シリーズ あの人この人の「働き方」
今回から5回連続で倒産した中小企業の元社長に取材を試みた内容を紹介する。今回は1回目。山梨県韮崎市を拠点とする「スーパーやまと」の元社長の小林 久氏は老舗スーパーを運営する(株)やまとの3代目だったが、2017年に倒産。
最盛期の2008年に売上は64億円、店舗数は16、正社員は80人、パート310人。2014年前後から大手資本の進出により、業績が悪化。3期連続赤字経常も、金融機関の支援や赤字店舗閉鎖、コストカットにより黒字転換した。
しかし2017年12月、資金繰りが悪化し、信用不安による主要取引先からの納品ストップによる営業停止から倒産。この時、27億円、店舗9にまで減少していた。負債額は、16億7000万円。創業から105年だった。オーナーであり、社長の小林氏は自己破産。その後、倒産の経験をもとに講演や執筆、経営コンサルティングを続ける。
小林氏は1962年、韮崎市生まれ。明治大学商学部卒。店長・専務取締役を経て、2001年、3代目の代表取締役就任。改革を次々と試みる。家庭生ゴミの堆肥化(ポイント付与)レジ袋有料化、ピンクリボン自販機、ペットボトルキャップ回収、古紙回収、廃油回収、高齢者・身障者雇用(5%)、発展途上国への楽器・衣料の送付、災害時に店内在庫が住民の備蓄倉庫として機能する協定など。
著書に『こうして店は潰れた~地域土着スーパー「やまと」の教訓~』(商業界)、『続・こうして店は潰れた』(同文館)などがある。
・スーパーやまと元社長 小林久ホームページ | こうして店は潰れた~地域土着スーパー「やまと」の教訓~
01 ―――
スーパーやまと元社長 小林 久 さん
55歳の時でしたが、50歳前後からの5年間は資金繰りが特に悪化し、精神的に苦しい日々でした。会社のお金のことばかりを考えていました。精神的に滅入り、一時期は心療内科に通院するほどだったのです。経営に関する知識は危機に直面し、苦しむと意識から消えてどこかに飛んでしまいます。残念ながら奇跡は起きず、神風はふきませんでした。もう、頼るものがなく、力尽きた感じでした。
多くの方にご迷惑をおかけし、今も大変申し訳なく思っています。オーナーとして社長としての責任は重い。家や財産、貯金、娘の結婚資金などすべてを処分し。自己破産し、現在(2025年11月)は妻の実家に身を寄せて暮らしています。高校の同級生である妻は、私の性格をよく理解しているようでした。自分で納得するまでやってみないと気がすまないところを心得ていたのでしょうかね。倒産寸前の時も、それ以降も静かに見守ってくれていました。
あの頃は娘2人とも結婚前でしたから、一緒に暮らしていました。家族4人全員が現実を冷静に受け止めました。倒産後、あれこれと未練がましく話し合うこともなく、「はい、おしまい」といった雰囲気で自然に次の段階へ進んでいったように思います。私がいないところで、妻が娘たちに「お父さんの会社の状態がよくない」ぐらいに伝えてくれていたのかもしれませんね。妻、娘たちは本当に明るかった。とにかく明るい。いつもおしゃべりで、よく笑い、よく話します。不幸が訪れたはずですが、冷静に、温かく、優しく受け入れてくれました。
例えて言えば氷の上に熱い玉をそっと置いたような状態で、じわじわと溶けていくのですが、やがてその氷が熱球を包み込み、吸収してしまう感じです。妻や娘は、そんな力を持っていました。まさに「商人の妻」であり、「商人の娘」ですね。
皆さんの支えやお力添えがあり、お陰様で主に3つの活動をしています。1つは、全国の特に中小スーパーの経営者たちへのコンサルティングです。電話やメール、オンラインの場合もあれば、直接会い、経営に関する時もありますが、経営の相談に応じています。業務改善やコスト削減、社員、パート、幹部の採用や定着、育成、他社との合併、金融機関との交渉、倒産、それ以降の処理や対応まで広く対応しています。
私が書いた本などを通じて連絡をいただくケースが多いですから、問題や課題にぶつかっている方が多数を占めています。先日も売上60億円前後のスーパーを経営する社長からお話を受けました。「業績が芳しくなく、今後どうするべきかと悩んでいたところ、大手スーパーから買収の話を受けた。どうしようか」といったものです。
経営状態をお聞きすると今後長く継続するのは難しく、ご本人もそのような思いがあるようでした。「売ることを検討されているならば、その判断がよろしいのではないですか?」とお答えしたところ、真剣に聞いておられました。その後、大手スーパーの傘下に入ったようです。ご本人は、「売って安心した」と話しておりました。
私自身が倒産前の数年間苦しんだので、できるだけ最善の結果になるような回答を心がけているのです。相談業務と並行し、顧問契約をして経営へのアドバイスもしています。スーパーに限らず、全国の中小企業全般が対象で、倒産以外の分野でも対応します。現在、顧問契約は数社になりました。
全国各地で講演を続ける
もう1つは、講演・執筆活動。講演では様々な企業、団体、役所、公的機関からご依頼をいただきます。たとえば、報道機関の時事通信社が運営する「内外情勢調査会」です。演題は、倒産が多いですね。主に経営者層を前に全国各地の会場で実体験を語ります。涙ながらに話すこともできるのでしょうけれど、貴重な時間を使い、聴いてくださる方々がいる以上、おもしろおかしく語る責任があります。嘘や偽りではなく、事実をそのままに語りながらも、ユーモアを交えて伝えたい。
「お涙ちょうだい」にしてしまうのは、商人であるプライドが許さない。むしろ、苦しさや失敗談を笑いに変え、聞いている方々に元気を持ち帰っていただく。それこそが、今の私の仕事であり、支えてくれた家族や社員、パート、お客さんや金融機関、業者、地域の皆さんへのお礼と恩返しのつもりです。
執筆では、たとえばニュースサイト「現代ビジネス」(講談社)をはじめ、主に経済や経営に関する分野のウェブサイトや雑誌で記事やコラムを書きます。倒産に関する本も書いてきました。自分が書きたいことを書くのではなく、読者が知りたいことを先回りして書くように努めています。これは、講演にも言えます。経営していた時も売りたいものを売るのではなく、お客さんが喜んでくださるもの、満足していただけるものを売るようにしてきましたから…。これが、商売の基本だと思っています。売れる商品が、いい商品。その思いで講演や執筆に取り組んでいます。
02 ―――
ええ、そうです。あの時、正社員・パートを合わせて171人全員を急きょ解雇せざるを得ませんでした。通常、スーパーは正社員が3割ほどで、パートやアルバイトが7割ほどの比率が多い。解雇するのは申し訳ない思いでいっぱいでしたが、どうすることもできない。やむを得ない決断でした。特に5年程前からは経営状態がよくなかったけれど、「乗り越えられる」と信じていました。 実際、それ以前に何度も危機を克服してきたのです。ですから、それぞれの社員やパートらの再雇用を具体的に考えていませんでした。
前々から資金繰りが悪化していたために2017年の暮れ、一気に信用不安が押し寄せました。メインの取引業者である問屋が察知し、私たちの店に卸していた品を回収する判断をしたのです。経営状態が良くないといった情報がいろいろな形で取引業者に漏れ、信用不安をおそらく増幅させていったのでしょうね。長いつきあいがあり、信用してくださる業者はありました。
スーパーやまと
想像でしかありませんが、この時期、メインの取引業者とスーパーやまとのライバル会社、つまり、あるスーパーが手を組んでこちらに不利になるような動きをしていたとも聞きました。ここで、私は言い逃れをしているのではありません。潰れた最大の理由は、あくまで経営者である自分にあります。
社員やパートの皆さんには、大変に恵まれました。倒産や自主廃業の局面では、幹部や社員の中に裏切る人が現れうると聞きます。そういう人はいませんでした。皆が最後まで懸命に仕事をして、助けてくれました。迷惑や負担をかけたにも関わらず、ありがたいことで今も感謝しています。
03 ―――
スーパーやまと
祖父が創業者で、魚屋さん(鮮魚店)として1912年にスタートしました。当初から、経営はある程度うまくいっていたようです。それにはいろいろな理由があったのでしょうが、競い合う相手が同じエリアやそばのエリアにほとんどいなかったことが大きいと思います。
業績が拡大し、1975年に食品スーパーとなります。祖父は競合するスーパーや小売業者が進出したり、そのような話を耳にしたりすると、地元の政治家や経済界の実力者に働きかけていました。進出を阻止したり、営業が難しくなるようにしたりして自社にとって有利な状況をつくっていたのです。
今は、こうしたやり方は相当難しいのでしょうね。また、避けるべきです。当時は、地域社会と商売の微妙なバランスがあったのかもしれません。「大店法」(大規模小売店舗立地法)といった法律もありました。大型店の出店や営業に一定の範囲で制限を設ける法律です。これによって、大型店と地域の中小スーパーの間にある種のすみわけができていたのです。
しかし、1980年代から規制緩和の一環として大店法が緩和されました。その結果、大きな店が進出しやすくなります。品ぞろえがよく、サービスが行き届いているためにお客さんが流れます。小さなスーパーが不利になったのです。
それでも、祖父や2代目である叔父(父の弟)は進出してきた大型店に対抗していたのです。しかし、イトーヨーカドー堂が進出してきた時には、さらに多くのお客さんが流れていきました。対抗できる手段は、安売りしかありません。値段を下げる――ただそれだけです。当時は、たとえば卵10個入り1パックを数十円、醤油1本を数十円で販売していました。これではこちらが得るものがほとんどなく、商売になりません。一時的にはお客さんが来てくださるのかもしれませんが、経営を維持することはできないのです。
累積赤字は徐々に膨らみ、一時期は1億5000万円を超えました。この額は、今の価値に換算すれば数億円に相当するでしょうね。売上10億円で、この額ですから深刻です。ムダなコストも多かったのです。たとえば、本店。ここは発祥の地でもあるのですが、業績がよくなく、採算が合っていませんでした。叔父は地域への配慮もあり、見栄もあったのか、閉店しませんでした。それでも、お客さんはいたので安易に閉店はできないのですが、採算が合わないようでは店を存続させる意味はないと私は思うのです。
昭和40年代(1960年代~70年代)のスーパーやまと
あるいは、経営幹部や一部の社員らのなれ合いもありました。叔父の頃は社員やパートに親戚縁者が相当数いましたが、こういう中でお金の使い方が不透明な部分もあったのです。この人たちで組織を動かすようにもなっていました。不満を持っていた社員やパートの声が社長や役員に正しく届かず、辞めていくケースが少なくなかったのです。今振り返ると、この頃から慢性的な経営危機になりつつあったのでしょうね。
04 ―――
ええ、そうです。店長などを経て専務をしていました。安売り状態が長年続き、業績はよくありません。ムダなコストは相当に多かった時期です。多額の負債もあり、資金繰りが苦しい。そのために、財務が苦手な先代社長(2代目)に代わり、私が銀行に融資をお願いしました。しかし、返事は「ノー」。融資ができる状態ではない、と判断されたのでしょう。幹部や社員である親戚や知り合いの関係者に頼んでも、同じく「ノー」。
やむなく、いくつかの取引業者から借りることにしました。その後、2000万円ほど資金ショートしそうになった際、再度、銀行に融資をお願いしました。「あなたが正式に3代目となるならば貸す」と言われました。
融資の条件の1つが社長を交代させることだったのです。銀行としては、叔父の経営能力や社のあり方をおそらく問題視していたのでしょう。私は、その条件に忠実に従いました。そうしないと、経営が成り立たないからです。言い換えれば、2代目の社長をクビにして3代目に就任したのです。銀行に「これでお金を貸してください」と頼みましました。ところが、支店長はいろいろな理由をつけ、融資をしてくれません。いわば、「はしごを外された」のです。
ショックではありましたが、これが事業承継の現実です。支店長が話したことを覚えています。「いろいろな理由や事情があり、融資はできかねます。まずはご自身の経営努力で何とかしていただきたい」。厳しい言葉ではあるのですが、これを機に本気で改革に取り組むようになりました。
叔父から2001年に引き継いだ頃の売上が約10億円で、赤字は1億5000万円前後。業績はよくはなかったのですが、皆さんの支えがあり、2年弱で黒字にしました。ちょっとしたV字型回復を実現したわけです。今にして思えば、すごいことを成し遂げたのだなと感じます。
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