戦略人事とは、企業の経営目的や戦略目的の実現・達成を目指して行う人材マネジメントです。守島教授はこれを「経営に資する人事」と表現しています。
人材を「資本」と捉えて企業価値の向上につなげる人的資本経営が注目され、上場企業では人的資本の情報開示も始まりました。一方で、人材マネジメント論の第一人者である学習院大学の守島基博教授は、「開示の前に、戦略人事をしっかりやらなければ意味がない」と指摘します。
本記事では、守島教授へのインタビューをもとに、戦略人事の定義、人的資本経営との関係、日本企業でエンゲージメントが低い理由、戦略人事が浸透しない背景、人事部が果たすべき役割、そして「全員戦力化」の考え方について解説します。
この記事でわかること
・戦略人事とは何か、従来の人事との違い
・人的資本経営・情報開示と戦略人事の関係
・エンゲージメントが低いのは「人材マネジメントの失敗」である理由
・戦略人事が現場まで浸透しない背景と、人事担当者ができること
・人事部の本来の役割と「全員戦力化」の考え方
学習院大学 経済学部 教授(取材時)、一橋大学名誉教授。1980年慶應義塾大学文学部社会学専攻卒業。1986年米国イリノイ大学産業労使関係研究所博士課程修了、人的資源管理論でPh.D.を取得。カナダ・サイモン・フレーザー大学経営学部助教授、慶應義塾大学総合政策学部助教授、同大学大学院経営管理研究科助教授・教授、一橋大学大学院商学研究科教授を経て、2017年より学習院大学教授。2018年同学副学長。専門は人材マネジメント論。著書に『人材マネジメント入門』『人材の複雑方程式』『全員戦力化 戦略人材不足と組織力開発』『人材投資のジレンマ』(以上、日本経済新聞出版)、『人事と法の対話』(有斐閣)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
守島教授は、戦略人事を企業の経営目的や戦略目的の実現、達成を目指して行う人材マネジメントと定義しています。講演などでは「経営に資する人事」という言い方をよく使うといいます。
ポイントは、人事の制度や仕組みそのものではなく、それによって経営課題が解決されているかを問う点にあります。守島教授の指摘をもとに、従来型の人事と戦略人事の違いを整理すると次のようになります。
| 従来型の人事(制度運用中心) | 戦略人事 | |
|---|---|---|
| 目的 | 制度や仕組みを作り、運用すること | 人材・組織に関する経営課題を解決すること |
| 出発点 | 既存の制度との整合性 | 経営目的・戦略目的 |
| 人材の捉え方 | 一部の優秀層を中心に育成・登用 | 全員が戦略に貢献する(全員戦力化) |
| 人事担当者の視点 | 日々の手続きや管理業務 | 仕事がビジネスの目的にどうつながるか |
日本で「戦略人事」という言葉を使い始めたのは守島教授です。1990年代初めまで北米で研究していた守島教授は、当時北米で起きていた戦略人事をめぐる議論を、帰国のタイミングで日本に紹介しました。
ただし守島教授は、それ以前の日本企業が戦略人事を実践していなかったわけではないと言います。1960年代から80年代初めまでの日本企業は、長期雇用と企業内育成によって人を大切にし、社員の強いコミットメントや愛社精神が企業の成長を支えてきました。労使関係を丁寧にマネジメントし、人の力を成長につなげていた当時の人事は、立派な戦略人事だったというのが守島教授の見方です。
その前提が変わり始めたのは、バブル経済の崩壊以降です。現在の「戦略人事」という言葉は、変化した環境の中で新たな人事を打ち出していくための掛け声でもあります。
人的資本経営とは、人材を「資本」と捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値の向上につなげる経営のあり方です。経済産業省の「人材版伊藤レポート」(2020年)などをきっかけに注目が高まり、2023年3月期決算からは、有価証券報告書で人的資本に関する情報の開示が求められるようになりました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 開始時期 | 2023年3月31日以後に終了する事業年度の有価証券報告書から |
| 対象 | 有価証券報告書を提出する上場企業など(約4,000社) |
| 主な開示事項 | 人材育成方針・社内環境整備方針と、その指標・目標 |
| 多様性の指標 | 女性管理職比率、男性の育児休業取得率、男女間賃金格差 |
出典:金融庁「企業内容等の開示に関する内閣府令」等の改正(2023年1月公布)
守島教授がいま最も気になっているのは、人的資本経営の議論が開示の問題ばかりに集中していることだといいます。
「開示はあくまでも情報開示であって、開示するべき情報が整っていないといけないのです。」
――守島教授
株主にとって、整っていない情報が開示されても意味はありません。戦略人事をしっかり実践したうえで開示していく――その順番を間違えないことが重要だと守島教授は強調します。
日本企業の従業員エンゲージメントの低さは、国際調査でも繰り返し指摘されています。米ギャラップ社の調査によると、仕事に熱意を持って取り組んでいる従業員の割合は、日本では8%にとどまり、世界平均の20%を大きく下回っています。
| 国・地域 | 熱意を持って働く従業員の割合 |
|---|---|
| 日本 | 8% |
| 世界平均 | 20% |
| 米国 | 32% |
出典:Gallup「State of the Global Workplace: 2026 Report」(2025年1〜12月調査)
守島教授は、エンゲージメントが低いということは、人材がフルに活用されていないことを意味すると言います。能力もやる気もある人が活躍する場やキャリアを与えられなければ、エンゲージメントは下がらざるを得ません。
「敢えて強い言い方をすれば、エンゲージメントが低いのは人事の失敗だと思います。」
――守島教授
ここでいう「人事の失敗」とは、人事部の失敗ではなく、人材マネジメントの失敗という意味です。だからこそ、社員一人ひとりに、しかも企業の戦略と連動した活躍の場を与えていく必要があるのです。
守島教授は、30年以上にわたって戦略人事の重要性を説き続けてきました。近年は経営者やCHRO(最高人事責任者)の間で受け入れられ、「戦略と人事を連動させなければならない」という考え方はかなり普及しています。
しかし、実際に人事を担う人事部の担当者や現場のマネージャーにまで浸透しているかといえば、まだ十分ではありません。守島教授は、戦略人事のマインドセットは企業全体には浸透しておらず、システムや制度としても整備されていない可能性があると見ています。
人事部に入ってくる情報の多くは「結果」だけです。結果に至るプロセスを知るために、守島教授は次のような取り組みを勧めています。
日常業務に追われ、書類の整理だけで時間が過ぎていく人事では、戦略人事は実現しません。
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守島教授は、人事部の役割を「経営の人材と組織に関する課題を解決すること」と定義しています。例えば「DXを進めたい」「AIを経営に取り入れたい」「グローバル化を進めたい」といった経営課題が出てきたとき、それを実現するための人材を確保し、組織を整えるのが人事の仕事です。
そのために制度や仕組みを作る必要があるかもしれません。しかし多くの人事部では、制度や仕組みづくりそのものが目的化してしまっていると守島教授は指摘します。制度はあくまでも、経営課題を解決するための手段です。
| 手段が目的化した人事 | 課題解決型の人事 | |
|---|---|---|
| 問いの立て方 | どんな制度を作るか | どの経営課題を解決するか |
| 成果の基準 | 制度が完成し、運用されていること | 人材・組織の面から経営課題が解決されていること |
| 情報源 | 人事に上がってくる結果の数字 | 現場との対話から得るプロセスの情報 |
変化の兆しもあります。この5〜6年で、外部から人事部長やCHROを招き、大きな権限を与えて経営改革と一体の人事改革を進める企業が増えてきました。DXをはじめとする技術革新や経営環境の変動が続く限り、人と組織を変えることで経営改革を進める動きは今後も続くと守島教授は見ています。
全員戦力化とは、一部の優秀層だけでなく、社員一人ひとりがその人に合った形で企業の戦略に貢献できる状態をつくる人材戦略です。守島教授が掲げる考え方で、戦略人事を実現するうえで欠かせないものとされています。
守島教授が全員戦力化を重視する理由は、主に次の3つです。
その理想は、働く人たちが企業の目的に合わせて自律的に目標を設定し、自分の行動を決めていく組織です。
守島教授は、全員戦力化と人的資本経営の関係を、お金にたとえて説明します。銀行や株主から調達した資金を無駄にせず最大限活用し、企業価値を高めるのが望ましい経営です。同じように、働く人すべてを資本と考えれば、その一人ひとりに最大の価値を発揮してもらうことが企業価値の向上につながります。
「結局、人的資本経営は、社員一人ひとりの価値を最大化していくことなのです。」
――守島教授
どう経営に貢献しているかわからない社員を放置しておくことは、全員戦力化の観点でも、人的資本経営の観点でも失敗です。全員戦力化を実現する具体的な進め方は、後編で詳しく解説します。
A. 戦略人事とは、企業の経営目的や戦略目的の実現・達成を目指して行う人材マネジメントです。守島教授は「経営に資する人事」と表現しています。人事の制度や仕組みを作ること自体ではなく、それによって人材や組織に関わる経営課題を解決することが目的です。
A. 人的資本経営は、人材を資本と捉え、その価値を最大限に引き出して企業価値の向上につなげる経営です。守島教授は、その土台となるのが戦略人事であり、戦略人事を実践しないまま人的資本の情報開示だけに取り組んでも意味がないと指摘しています。
A. 守島教授は、エンゲージメントが低いのは、能力ややる気のある人材に活躍の場やキャリアが与えられず、人材がフルに活用されていないためだと述べています。人事部の失敗ではなく、人材マネジメントの失敗だという見方です。米ギャラップ社の調査でも、日本で熱意を持って働く従業員の割合は8%と、世界平均の20%を大きく下回っています。
A. 守島教授は、人事部の役割を、経営の人材と組織に関する課題を解決することだとしています。制度や仕組みづくりはそのための手段にすぎず、制度づくりが目的化しないよう、経営課題の解決につながっているかを常に問う必要があります。
A. 全員戦力化とは、一部の優秀層だけでなく、社員一人ひとりがその人に合った形で企業の戦略に貢献できる状態をつくる人材戦略です。守島教授は、チーム力や組織力が重要な日本企業では、人材不足の時代に一人も無駄にせず、全員が経営に貢献することが戦略の実現に不可欠だと述べています。
後編では、全員戦力化を実現するための「適所適材」とパフォーマンスマネジメント、データと現場感の両立、そして「人の心」を中心に考えるこれからの人事について解説します。
自社のエンゲージメントの「現在地」を知ることから
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▶ 後編:全員戦力化とは?「適所適材」とパフォーマンスマネジメント、人の心を理解する人事(内部リンク)
▶ インタビュー全文:全員戦力化により企業価値の向上を目指す。その実現に向け「戦略人事」を実践したい(前編)(JOB Scopeマガジン)