VUCAの時代と叫ばれて久しい現代。ビジネスの変容はますます激しくなっている。まさに、企業経営者にとっては、嵐の中で船をこがなければいけない状況にある。経営のプロとしてスピード感のある判断をしないと、いつ転覆するかわからないと言って良いだろう。といっても、経営者に任させていれば良いというものではない。その経営判断が、正しいのかを常にチェックする機能も重要となる。それが、ESG経営の「G」であるガバナンスだ。日本において、コーポレートガバナンスの権威と言われるのが、東京都立大学大学院 経営学研究科、経済経営学部教授の松田千恵子氏である。今回は同氏に、ガバナンスの視点から人的資本経営について語ってもらった。前編では、人的資本の重要性が高まる背景や経営人材育成の必要性を聞いた。
確かに、正直言ってバスワードという感じがします。多分、皆さん使われている言葉についてきちんと定義ができていないのではないかと思ってしまいます。しかも、人的資本経営と言った場合、さまざまなことがここに詰め込まれています。戦略人事もそうなのですが、それこそ採用からキャリアデベロップメント、働き方改革‥。もうあれやこれやという印象です。これだけをぱっと出されて、「何かを変えなければいけない」とは皆さん分かるものの、具体的に何をするのか、何の優先順位が高いのか、そういったことが明確には思い浮かばないため、手をつける、手を動かす、行動するというところに上手く繋がっていない気がします。
私自身は経営戦略、およびガバナンスを主軸に研究しています。コーポレートガバナンス(企業統治)という視点から見ると人的資本経営と言った時にやってほしいことは一つだけです。それは、経営人材を育成すること。これが、日本企業では足りていません。ここにフォーカスして取り組んでいただきたいと思います。しかし、現状ではなかなかそういったフォーカスが当たりにくい活動になっています。むしろ、少し拡散している感じがします。
ポイントとして三点挙げたいです。まず一つ目は、人口減少です。日本の経済システムは人口増大を前提としてきました。具体的には、地方から人が出てきて東京に集まり、そこで新卒一括採用されて終身雇用みたいな、昭和的なシステムが成り立っていたわけです。もはや、日本の人口は増えません。むしろ減っていきます。なので、人を確保しなければいけないというのが、マクロとしてはあると思います。
二つ目は、日本の経済システムそのものが制度疲労を起こしていて、活用できなくなっていることです。人を採用してもいつまでもいてくれるわけではないし、採った人たちが何も言わずとも一生懸命働いてくれると期待できるかどうかもわからない状況になって来ました。
三つ目は、ビジネス構造の変化です。単に物を作っていれば売れるということはなく、モノづくりにアイデアをプラスしないといけません。皆さん、コト売りだとおっしゃいますけれど、人が色々考えないと売れないようなものが主流になってきたということです。大きくはこの三点だと思います。
人的資本投資には2種類あると思います。一つは、人のスキルに投資をすること。先ほど申し上げた経営人材の育成に代表されるように、今働いている人のスキルアップをある程度企業がお金を掛けてやっていくということです。もう一つは、自分の企業をいかに魅力的に磨き続けるかという意味での投資です。もはや終身雇用の時代ではないので、自分の会社に魅力を感じなければどんどん出て行ってしまいます。働き心地を含めて会社を良くすること。その両方が必要だと思います。
そう発言されている方はおそらく、先程私が述べた人的資本としての2番目の方をやっていないのではないでしょうか。会社が魅力的、すなわち社員の方々が自分のスキルを思う存分磨いて発揮することができ、それに見合った対価をもらっていて、将来の夢の実現も可能であり、組織としても居心地が良ければ、わざわざ他を求めて動く必要はありません。そうですよね。動く必要があるということは、どれかが不安、あるいは不完全であるわけです。
だから、「意味がない」と仰る方には、「本当に社員に投資をしていますか」と聞き返したいくらいです。きちんと投資をして、しかるべきスキルを会社のおかげで身に付けることができ、将来に希望も持てる。しかも、会社が魅力的であれば、人はそれほど簡単に動かないと思います。それでも「動きたい」人の中には、「武者修行をしたい」「外の世界を見てみたい」…、そういう非常に前向きな意思を持って外に出ていく方もいます。そうやって武者修行をしてみて、やはり最終的には「以前いた会社が魅力的だ」と思ったら、また帰ってくるかも知れません。
だから、そういう人は喜んで外に送り出してあげれば良いと思います。もちろん、問題を起こして出て行かざるを得なかったなどという人は別ですが、いまどき出戻り禁止、裏切り者扱いなどというのは時代錯誤的ですし、「研修はしたけれどもそれで出て行かれると困るんだよね」などと言う人事の方には、「本当に意味のある研修をしていますか」「自分の会社を本当に魅力的にしていますか」と質問してみたいです。「この二つにイエスだと本当に答えられますか」と聞いてみたいです。
先ほど戦略人事という言葉がありましたけれども、これも定義されずに使われている言葉のようにみえます。経営としては、経営戦略がまずありきです。企業が何を目指すのか、どのような事業をやりたいのか、そこでどんなシナリオを描くのか。そういう将来像がまず必要です。それを前提として、そのそうした将来像の実現のためにどのような経営資源が要るのか、どういう人がいると、その事業が最も花開くのか、といった必要なリソースの特定に至ります。本来はそれを踏まえて、「将来像に同意して一緒にやってみたい、やることができると思う人この指とまれ」と、賛同してくれた人にまず来てほしいのです。
そもそも企業理念(ゴール)や経営戦略(シナリオ)があって、そこで描かれた将来像を実現するためにこんなスペックの人が欲しい、ではどうするのかということを考える、これが人材戦略だと思います。従って、何もなしでいきなり人材戦略はどうあるべきかという、問題の立て方はナンセンスです。将来像が明確になってこそ、企業側は「こういう人材が欲しい」というものが描けるし、逆に従業員の側、個人の側は「そういう将来像だったらそこの会社で一緒に働きたい」となります。それが先にありきではないかと思います。
今言ったことと全く同じです。経営戦略に結び付いていて、その経営戦略が的確であれば必ず企業価値は向上します。経営戦略にきちんと人の話が結びついていれば、それで十分だと思います。しかし、実際には結び付いていません。だから、問題なのです。経済産業省が指摘したのもまさにそこの視点だと思います。
繰り返しになりますが、本質的には経営戦略と人事戦略が結びついていないことです。もう少し表面的な言い方をすれば、昭和の時代には経済成長がそのまま企業成長に結び付く安定環境下にあり、一括採用、終身雇用、年功序列といったシステムがうまく機能することができました。ここでは経営戦略そのものも重きを置かれず、人材戦略も必要なく、採用した人材をいつでもどこにでも当てはめることができるジェネラリストとして扱うことができたわけです。しかし、環境が変わったのに同様なことをやり続けるのは無理です。新たな環境にフィットした「人的資本経営」なるものがあるとしたら、それは経営戦略と人事戦略の連携が前提になるでしょうし、それなしに企業価値の向上に結びつく方がおかしいです。
私は研究者なので、全体として結果が出ていると言い切るには定量的な検証が必要と考えます。そういう意味ではまだ発展途上です。しかし、少なくとも日本の先進的な大企業はかなり色々なことに取り組んでいますので、長期的には企業価値の向上に結び付くのではないかと思っています。
当然、これはその大企業が実効性ある経営戦略を立てているからなのです。経営戦略を立てて、それに人事を結びつけて、初めて企業価値の向上に結び付くのであって、「私たちは人的資本経営をやっています」と言うだけでは、企業価値の向上に結び付かないと思います。
一部の大企業、先進企業で取り組みが進み始めたというところです。従って「全くやっていなくて問題だ」と拳を突き上げるつもりはないです。皆さん、認識されていると思います。
大企業の中では、例えばインハウスのビジネススクールを作ったり、あるいは国内外の著名なビジネススクールに社員を企業派遣したりするなど色々な動きが出て来ています。ビジネススクールで学ぶことは経営の基礎に過ぎませんが、今まではそれさえもトレーニングできていませんでした。そうした基礎の勉強に修羅場体験や実地トレーニングが組み合わされてマネジメント・トレーニングとなっていきます。こうした一連の動きが既に始まっており、やがて多くの企業に波及していく、そういう段階の初期なのではないかと思っています。
育成の多様性という意味でいけば、企業も将来経営人材プールの中にどのくらい多様性があるかについてはある程度考えていると思います。ただ、現時点で経営人材と言える層についてはまだまだ多様性が実現できているとはいえません。
そういうことを言っている段階で駄目だと思います。「女性に下駄を履かせるのは嫌だ」という見地からのお話が大変多いのですが、今までは男性だけが下駄を履いていたと考えないといけないのではないでしょうか。「その男性は候補者として挙がった女性と同等の能力を持っているのですか」と考える必要があります。また、「そうした能力を磨き、発揮する機会を本当に同等に与えられてきたのでしょうか」ということも真剣に考えるべきです。
会社に入る時には、経営者の皆さんはこうおっしゃいます。「試験と面接の評価だけで採用したら、もう女性が圧倒的に多くなってしまう。どうしようか」と。だから、そこで男性に下駄を履かせて入れているわけです。下駄を履かせてようやく男性と女性で例えば5対5の割合になったとします。それがどうして10年・20年経つと、男性が9で、女性は1になってしまうのですか。そこのおかしさをもう少し考えないと駄目です。
「女性に機会を与えてこなかったのではないか」「能力を活かしてもらおうとしていなかったからではないか」とか、むしろそちらを考えた方が良いと思います。
ポイントは三点あります。まず一つ目は、企業側の「やらされ感」の解消です。サステナビリティ関連の項目は開示の義務化が進んできています。内容もまだ発展途上ですが、開示負担は増えているため何とか要請をこなそうとしていると受動的な対応に終始してしまいます。個人的には人的資本という言葉はあまり好きではないのですが、そうした言葉の定義一つとっても明確でないままとりあえず発信したり、雛型を写して事足れりとしたり、まさにやらされ感たっぷりな開示も多く見られます。しかし、本質的な開示の意味を考えてみれば、こうした人材に関する情報というのは、特に従業員候補となる外の人材市場にいる方にとって非常に興味がある情報です。
もし自分の会社で魅力的な人材を採りたいと思うのであれば、自社がどのように人材を大切にしているのかといった情報発信は、もう真っ先にやりたいと思うはずです。だから、やらされ感でやるのではなくて、そういう魅力的な人材を採るような企業だとアピールしたいと思って開示に取り組んでいくべきです。
二つ目は、定量情報の裏にある定性的な要因をきちんと考えることです。例えば、男性の育休取得率はつい最近までパーセンテージだけを競っていました。わずか1日でも育休を取ったらカウントされていたわけです。全く意味のない数字です。例えば、A社は1日育休を取った人だけで90%。B社は育休だと3カ月は取らなければいけないと決めていて、それで30%だとすると、90%と30%という数字しか表には出て来ません。どう見ても、A社の方が恵まれている、充実しているように見えてしまいます。でも実際に「どちらが良いか」と言えば、B社に決まっています。育休で1日だけ休まれても、逆に奥さんが困るだけです。できれば、3カ月どころか6カ月休むといったことができた方が従業員とその家族のためになるでしょう。
だから、数字だけではなくて、その裏にある本当はどういう制度なのかをしっかりと見ないといけません。もしそれでB社が人材市場にアピールしようと思うのであれば、「当社のの育休制度は数字としてはこうですが、こういうふうに充実している」という定性情報でのアピールもぜひしてほしいと思います。
それから、三つ目は人的資本情報のDX化をもっと推進することです。人的資本情報に限らず、これから開示しなければいけない非財務情報はどんどん増えていきます。一方で、社内でそうした情報が上手く取れない状況にあります。色々な部署、グループ会社から手書きで情報を集めてエクセルで集計したり、本当に原始的な方法で情報を集めたりしています。まるで、情報のバケツリレーです。
データベースなり、ERPなり、きちっとしたデータインフラを備えないと、そのうち回らなくなってくると思います。
情報開示は大変です。今後強制開示もさらに増えるでしょうし、ステークホルダーも情報を知りたがっています。でも、企業としては今まで非財務情報管理の仕組化はできていませんでした。親会社のデータベースはあったとしても、子会社のことは何もわかりませんといった会社も多くあります。グループ全体と見渡せる人事情報のDX化に取り組んでいかないと、そのうち太刀打ちできなくなると思います。
もともと私個人はよくお引き受けしていますし、学生が統合報告書を読むというのは、既に私のゼミでもやっています。以前からゼミの学生から就職相談を受ける機会は多いのですが、その際に私は「志望企業がどんな会社かを知るためにも統合報告書を読むように」とアドバイスしていました。今では、ほとんどの学生は就活の際に統合報告書に目を通していると思います。
それだけではなく、ゼミの課題としても取り組んでいます。複数の大学が参加し、希望される企業の統合報告書を読み、学生としての視点や感想、改善要望などを学生から企業に対してプレゼンを行うといった催しにも参加しています。そうした場で、企業と学生がダイレクトで意見交換することもあったりします。また、統合報告書なども活用した総合的な企業分析ということで言えば、「CFA Institute Research Challenge」にも毎年参加し、企業を見る眼を磨いています。これは、日本では一般社団法人日本CFA協会さんが主催される世界的なイベントで、世界各国の大学や大学院のチームが分析対象企業の企業価値評価の優劣を競うというものです。全て英語で行われています。
松田 千恵子氏
東京都立大学 大学院 経営学研究科 教授/経済経営学部 教授
一橋大学大学院特任教授
東京外国語大学外国語学部卒、仏国立ポンゼ・ショセ国際経営大学院経営学修士。筑波大学大学院企業科学専攻博士課程修了。博士(経営学)。日本長期信用銀行にて国際審査、海外営業等を担当後、ムーディーズジャパンの格付けアナリストを経て、コーポレイトディレクションおよびブーズ・アンド・カンパニーでパートナーを歴任。現在は、マトリックス代表取締役の他、日本 CFO協会主任研究委員、公的機関や上場企業の社外役員・経営委員等も務める。