コーポレートガバナンスの視点から、人的資本経営で企業に最も取り組んでほしいことは「経営人材の育成」です。東京都立大学の松田千恵子教授は、日本企業ではこれが足りておらず、人的資本経営があれもこれもと拡散する中で、ここに焦点を当てるべきだと語ります。
VUCAの時代、経営者には嵐の中で船を漕ぐようなスピード感のある判断が求められます。同時に、その判断が正しいかを常にチェックする仕組みも欠かせません。それがESG経営の「G」、ガバナンスです。
本記事では、コーポレートガバナンスの第一人者である松田教授へのインタビューをもとに、人的資本経営が拡散してしまう理由、人的資本の重要性が高まる3つの背景、人的資本投資の2つの種類、経営戦略ありきの人材戦略、経営人材の育成と多様性の現状、そして人的資本の情報開示を進める3つのポイントについて解説します。
この記事でわかること
・ガバナンスの視点から、人的資本経営で一つだけ取り組んでほしいこと
・人的資本の重要性が高まる3つの背景
・人的資本投資の2つの種類と、「育てても辞められる」という懸念への答え
・人材戦略は経営戦略ありきである理由
・人的資本の情報開示を進める3つのポイント
東京都立大学大学院 経営学研究科 教授/経済経営学部 教授、一橋大学大学院 特任教授(取材時)。東京外国語大学外国語学部卒業、仏国立ポンゼ・ショセ国際経営大学院経営学修士。筑波大学大学院企業科学専攻博士課程修了。博士(経営学)。日本長期信用銀行で国際審査、海外営業などを担当後、ムーディーズジャパンの格付けアナリストを経て、コーポレイトディレクションおよびブーズ・アンド・カンパニーでパートナーを歴任。マトリックス代表取締役のほか、日本CFO協会主任研究委員、公的機関や上場企業の社外役員・経営委員なども務める。専門は経営戦略とコーポレートガバナンス。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
戦略人事や人的資本経営は、松田教授から見てもバズワードの印象が強いといいます。言葉が定義されないまま使われ、採用からキャリア開発、働き方改革まで、あれもこれもが詰め込まれている。そのため、「何かを変えなければ」とはわかっても、何から手をつけ、何の優先順位が高いのかが見えず、行動につながっていないのです。
経営戦略とガバナンスを研究する松田教授は、コーポレートガバナンスの視点から、人的資本経営で取り組んでほしいことは一つだけだと言います。それが経営人材の育成です。日本企業ではこれが足りておらず、むしろ取り組みが拡散してしまっていると松田教授は指摘します。
| 背景 | 内容 |
|---|---|
| ① 人口減少 | 日本の経済システムは人口増加を前提に、地方から都市に人が集まり、新卒一括採用・終身雇用で働く昭和型の仕組みで成り立っていた。人口が減る今は、人の確保そのものが課題になる |
| ② 経済システムの制度疲労 | 採用した人がずっといてくれるとも、何も言わずに一生懸命働いてくれるとも期待できなくなった |
| ③ ビジネス構造の変化 | モノをつくれば売れる時代は終わり、モノづくりにアイデアを加えなければ売れない。人が考えなければ売れないものが主流になった |
出典:松田教授への取材をもとに編集部作成
松田教授は、人的資本投資には次の2種類があり、その両方が必要だと言います。
| 投資の種類 | 内容 |
|---|---|
| ① 人のスキルへの投資 | 経営人材の育成に代表されるように、今働いている人のスキルアップに企業がお金をかける |
| ② 会社の魅力への投資 | 働き心地を含め、自社をいかに魅力的に磨き続けるか。終身雇用の時代ではなく、魅力がなければ人は出ていく |
「スキルアップを図ったあげくに転職されては意味がない」という人事の声について、松田教授は、それは2つ目の「会社の魅力への投資」をしていないからではないかと指摘します。スキルを存分に磨いて発揮でき、それに見合う対価があり、将来の夢も実現できて、居心地もよい会社なら、わざわざ他に移る必要はありません。
「本当に意味のある研修をしていますか」「自分の会社を本当に魅力的にしていますか」
――松田教授
それでも外の世界を見たいという前向きな人には、喜んで送り出せばよいと松田教授は言います。武者修行の末に「やはり前の会社が魅力的だ」と戻ってくるかもしれません。出戻りを禁じ、裏切り者扱いするのは時代錯誤だというのです。
自社が社員にとって本当に魅力的かどうかは、社員自身の声で確かめるのが確実です。
「会社の魅力」を、社員の声で確かめる
会社の魅力に投資するには、社員が仕事や職場、将来にどれだけ希望を持てているかを知ることが出発点です。DEFiDEの「生成AIワークバリュー・スコア分析」は、生成AIで従業員の属性や組織の特性に合わせた質問を作成し、組織の状態を迅速にきめ細かく可視化します。
松田教授は、経営としてはまず経営戦略ありきだと強調します。何もないところで「人材戦略はどうあるべきか」を問うのはナンセンスだというのです。
将来像が明確になってこそ、企業は「こういう人材が欲しい」と描けます。そして働く側も、「その将来像ならこの会社で働きたい」と思えるのです(戦略と人の関係については、清水勝彦教授の解説記事でも紹介しています)。
経営戦略に人の話がきちんと結びつき、その戦略が的確であれば、企業価値は必ず向上します。問題は、実際には結びついていないことです。昭和の安定した環境では、一括採用・終身雇用・年功序列が機能し、採用した人をジェネラリストとしてどこにでも当てはめられました。環境が変わったのに同じことを続けても、企業価値の向上に結びつくはずがないと松田教授は言います。
一部の先進的な大企業は、実効性のある経営戦略に人事を結びつける取り組みを進めており、長期的には企業価値の向上につながると松田教授は見ています。ただし、「人的資本経営をやっています」と言うだけでは企業価値は上がりません。
経営人材の育成は、一部の大企業や先進企業で取り組みが進み始めた段階です。社内にビジネススクールを設けたり、国内外のビジネススクールに社員を派遣したりする動きが出ています。ビジネススクールで学ぶのは経営の基礎にすぎませんが、これまではそれさえ学ぶ機会がありませんでした。基礎の学びに修羅場体験や実地のトレーニングを組み合わせて、マネジメント・トレーニングになっていく。そうした動きが、多くの企業に広がっていく初期の段階だと松田教授は見ています。
将来の経営人材の候補群にはある程度の多様性が意識されていても、今の経営人材層の多様性はまだ実現できていません。「女性ばかり優遇すると男性社員から反発が出る」という声に対し、松田教授は「そう言っている段階で駄目」だと指摘します。
今までは男性だけが下駄を履いていたと考えるべきだというのです。採用試験と面接だけなら女性が多くなると、男性に下駄を履かせて5対5にしている会社もあります。それが10年、20年たつと、なぜ男性9対女性1になってしまうのか。女性に能力を磨き、発揮する機会を同等に与えてきたのかを考えるべきだと松田教授は語ります。厚生労働省の調査でも、管理職に占める女性の割合は課長相当職で12.3%、部長相当職で8.7%にとどまっています(「令和6年度 雇用均等基本調査」)。
人的資本の情報開示について、松田教授は3つのポイントを挙げています。
| ポイント | 内容 |
|---|---|
| ① 「やらされ感」をなくす | 人材に関する情報は、外の人材市場にいる将来の従業員候補にとって非常に関心の高い情報。魅力的な人材を採りたいなら、自社が人をどう大切にしているかを真っ先に発信したいはず |
| ② 定量情報の裏にある定性情報を語る | 数字だけでなく、その裏にある制度の中身を説明する |
| ③ 人的資本情報のDX化 | 部署やグループ会社から手書きやエクセルで集める「情報のバケツリレー」から脱し、データベースやERPなどのデータ基盤を整える |
松田教授は、男性の育児休業取得率を例に、数字だけを比べる危うさを説明します。
| A社 | B社 | |
|---|---|---|
| 育休の取り方 | 1日だけの取得も多い | 原則3カ月以上取ることを決めている |
| 取得率(数字) | 90% | 30% |
| 数字だけの印象 | 恵まれているように見える | 見劣りするように見える |
| 実際の充実度 | 1日だけでは家族の助けになりにくい | 従業員とその家族のためになる |
出典:松田教授への取材をもとに編集部作成(架空の例)
B社が人材市場にアピールしたいなら、数字に加えて「当社の育休制度はこう充実している」という定性情報で語ることが大切です。
松田教授は、ゼミの学生に「志望企業を知るために統合報告書を読むように」とアドバイスしてきました。今ではほとんどの学生が就職活動で統合報告書に目を通しているといいます。開示は投資家だけでなく、将来の従業員に向けたメッセージでもあるのです(人的資本の情報開示が採用に生きる仕組みは、川口章教授の解説記事でも紹介しています)。
A. 松田教授は、コーポレートガバナンスの視点から、人的資本経営で企業に取り組んでほしいのは経営人材の育成の一つだけだとしています。日本企業ではこれが足りておらず、人的資本経営の取り組みがあれもこれもと拡散しているため、ここに焦点を当てるべきだと述べています。
A. 松田教授は、今働いている人のスキルアップに投資する「人のスキルへの投資」と、働き心地を含めて自社を魅力的に磨き続ける「会社の魅力への投資」の2種類があり、両方が必要だとしています。
A. 松田教授は、そう考えるのは会社の魅力への投資をしていないからではないかと指摘しています。スキルを磨いて発揮でき、見合った対価と将来の希望があり、居心地もよい会社なら、人はそれほど簡単に動かないとしています。前向きに外に出たい人は送り出し、出戻りも歓迎すべきだと述べています。
A. 松田教授は、経営戦略ありきだとしています。まず企業理念と経営戦略で将来像を描き、その実現に必要な人材を特定し、将来像に賛同する人を集めます。何もないところで人材戦略だけを考えるのはナンセンスだと述べています。
A. 松田教授は、やらされ感をなくして自社の魅力を発信すること、数字の裏にある制度の中身を定性情報で語ること、手作業の集計から脱して人的資本情報のDX化を進めることの3つを挙げています。
後編では、ジョブ型雇用をめぐる「論理矛盾」、左脳的な企業価値と右脳的な企業価値を統合する経営者の役割、そして人事部を2つに分けるべき理由について解説します。
人的資本情報の「バケツリレー」から脱するために
人的資本の開示を続けるには、部署やグループ会社に散らばった人材データを一元的に集め、経営に使える形で可視化する仕組みが欠かせません。DEFiDEの「HRキャピタルダッシュボード」は、人的資本報告の国際規格ISO 30414に基づき、11領域58指標のデータを企業規模に応じて可視化・レポートできるクラウドサービスです。
▶ 後編:企業価値とは?「左脳的価値」と「右脳的価値」を統合する経営と、人事部を2つに分けるべき理由(内部リンク)
▶ インタビュー全文:人的資本経営の実現には、経営人材の育成が不可欠(前編)(JOB Scopeマガジン)