近年は、経営学や経済学の領域においても心理的なアプローチが脚光を浴びいている。もはや、心理学は臨床と教育だけのものではなく、職場や産業でも応用されようとしている。日本において、その流れをけん引してきたのが、立命館大学総合心理学部 教授の髙橋 潔氏だ。産業・組織心理学、組織行動論の第一人者として広く知られている。未来が見通しにくい現代社会。特に日本は閉塞な状況を脱しきれず、未だにもがいている。人的資本経営の時代において、日本企業はいかに組織の競争力を高めていけば良いのかを髙橋氏に聞いた。インタビューの中編では、エンゲージメントの概念やビジョンの伝え方などを語ってもらった。
エンゲージメント(誓約・約束・契約・婚約などを意味する英単語)と言っても、実はワーク・エンゲージメントやエンプロイー・エンゲージメント、パーソナル・エンゲージメント(組織構成員の自己と仕事上の役割との結びつきの度合い)など、同じ言葉を使って似たような概念が登場しています。今のところは、ワーク・エンゲージメントとエンプロイー・エンゲージメントの二つが混在して使われているようです。
まず、「ワーク・エンゲージメント」とは、オランダ・ユトレヒト大学教授のウィルマー・B・シャウフェリ氏らが提唱しているワークを対象とした概念です。定義としては、仕事に関連するポジティブで充実した心理状態となります。働くことを通して、何かポジティブに感じることが大切だということです。日本では慶應義塾大学総合政策学部教授の島津明人氏が、ユトレヒト大学のグループと共同研究をされていて、厚生労働省の報告書でも良く紹介されています。ただしこれは、メンタルヘルスを意識した概念です。メンタルヘルスという言葉を使うと心理の世界にはまり、ビジネスや経営面でのメリットが薄くなってしまうからなのか、バーンアウト(燃え尽き)の反対概念として、仕事へのエンゲージメントが立ち上がってきました。
「ワーク・エンゲージメント」には3つの要素があります。
1.活力 仕事に向かうエネルギーの高さや心理的な回復力
2.熱意 仕事への強い関与、仕事の有意味感や誇り
3.没頭 仕事への集中と没頭
この3つの要素で「ワーク・エンゲージメント」を考えていこうというのが、一つの大きな流れです。
もう一つの流れが、「エンプロイー・エンゲージメント」(従業員が自社に対して抱く愛着、思い入れ)です。こちらは、米国ギャラップ社のQ12(キュー・トゥウェルブ)が有名です。エンプロイー(従業員)・エンゲージメントを12個の要素で測るというものです。Q12では、「従業員の仕事に対する関与や満足や熱意」として定義しているものの、組織コミットメントや満足度、エンパワメントなどの概念を、一緒くたにしているという批判を免れていません。ビジネス視点が強く出ているので、科学的な厳密性をそれほど重視しておらず、端的に言えば、職務満足の延長だと思っていただいて結構です。いわゆる、パルスサーベイ(従業員がどれぐらい満足しているのか、心の健康度はどうかを定点観測する調査方法)を行って、従業員のエンゲージメントのレベルを測るのに適しています。以上の2つが、エンゲージメントの二大巨頭になります。
これは、先程紹介した米国ギャラップ社の調査結果に顕著に現れています。仕事への熱意や職場への愛着を示す「エンゲージメント率」が、日本はわずか5%。145カ国中最下位でした。イメージ操作がされているのではと思ってしまうほどですが、実際のところ極端に低いです。
「それは何故か」と言われると、なかなか回答が難しいと思っています。僕の考えをまとめてみると、一番の問題は政治や経済、社会全般が停滞していて、ネガティブな印象や情報が世間に蔓延していることです。ニュースでは嫌なことばかり見ます。スポーツを除けば、明るいニュースはほとんどありません。アニメにしても『鬼滅の刃』や『進撃の巨人』など怖い作品が目立ちます。テレビやサブスクのドラマにしても、犯罪や暴力など怖そうなものが目立ちます。しかも、それらがヒットしています。ポジティブなものよりもネガティブなものに、どうしても我々の興味・関心が向いてしまうネガティビティ・バイアスという心の働きです。本当に、知らず知らずの内に、我々の内側にネガティビティが蔓延していると感じています。
ネガティビティが蔓延してきた一つの背景には、「学習性無力感」という心理的なメカニズムがあると思います。これは、ポジティブ心理学の創始者として知られる米国ペンシルバニア大学教授のマーティン・セリグマン氏が提唱した考え方です。回避不可能な不快な状態にずっと晒されていると、自分ではその状態をコントロールできないと認識してしまい、あきらめることを学んでしまいます。無力感を学習してしまうわけです。しかも、そのタイミングで感じた無力感はその場限りのはずなのに、一般化してあらゆる努力をムダだと判断して、あきらめの意識に囚われてしまうのです。
マーティン・セリグマン氏らは犬を使った実験で「学習性無力感」を証明しました。当時の心理学では、犬が飼い主のいうことを聞くのは、餌付けやしつけの結果であり、認知の働きによって学習するとは思われていませんでした。しかし、マーティン・セリグマン氏らは、犬であっても自分が置かれた状況が、自分で制御できないことを頭で学習し、身につけてしまった無力感が別の場面にも広がり、一般化してしまうことを実証したのです。「学習性無力感」は、学校の先生であれば知らない人はいないくらい良く知られた概念です。
無力感を学習してしまった人の心情を切り取ってみましょう。毎年必ず桜が咲きます。無力感に苛まれている人、メンタルに問題を抱えてる人はであれば、桜が咲いていても、世の中全体が暗く悲しくグレーに見えていて、美しいとは感じられません。それに近いかもしれません。明るくて素晴らしいはずの世界が、認知が邪魔をして、どんどん暗く悲しく不安に見えてしまう。それが全体に一般化して浸透する。エンゲージメントの尺度で捉えると、低めに出てしまうのは、ネガティビティ・バイアスや無力感といった心理的な要素が作用している結果だと思います。
ユトレヒト大学のグループでは、「職務要求・資源モデル(Job Demands Resources model: JD-R モデル)」を提唱しています。これは、仕事の要求度と仕事に使えるリソースとのバランスで、ワーク・エンゲージメントが決まるという考え方です。ここで言うリソースとは環境要因を指します。この中にリーダーシップも入ってくるし、上司のコーチングとか、あるいは会社にお金があるか、働きやすさがあるかというような要素もあります。なので、会社としてみれば、要求度の高いチャレンジングな仕事をやる時こそ、仕事に投入できるリソースをうまくまとめていくのが良いというのが一つの見解です。要求度とリソースのバランスが欠ければ仕事で燃え尽きてしまいますが、バランスが取れていればワーク・エンゲージメントが高まり、必ず成果につながるものです。
先ほどのJD-R モデルに従うと、リーダーも組織におけるリソースなのです。一人ひとりの従業員のために、リーダーがしっかりとコーチングをするのが一つの順当な考え方です。そのためには大変ではありますが、1on1ミーティングを定期的に行って、メンバーの仕事に対するエンゲージメントを高めていく働きかけができると良いと思います。
リーダーシップの捉え方は色々あるし、リーダーシップを発揮している人物を見る機会がほとんどないので、多くの方は直感的にわかっていただけません。本当に難しさを感じています。会社の中で話をする時には、まずは「リーダーシップとマネジメントは違う」というところから入り、「今まではマネジメントばかりをやってきたけれど、リーダーシップを働かせることの方がより大切だ」と何度も言って来ました。
その中でリーダーシップを機能させる時に、一番重要だと思われる事柄がビジョンという言葉です。ビジョンにしても、リーダーシップにしてもカタカナ語なので、どこまで腹落ちしてわかっていただけるのか気がかりです。なので、リーダーシップの根幹となるビジョンを、各自が映像化してみることが、リーダーとしての影響力を果たしていくために大切だと考えています。
ところで、何故ビジョンが必要なのかというと、情報が増えれば増えるほど、あるいは状況が複雑になればなるほど、正確な判断ができなくなります。意思決定をするのに、あらゆる事柄を勘案しなければいけないので、良くわからなくなってしまうからです。過剰な情報に圧倒されないために、そのルールとして方向や方針を定める。それがビジョンの役割です。自分たちが行きつく先や約束の地をイメージしていれば、状況が複雑になっても迷子にならず、必ず目標に到達できます。実は、「人材版伊藤レポート」ではビジョンとは言っていません。パーパス、存在意義という言葉を使って、同じことを説明しようとしているのです。
今、パーパス経営(自社の存在意義を明確にして社会にどのように貢献できるかを示した経営手法)という言葉が流行っています。わざわざカタカナにする理由があるのかと思ってしまいますがね。そもそも、ビジョンは未来形(to be)で、パーパス・経営理念は現在形(as is)なのです。そのあたりがぼけつつあるのですが、特にこだわりがなければ、同じようなものと思って構いません。
普通の組織でやれ「ビジョンだ、パーパスだ」と言う時は、米国の影響があるのかもしれませんが、いずれも定性的(言語的・左脳的)です。言葉を使って何かをアピールしようとすることが、定性的という意味です。でも、定性だけだと不十分なので、経営計画や目標の定量化が求められます。普通は定性と定量のセットで、組織のあり方が定められることになるでしょう。ここに一つ、気になる点が隠されています。それは、言語も数量も、両方とも左脳の働きに依拠しているということです。ビジネスは左脳が働く世界なので、いわゆる合理性が非常に大切な価値観として信奉されており、左脳主導が当たり前でした。
実はビジョンを強調するのは、右脳(直観や感性)に働きかけないと本当に人を動かすことはできないのではないかという逆張りの発想です。それが映像化のメソッドにつながってきます。古典的な脳研究では右脳と左脳の機能分化がよく知られています。左脳的機能と右脳的機能というのは、脳の構造上、違いが認められています。左脳は分析的、論理的、言語的な精神活動に優れています。一方、右脳は全体的で感覚的であり、情動的な活動に秀でています。高度な認知作業は頭の全体を使うので、決して右だけ左だけということにはなりません。そういう意味では、はっきりと二分するのが間違いですが、一応、この二つの機能に違いがあり、極端に左脳を働かせるのがこれまでの経営とビジネスのあり方でした。それをもう少し右脳に着眼してみてはというのが、僕の考えです。リーダーシップの枠の中で、映像の形で未来に向けたビジョンを創り、芸術的なものやイメージ的なもの、感性的なものに訴えていけばこそ、メンバーの心をつかみ、人を動かすことができると考えるからです。
ビジョンは何かといえば、日本語で言うと未来図です。単なるキャリア上の未来や自分が将来なりたいものではなくて、社会や組織、自分たちが将来こうありたいと思い描く夢のようなものです。重要なのは、利他的で社会性があることです。つまり、組織や社会の将来像を、絵や言葉やビジュアルで示したものが未来図なのです。これは数字の目標や計画とは一線を画します。来るべき未来の像を示して周囲に影響を与えるのがリーダーの役割ですから、フォロワーの頭の中にビビッドに像が描かれなければ意味がありません。言い換えれば、フォロワーの頭の中に像が浮かんで来て初めて、ビジョンが機能するのです。そのためには、リーダーたる者はもっぱら言葉を使うことが多いでしょう。借りてきた言葉や一般論ではダメです。大きな絵を描き、自らの言葉でフォロワーに訴える必要があります。
その点、米国の政治リーダーは、言葉が巧みです。言葉を使うことによって、社会や組織が求める姿がリアルに頭の中にビリビリっと入ってきます。一方、日本の場合には、事務方が用意してきたペーパーを読み、儀礼的なあいさつをすることが多くて、相手の心をしっかり掴むような言葉になりにくいようです。そこで、言葉に頼らずに相手の心を打つ工夫が要るということで、ビジョンの映像化を求めるわけです。
幾つかの企業で基幹職の研修として映像を使ってもらっています。具体的には、その基幹職の人に、一つ上のポストに上がった時の就任スピーチをしてもらう課題を出します。その上で、「演説をする前に自分のビジョンを映像にして伝えてください」とお願いします。映像には4つの要素を含めてもらいます。
V:記憶に残るビジュアル(画像+動画)
まずは、記憶に残るビジュアルです。画像から動画を作ってもらいます。
C:短く、力強いコピー(メッセージ)
次は、メッセージを長々と話すのではなく、短く力強いキャッチコピーの形でまとめます。
M:心に響くミュージック
三つ目が、ミュージックです。心に響くミュージックが大切になってきます。
D:魅力的なデザイン
最後に、コマーシャルのフィルムを見る時と同じですが、やはりデザインがしっかりしていないといけません。
これを略してVCMD(ヴィコマンド)メソッド、「視覚的な指揮」と名付けています。最も重要な要素が、M(ミュージック)です。画像を動かしたり、動画を作ることができるだけでは十分ではありません。特に消費者との接点がある企業であれば、使える動画を社内でたくさん持っています。また、簡単な動画であれば、AIが作ってくれる時代です。ビジョンを映像化し、メッセージを付けて伝えるのですが、その際にミュージックが大切になってきます。ビジョン映像があらかた完成した後に、「音楽を幾つか変えて試してみてください」とお願いをします。流れる音楽によって映像の感じ方がガラリと変わるし、イメージに合った音楽を付けることによって、訴求力や訴えたいことの印象とインパクトが変わってくるからです。
この裏には、ディズニーのノウハウがあります。ディズニーで大切にしているのは、動きもさることながら、音楽と花火です。特に、音楽の重要性はディズニーがすごく強調しているポイントです。音楽が付くことで伝わり方は10倍も良くなります。これは、自分が描いた絵を額に入れた時の感覚と似ています。何でもないと思っていた絵が、額装すると10倍も良く見えるはずです。なので、このビジョンを動画にするにあたっても、「音楽の流れをすごく重視してもらいたい」と言っています。そんな形で映像を作ってもらいます。
研修では、映像を見た後に就任スピーチとして自分の生の声で話をすると、映像の余韻が周りの人の頭の中にあるので、感動とともに心に響いていきます。海外でも同様です。英語を流暢に話せなくても、映像を流した後にポツポツでも良いので、自分の思いを自分の言葉で話すことによって、外国人従業員に対してのアピール力や影響力が10倍違ってきます。言葉の壁があるのであれば、映像の力や音楽の力を使うことです。それこそビジョンの役割をもたらしてくれると考えています。このような経験が背景にあって、ビジョンを高めるためには映像化が必要だと主張させていただいています。この辺りの詳細は、私の著書「ゼロから考えるリーダーシップ」(東洋経済新報社)第11章で詳しく述べていますので、そちらも一読してください。
高橋 潔氏
立命館大学総合心理学部 教授 ╱
立命館大学大学院人間科学研究科 教授 ╱ 神戸大学 名誉教授
1960年大阪府生まれ。1984年、慶應義塾大学文学部卒業。1996年、ミネソタ大学経営大学院修了(Ph.D.)。南山大学経営学部および総合政策学部助教授、神戸大学大学院経営学研究科教授を経て、2017年より現職。専門は産業・組織心理学、組織行動論。人事評価やコンピテンシー診断など、企業と人のマネジメントについて心理学的視点からアプローチ。近年、ウェルビーイング経営に関する研究にも取り組んでいる。経営行動科学学会元会長、日本労務学会元常任理事、人材育成学会常任理事、産業・組織心理学会理事、日本心理学会代議員などを歴任。著書に、「ゼロから考えるリーダーシップ」(東洋経済新報社)などがある。