコメントされていました。教育者という目線で見ると、その辺りが今後の開示のポイントになってくるという気がします。
これは各社各様、もっと言えば各国各様です。例えば、米国のグローバル企業ではペイ・エクイティを重視しています。それが、米国の特徴なのです。ちなみに、ペイ・エクイティは日本語で「同一労働同一賃金」という訳になります。ダウ30銘柄に採用されているあるグローバル企業の例ですが、米国本社では「同一労働同一賃金」を100%達成したので、グローバルでも何年後に100%を目指します」と開示するわけです。恐らく、日本の企業に「御社は同一労働同一賃金の達成率が何%ですか」と聞いても、「考えたこともない」と言われると思います。スタートアップなどごく一部で「100%です」と回答する会社がある程度ではないでしょうか。
それから、中国企業の特徴は人に掛けた費用をすべて可視化することです。中国の法令で開示が求められていると聞いたことがあります。人に掛けた費用には、採用担当者と従業員の退職金の拠出額やストックオプションの費用も含まれます。他にも、トレーニング費用や給料、ボーナス、福利厚生、その他採用担当者の人件費も入ってきます。それらを込みとした開示が中国では求められているようで、各社の年次報告書でも開示されています。これも、日本の企業に「御社が人に掛ける費用の総額は幾らですか」と聞いても「わかりません」と言われてしまいそうです。そもそも、日本ではそういう会計システムがないですからね。
また、欧米では他社との従業員エンゲージメント・スコアの比較、すなわち他社よりもどれだけ優っているかを開示する企業も少なくありません。このように、開示の仕方と言っても各国各様、各社各様なので、それぞれの会社で知恵を絞って自社にとって重要な指標を開示していただきたいと思います。
ただ、そのためにも活躍の定義や「そもそも10年後の事業ポートフォリオへの組み換えをどうするのか」を検討しておかないといけません。もはや、それは人事担当者の話ではありません。経営陣の話です。やはり、経営陣がその話をしない限り、人的資本経営が進むことはないと言えます。
このあたり、人的資本をめぐる動向と主要国の動向についての詳細は、以下をご覧いただきたいと思います。
http://tsumuraya.hub.hit-u.ac.jp/data/GSS2112_P004-011.pdf
円谷 昭一氏
一橋大学大学院経営管理研究科教授
2001年3月一橋大学商学部卒業。2006年3月一橋大学大学院商学研究科博士後期課程を修了。商学(博士)を取得。埼玉大学経済学部専任講師・准教授を経て、2011年4月より一橋大学商学部教授に就任。2021年より同学経営管理研究科 教授となる。2007年より日本IR協議会客員研究員。2020年より金融庁「スチュワードシップ・コード及びコーポレートガバナンス・コードのフォローアップ会議」委員。研究領域は、企業のInvestor Relations(IR)を中心としたディスクロージャーにある。とりわけこれまでは業績予想情報、セグメント情報などに焦点を当てた研究を行ってきた。現在は政策保有株式情報などを用いて、ディスクロージャーとコーポレート・ガバナンスの関係について研究を進めている。著書に「政策保有株式の実証分析: 失われる株式持合いの経済的効果」(日本経済新聞出版)、「コーポレート・ガバナンス「本当にそうなのか?」2 ―大量データからみる真実―」(同文舘出版)などがある。