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経営は、結局“恐れ”と“楽観”のバランス/ スーパーやまと元社長 小林 久(その3)

作成者: JOB Scope編集部|2025/12/8

シリーズ あの人この人の「働き方」

経営は、結局“恐れ”と“楽観”のバランス

~  スーパーやまと元社長 小林 久 (その3) ~

 

5回連続で、倒産した中小企業の元社長に取材を試みた内容を紹介する。今回は3回目。山梨県韮崎市を拠点とする「スーパーやまと」の元社長の小林 久氏は老舗スーパーを運営する(株)やまとの3代目だったが、2017年に倒産。

 

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最盛期の2008年に売上は64億円、店舗数は16、正社員は80人、パート310人。2014年前後から大手資本の進出により、業績が悪化。3期連続赤字経常も、金融機関の支援や赤字店舗閉鎖、コストカットにより黒字転換した。しかし2017年12月、資金繰りが悪化し、信用不安による主要取引先からの納品ストップによる営業停止から倒産。この時、27億円、店舗9にまで減少していた。負債額は、16億7000万円。創業から105年だった。オーナーであり、社長の小林氏は自己破産。その後、倒産の経験をもとに講演や執筆、経営コンサルティングを続ける。

 

しかし2017年12月、資金繰りが悪化し、信用不安による主要取引先からの納品ストップによる営業停止から倒産。この時、27億円、店舗9にまで減少していた。負債額は、16億7000万円。創業から105年だった。オーナーであり、社長の小林氏は自己破産。その後、倒産の経験をもとに講演や執筆、経営コンサルティングを続ける。

 

小林氏は1962年、韮崎市生まれ。明治大学商学部卒。店長・専務取締役を経て、2001年、3代目の代表取締役就任。改革を次々と試みる。家庭生ゴミの堆肥化(ポイント付与)レジ袋有料化、ピンクリボン自販機、ペットボトルキャップ回収、古紙回収、廃油回収、高齢者・身障者雇用(5%)、発展途上国への楽器・衣料の送付、災害時に店内在庫が住民の備蓄倉庫として機能する協定など。

 

著書に『こうして店は潰れた~地域土着スーパー「やまと」の教訓~』(商業界)、『続・こうして店は潰れた』(同文館)などがある。

 

スーパーやまと元社長 小林久ホームページ | こうして店は潰れた~地域土着スーパー「やまと」の教訓~

 

 


 

 

 

01 ―――

地域社会にどのように貢献するか

 

前々回、前回では2代目の叔父の後を継ぎ、2001年に3代目に就任した直後、売上10億円前後からスタートし、約2年で1億5000万円の赤字から抜け出した内容を紹介した。今回はその後、反転攻勢をかけていく改革を中心に紹介したい。

 

― 2003年前後にいわば「V字型改革」を成し遂げた後には、どのような改革を試みたのでしょうか?

 

2001年に3代目になる前からですが、重視していたのは地域社会にどのように貢献するかといったことでした。これが、イトーヨーカドー堂など大手への差別化にもなりえます。「大手と違わなければいけない」といった思いは、常にありました。

 

地域貢献とはいっても、具体的に何をどうするかと明確なプランがあったわけではありません。3代目就任から約2年間でV字型回復しましたが、一言で言えば徹底的なコスト削減をしただけですから…。経営ノウハウなんて呼べるものはありませんでした。それでも、地域のお役になんとか立ちたかった。振り返ると、その思いがやや強すぎたのかもしれませんね。

 

まず取り組んだのが、地域で業績難や廃業、倒産したり、後継者がいなかったりしたスーパーなど小売店の経営を引き継ぐことです。先方との話し合いで、こちらが買収する形となりました。スーパーやまとの利益だけを考えていたのなら、大きなメリットにはならないのかもしれません。

 


スーパーやまと元社長 小林 久 さん

地域への貢献という視点で考えると、意味があります。そのお店にはお客さんがいるわけです。そこがなくなると、他の店に行かざるを得ない。高齢者などはなかなか行けない場合もあるでしょう。それならば、うちのスーパーでそのお店を買い取り、いわば居抜き(いぬき)として経営を継続するのは意味があるのではないか。私としては、お客さんの生活を守りたかったのです。

 

地方の場合、少子高齢化の影響は深刻です。ここでも1人で生活する高齢者が増え、家族の支えがないケースもあります。「買い物弱者」が生まれつつある時代でした。これ以上、増やしてはいけない。こういう人の暮らしを支えるためにも、居抜きにして「お店を生き返らせる」ことに主眼を置いたのです。

 

 

 

02 ―――

潰されたお店の仇(かたき)を取ってやろう

 

― 経営者としてどのような思いがあったのでしょうか?

 

居抜きのお店はその後、しだいに増やし、2008年の最盛期、16店舗のうち12店舗となりました。いずれも本部から車で30分以内にところにあります。地元の新聞やテレビ、インターネットに好意的に取り上げられました。「大手スーパーに押されている店を吸収し、スーパーやまとが救おうとしている」といった捉え方が多かったように思います。

 

私にそのような大きな野心はほとんどなかったのですが、1つの決意はありました。「大手スーパーにお客さんを奪われ、潰されたお店の仇(かたき)を取ってやろう」といったものです。オーナーや経営者、店長、パートたちの代わりに…。大手は体力の無い個人経営のスーパーが潰れるまで徹底的に安値販売を続け、潰れたあかつきには値段を上げて利益を確保しようとします。

 

そんな大手に対してファイティングポーズを取りたかった。「ここは、自分が生まれ育った町だ。お前たちの好きなようにさせねえぞっ」て。「馬鹿にするな!」と意地を見せたかったのかもしれません。

 

40代だったあの頃、「開店するならばきれいなお店を作りたい」といったちょっとした野心はありました。ある頃から、しだいにその考えが変わったのです。「こういう地域でお店を開けるだけで自分たちは幸せじゃないか。まずは、地道に行こう」。そのような心の変化もあり、他のお店を受け継ぎ、居抜きで経営するようになったのです。新たに開店するまでに、いろいろと工夫しながらしたこともあります。※

 

居抜きしたお店は経営面でうまくいかなくなった部分があるケースが多い。働いていた人の中には懸命にがんばる人もいるのですが、“負け犬根性”が染み付いた人もいるように見えました。たとえば、「うちの会社はダメだよね」と勤務時間中にささやいていたり、パートとお客さんが店内で必要以上の時間話し込んでいたりします。緊張感のなさは、実はとても大きな問題です。

 

 

 

03 ―――

濁りがあるからこそ、経営がうまくいかなかった

 

― 倒産、廃業したお店を緊張感のある職場にするのは難しいのではないでしょうか?

 

そう思いますが、経営するうえでは大切なところです。「M&Aで居抜き出店して傘下に収めればうまくいきます」──なんて単純な話ではありません。経験論で言えば、うまくいかない場合が多い。だからこそ、良い意味での「緊張感」を保つためにいくつかの施策をしました。

 


スーパーやまと

まず、居抜きのお店の中で責任ある立場の人、つまり、キーポイントになる社員を他のお店に配置転換させたんです。それ以前の“慣れ合い”を防ぐためでもあります。代わりに私が育ててきた正社員で、店長経験者を新しい店長として送り込みました。ただし、パートはそのままです。

 

そして、皆さんの前で言いました。「これまでのお店は潰れたんですよ」と。こういうことを好んで言うわけではないのですが、しっかり理解してもらわないと困るんです。

 

次に伝えたのはこうです。「この会社を“助けよう”と思ったわけではない。救済しようと考えたわけでもない。ビジネスにならないのであれば、残念だけれども、元に戻す。つまり、手放さなければならなくなる可能性もあります」と。そのうえで、「業績が良くなれば、賃金など待遇は以前よりは良くします」と何度も伝えました。「だからこそ、ぜひ協力してもらえませんか」とお願いしたんです。もう1つ言ったのは、「今まで勤務していた会社やお店の悪口を、ここでは言わないでほしい」。

 

つまり、“血を入れ替える”ことをしたのです。私の言葉で言うと、“人工透析をするように血を入れ替える”。“血の濁り”を取りたかった。濁りがあるからこそ、経営がうまくいってなかったんでしょうから。経営状態を見せながら「状況が良くなってきたら、前の店長を戻すことも検討します」と言いました。

 

私としては 左遷で“飛ばした”わけじゃない。違うお店で勉強してもらい、もう1度戻すための人事だったのです。お店の体制はできるだけ変えずに、中身だけを変えていく。こういう形で生き返らせる方が、地域社会にとってもいいことじゃないでしょうか。

 

 

 

04 ―――

経営は、結局“恐れ”と“楽観”のバランス

 

― いい試みですね。その後、業績面でやや傾くようになったのですか?

 

結果として、1つの間違いをしたのです。結論から言えば過剰な、行き過ぎた地域貢献をしてしまったんです。うちのスーパーの経営体力以上のことを…。居抜きであろうと新しいお店をオープンすると、ある程度のお客さんが来てくれます。その時の地域の景気や状況にもよるけれど、売上は確かに伸びる。でも、問題はその“中身”。お客さんの数や売上だけを見て「やった!」と喜んじゃダメ。どれだけの利益が残っているのか、社員やパートのモチベーションが維持できているのか…。こんなところも見ないといけない。

 

売上で言えばどんな業界でも、10億、50億、100億……そういう“壁”があります。壁の前で社長がビビっちゃいけない。「大丈夫かな、ウチは」って顔しているトップが率いる会社は壁の前で成長がおそらく止まるでしょう。一方で、思い込みも危険。「ウチなら絶対乗り越えられる」って、勢いだけで突っ走るのはよくない。実際、それで乗り越えられなかった会社がどれだけあるか…。

 

経営は、結局“恐れ”と“楽観”のバランスなんです。「怖いけど前に出る、でも無理はしない」。これが大事ではあるものの、本当に難しい。私は「あの頃、もう少し冷静に数字を見ておけば」と今になって思うことがあります。居抜きにした店舗を次々と出していた頃、勢いで進めていた面があったのは否めない。結果的に2008年に売上は70億円の手前まで伸びたけれど、利益は薄かった。それでも、「次のステップに進むための投資だ」と思っていました。

 

確かに設備投資は必要です。投資がないと、成長はしないし、維持もできない。でも、それを何度も繰り返すうちに気づいたら“投資を回収する力”がどんどん落ちていた。それが結局、資金繰りの苦しさにつながっていったのです。

 

 

 

05 ―――

「買い物弱者を増やしてはいけない」

 

― 過剰な地域貢献ということですが、他にはどのような試みをしたのでしょうか?

 


移動販売車「やまと号」

2012年から、移動販売車を走らせました。「買い物弱者を増やしてはいけない」。そんな思いもあり、中古のスクールバスを購入し、改装して商品を積んで、地域を回ります。市内50個所に順次停車し、販売します。当時、スーパーの移動販売車は全国でも珍しく、山梨県では1台。スーパーやまとにだけ。その意味では、パイオニアだったのでしょうね。

 

あるいは、自然災害への対応。地震や火災など自然災害の時、地域の人たちがスーパーに殺到し、商品を買い占めてしまう問題が起こることがありますよね。「飲みたいものが買えなかった」「必要な食料が手に入らなかった」という人が出てくる。それを私は前々から、とても心配していました。

 

そこで、地元の役所(山梨県韮崎市)と話し合いをしました。こう提案したんです。役所として緊急事態宣言を出した場合には、スーパーやまとの店舗が持っている生鮮食品や新鮮な商品を役所に買い取ってもらう形で提供します。あとはそれをどのように地域の人たちに配ろうと、一切口を出しません──といった内容です。

 

そういう形で2014年に山梨県北杜市(ほくとし)と災害時の食料供給協定(※)を結びました。この取り組みは県内で非常に評判が良く、いくつもの自治体に広まりました。県外にも普及し、多くの地域で同じような仕組みが取られるようになったのです。

 

 

 

06 ―――

10年早かった「SDGs」

 

― それは、画期的ですね。環境問題にも取り組んでいたのですよね?

 

店舗に生ゴミ処理機を置いたのです。そこに、お客さんが家庭の生ゴミを入れる。
それでできた堆肥で野菜を作り、再び店で販売する。そのような循環型の仕組みをつくりました。お客さが1回生ゴミを入れてくれると、お礼として5円分のポイントを進呈しました。

 

これが、大ヒットしたんです。全国でもテレビ放送されたりして、話題になりました。最終的には、2009年に総務省から「地域経済賞(エコロジー賞)」をいただいたんです。家庭の生ゴミを堆肥にして土に還していたから、「地域土着スーパー」と名乗ることもありました。生ゴミ処理機も移動販売車も地元の自治体からの補助金や助成金は一切もらっていないんです。すべてを自前でやった。だから、 “純粋な地域発のエコロジー活動”だったと言えると思います。

 


生ゴミ処理機

こうした取り組みは今で言えば、いわゆる SDGs(Sustainable Development Goals、サステナブル・ディベロップメント・ゴールズ、略称:エスディージーズ)の考え方に近かったのではないか、と思います。それを言葉として意識していたわけではありません。「地域社会に恩返しをしたい」「地元に根を張って共に生きたい」──そういう思いから、自然と出てきたものだったんです。

 

振り返れば、あの頃の試みは10年早かったのかもしれません。まだ、「SDGs」なんて言葉は使われていなかったでしょうから。いろんな人から、特に同業の先輩経営者たちから批判を受けました。「お前がやっていることは売名行為だ」「そんなことをしても商売にならん!」―。

 

それでも、大手と同じことをしていては生き残れない。そんな思いがあった。何よりも地域社会に貢献したいという気持ちが、とても強かった。そのような活動が認められたのか、2011年、49歳の時、山梨県の教育委員長に任命されたのです。聞いた限りでは、史上最年少とのことでした。その報酬が約4年間で1000万円弱でした。全額受け取らず、親を交通事故で亡くした子どもたちの団体に寄付をしました。

 

ある時、地元で交通遺児の学生が「社長さんのおかげで高校を卒業することができました」と言ってくれたのです。2017年の倒産直後でした。あれは、うれしかったなあ。どこの坊主が知らないけれど…(苦笑)。

 

●いろいろと工夫しながらしたこともあります。※

以下が、試みたポイント

①基本的にパートを含め、全員継続雇用、取引先も維持する。

②時給は弊社の基準に合わせる(ほぼ増額)。

③リース物件は、交渉してすべて買い取る(ランニングコストを抑える)。

④賃貸物件は家賃はそのまま維持、その代わり、1年後に見直す(ほぼ下がる)。

⑤旧店長は他店舗に異動、既存の店から店長を配置(全権委任)。

⑥扱い商品は全店統一するが、その地域の人気商品は拡充する。

⑦残った生鮮品は、一番近い夜間営業の店舗に運んで売り切る(廃棄ロス削減)。

⑧地域の商工会に加入して、新参者を自覚する。そして社長の私が近隣にあいさつに出向く。

詳細は、下記にて。

【潰れた店を引き継ぐということ】|小林 久 (元スーパーやまと社長) 

 

●山梨県北斗市(ほくとし)と災害時の食料供給協定(※)

以下が、協定のポイント

①地震や災害が起きた時、北杜市長がスーパーやまととの協定に基づき、正式に指示をすると、それを受けたスーパーやまとは全店舗のシャッターを下ろして営業取り止め。店内の商品すべてが、街の『備蓄品』として行政の管理となる。

②災害時に起こる「買い占め」を防ぎ、住民に平等に食品や家庭雑貨が提供される。配布方法にスーパーやまとは口は出さない。

③その時点で運行中の「移動スーパー」の在庫は、そのまま社会福祉協議会へ横付けして、街の備蓄品にする。

④事後、住民に提供された商品はPOSデータで調べ、店の売価で買い取ってもらう。

詳細は、下記にて。

【企業と自治体の災害協定】|小林 久 (元スーパーやまと社長) 

 

 

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著者: JOB Scope編集部
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