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明治大学商学部教授の三和裕美子氏インタビュー(前編)/統合報告書は、あらゆるステークホルダーとの対話ツールと成り得る

作成者: JOB Scope編集部|2024/07/17

人的資本経営は、もはや開示をどう進めていくかにテーマが移りつつある。背景には、年度決算から上場企業に課せられた人的資本情報開示の義務化がある。また、投資や経営の広がりも大きな要因と言える。これに伴い、最近クローズアップされているのが統合報告書だ。あらゆるステークホルダーに自社の現状や方向性を説明する有効なツールとして注目度が高まっている。だが、単に流行っているから作成するでは意味がない。価値創造に向けた企業の本気度が伝わる統合報告書でなければ、ステークホルダーに何も刺さらないからだ。そこで、証券市場論と機関投資家論を専門とされる明治大学商学部の三和裕美子教授に企業とステークホルダーにおける今後の関係性や統合報告書の意義を聞いた。前編では、近年における日本の資本市場の変化や人的資本情報開示の意味合いなどを語ってもらった。

01投資家が人的資本経営のあり方を評価する時代が到来

2020年9月の「人材版伊藤レポート」の公表以来、人的資本経営の重要性が大きく高まっています。その背景をお聞かせください。

企業はステークホルダーで成り立っています。ステークホルダーの中の一つに従業員がいます。「マルチステークホルダー経営」は、2019年8月米国の代表的な経済団体であるビジネス・ラウンドテーブル(BRT)が、それまでの「株主価値極大化主義」という会社の捉え方から、マルチステークホルダーの従業員や顧客を含めた利益を考慮する株式会社像として掲げた概念です。その辺りから「マルチステークホルダー経営」が、日本でも重要視されるようになりました。

日本では三方良しと言いますが、日本的雇用という慣行の下、「元々従業員を重視していたのではないか」という議論の中で「日本的経営がもう1回褒められるべき存在であったのではないか」といった論調もあったわけです。その中で、「本当のステークホルダー経営とは何か」を考えた時に、従業員への給与・報酬はコストではなくて、従業員の例えばエンゲージメントを高めることで、企業価値にどのように影響するのかということこそが、ステークホルダーが企業価値向上に貢献する一つのストーリー展開として必要になってきます。そういう流れの中で、人的資本経営が出てきたと思っています。

私の専門分野である機関投資家が評価したいのは、従業員が生き生きと働きエンゲージメントが高いことと、および戦略にどのような関係があるのかということです。それを投資家が見たいわけです。「従業員に対してこんなに福利厚生を頑張っています」ということだけではなくて、その従業員が生き生きと働けることが企業価値創造にどう結びつくのかということを投資家は、可視化してもらいたいと思っています。

その中で例えば製薬会社のエーザイは、日本で初めて米国ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)のジョージ・セラフェイム教授が主導する「インパクト加重会計イニシアティブ」(IWAIモデル:2022年にはIFVIへと発展)の「従業員インパクト会計」(企業が従業員に支払った給与がどれだけ社会にインパクトをもたらしたのかを示す会計手法)で、従業員の給与はコストではなく、価値を生んでいることを数値化して示したわけです。今や、エーザイは「従業員インパクト会計」のこの数値をKPI(重要業績評価指標)にしています。なので、まだまだ少数ではあるものの、そういう経営目標にもなっていることからすれば、従業員の人的資本経営がどういうものかを投資家が評価できる時代になって来ていると言えます。

人的資本経営は、本当に企業価値の向上や成長戦略の加速に結び付くのでしょうか。

そのストーリー展開を投資家は求めています。単にその企業が「こういう施策をしています」「こんな教育をしています」ということは統合報告書の中で数多く開示されています。しかし、それと企業価値の向上がどのように結びついているのかを示さないといけない時代になっています。投資家自身もそれを求めているのです。だから、先ほどの「従業員インパクト会計」もそうですし、それからエーザイの元CFO(最高財務責任者)・柳良平氏が作成した「柳モデル」と言われているものもそうです。このモデルはESG(環境・社会・ガバナンス)に関する項目、例えば女性従業員活躍や男性の育児休業取得など、そういう項目を導入してから数年後のPBR(株価純資産倍率。株価が割安か割高かを判断するための指標)の向上に結びついているか、相関しているかを示しています。

これは、エーザイだけではなくアサヒビールや日清製粉、NECなど、幾つかの企業でも導入されています。これはESG項目とPBRの相関を示しただけですが、従業員に対する施策が企業価値、PBRにどの程度、どう寄与しているのかを検討する企業が出始めています。投資家は企業価値と関連するストーリーを求めるようになってきているので、企業側もそれに取り組み始め、そして開示をし始めていると捉えています。

02東証のPBR改善要請が大きなインパクトをもたらした

三和先生は、機関投資家とコーポレートガバナンス、機関投資家のエンゲージメントとESG投資などの研究を専門とされています。そうしたテーマにおける日本企業の現状をどう捉えておられますか。

まずは、そもそも何故このテーマに着手したのかをお話ししましょう。私は大学を卒業後、大手証券会社に就職しました。元々、大学では文学部英文科という証券や商学と関係のない学部に在籍していました。ですので、銀行は何をしているのかはイメージがつきましたが、証券会社が何をするところなのかは、全く理解せずに入社してしまいました。当時リテール営業に従事していたのですが、バブル期でNTTの売り出し等もあり、一般投資家が我も我もと株式市場に参入していました。私が担当したお客様も、株式を買う企業の経営者が誰で、どういうものを作っていて、どんなビジネスを展開しているのかなどは全く知らずにというか、情報もなく、ただ単に投機のような形で売ったり買ったりしていたわけです。

そんな時に私は商学部などの学部ではなかったが故に、「株式とは何だろうか」「株式会社の株主はどんな役割を担っているのだろうか」「証券は本当に、ただ売ったり買ったりするだけなのだろうか」などという素朴な疑問が生じました。それで3年間働いて大学院で学び直す形で大学に入り直したわけです。

その当時はまだ日本では、コーポレートガバナンス(企業統治)という言葉も浸透していない時代でした。ただ、どうやら米国では機関投資家が企業に対して株主提案をしたり、発言していることを指導教官から教わりました。

日本ではその当時も政策株主が中心でした。メインバンクと事業法人の持ち合いといったものが主流で、法人資本主義(株式相互持合いによる企業同士の相互支配)と言われているような時代でした。ですので、機関投資家がいない時代だったわけです。その中で、「日本の資本市場がチェックしないとしたら、企業を誰がチェックするのだろうか」「メインバンクなのだろうか」と考えていたところ、銀行はその後90年代に不良債権等の問題を抱え、その役割から降りることになりました。さらには、2000年代半ばには我々の国民年金の運用に外資系企業の参入が可能になったのです。

そこから日本でも機関投資家が出てきました。機関投資家というのは、純投資(配当や値上がり益を目的とする投資)ですね。ようやく日本にも純投資の機関投資家が出て来て、そして2013年からのアベノミクスの3本の矢の改革でコーポレートガバナンス改革、2014年のスチュワードシップ・コード(上場株式に投資する機関投資家に対して、責任ある機関投資家の諸原則をまとめた指針)導入、そして2015年のコーポレートガバナンス・コード(上場企業が行う企業統治においてガイドラインとして参照すべき原則・指針)導入によって、多くの資産保有額を持つ機関投資家が責任を持って企業を資本市場からモニタリングするというコーポレートガバナンスが2010年代半ばから軌道に乗って来ました。ですので、コーポレートガバナンス・コードを導入して約10年が経過したことになります。

この10年の中で、日本企業の資本市場はかなり変わってきています。そして、機関投資家もより積極的にエンゲージメントと議決権行使(議案に対する賛否の意思表明)で企業を変え得る立場になっています。本当に大きな変化がありました。例えば、ガバナンスの変化です。社外取締役も入り、女性も入り、機関設計も変わってきました。しかし、「日本企業の稼ぐ力はどうなのか」「株価はどうなのか」を見ると今だ欧米には劣っている状況です。なので、東京証券取引所はPBR要請をしたわけです。そこで企業が慌てて資本市場を意識しました。本当に、昨年の東証のPBR改善要請は、日本のコーポレートガバナンスコード導入後、最大のインパクトだったと言っても良いのではないでしょうか。今まで機関投資家が、ずっと言い続けても何も変わらなかったわけですからね。それを後押しとして、アクティビストやファンドが、PBRが低い企業に対してエンゲージメントをして変えていくような動きがかなり加速していると思っています。

03「負の外部性」を企業内に取り込む活動が重要

2023年度決算から上場企業では、有価証券報告書へのサステナビリティ情報の記載が義務化されました。この取り組みは持続的成長とどうつながるのでしょうか。

これは難しい質問です。非財務の有価証券での開示が企業の持続的成長に繋がっていくのかというところですね。まずは、企業のタイムスパンを考える時に、ビジネス戦略としては、5年6年ぐらいのタイムスパンでの中期的な計画を作り、長期的には10年といった計画を作る上で、長期的なタイムスパンとしてはサステナビリティを考えないといけません。そもそも、地球環境や人的資本関連などのサステナビリティなしでは、持続可能な成長はないというのが今の先進資本主義諸国の企業が置かれている状況です。

例えば、今まで化石燃料を使って経済活動、ビジネスを行ってきたものの、それによって地球環境を汚染していたわけです。それは経済学的にいうと、「負の外部性」(生産または消費に要する第三者のコスト)と言います。これをそのまま放置すると、将来的には地球に住めなくなってしまったり、地球でビジネスを展開できなくなるリスクがあります。例えば、製薬業界で言えば平均気温が何度上がればアフリカにおいて熱帯病がどれぐらい増えるのか、そういう試算もなされています。その中で、やはり地球環境問題はビジネス展開の上でも非常に重要な問題であり、長期的に見ればその「負の外部性」を企業内に取り込んでいくという活動が今求められています。

地球環境問題に限らず、人的資本や人権問題などの情報を有価証券報告書に書くということが必要性になってきます。それと同時に、「負の外部性」を内部化していくということと、正のインパクトを与える可能性も考慮した開示が求められます。例えば、有価証券報告書に男性の育児休業取得率が開示項目として付け加えられました。これがビジネス展開の中で価値創造ストーリーにどのように結び付くかということですが、例えばこんな考え方ができます。男性が育児休暇を取得することでその分、配偶者である奥様の育児負担が減ると考えられます。それは5日間とか1カ月ほどの期間に渡って育児休業を取ることによって配偶者の家事負担、育児時間が何時間減らせるか試算できます。その減らした分を例えば家事別の家事労働や、一般労働に向けるとすれば、それはその向けた分の賃金が計算できますので、ソーシャルインパクトとして、この育児休業によって女性が働ける社会的なインパクトをこれだけ創出しているという、そんなストーリー展開ができるわけです。

まず開示することが大事で、開示してそれをどのように企業の将来的な価値、あるいはリスクの減少に結びつけているのかというストーリーを統合報告書の中で展開することが大事です。具体的には、ロジックモデル(ある施策がその目的を達成するに至るまでの論理的な因果関係を明示したもの)であるとか、オクトパスモデル(国際統合報告評議会「IIRC」が提唱する価値創造プロセス)やロジックツリー(物事や問題を要素ごとに分解して考えていくフレームワーク)などという可視化したモデルがあります。このようにソーシャルインパクトと企業活動との関連を明示化する企業もあります。

04読みやすさと情報量をいかに両立させるかが、統合報告書の課題

三和先生は、「第3回日経統合報告書アワード」の審査員もお務めになられました。各社の取り組みぶりをどう評価されましたか。

日経統合報告書アワードは今回で3回目を迎えました。年々統合報告書に記載する情報量が多くなっています。ただ、情報量が多くなると必然的に読み手に取って読みづらいものになります。そうした中でテクニカルな意味では、非常に工夫されている会社があったりします。日立製作所さんは、ものすごい優良企業です。ページ数をかなり減らしてエッセンスだけを統合報告書に入れていて、それ以外のさまざまな情報は別サイトで展開されています。読みやすさと情報量の過多という点で、統合報告書自体のあり方が問われている気がします。

それから、見せ方として上手い、評価が高い企業はトップ・メッセージの熱量が違います。各社の統合報告書を読んでいると、「これは自分の言葉で書いている」とか「ライターが当たり障りのないことを書いただけだ」というのが分かります。投資家も同様です。私のゼミの学生にも統合報告書を読ませていますが、彼ら・彼女らがどこを最初に読むかと言えば、やはり企業のトップ・メッセージです。ですので、そこは「熱量や意気込みを伝えよう」と言いたいです。

後は、非財務の情報が非常に充実してきていています。非財務が企業価値にどのように結びついているのかを工夫して見せている企業もあったりします。それから、昨今は資本市場との対話、機関投資家とのエンゲージメントが非常に重要になって来ています。ですので、その対話の内容、具体的には「どんな対話をしているのか」、あるいは「機関投資家の声を聞いてこういうことを会社の戦略に活かしました」とか、「こんな風に変わりました」ということを積極的に開示している企業もあります。そういう意味では、資本市場とのインタラクティブなやり取りが見て取れます。

ガバナンス面では、「社外取締役になぜこの人が必要なのか」「この人が当社にとってこういう意味で必要です」と明確に文章化していると、納得感が深まります。一般的にはスキルマトリックスの開示はされています。もっと充実させることができるかどうかがポイントになってくるということです。

それから、今年の特徴としては特定のテーマに突出させた統合報告書がありました。その最たる例が、グランプリを受賞されたコンコルディア・フィナンシャルグループさんです。横浜銀行と東日本銀行の持ち株会社です。こちらの統合報告書は全頁に渡って東京証券取引所のPBR要請に対する自社の取り組み、財務の考え方を解説しています。そこに突出しており、尖がっていました。日本の地方金融機関はなかなかそのレベルまで達していないのが現状なので、圧巻の内容だった気がします。押しなべて良いという統合報告書は数多くあります。情報量が多くてビジュアルも良くて読みやすくて、全般的に素晴らしいというのもありますが、やはりこうした尖がった部分があったり、エッジが効いていると審査員に響きます。企業として、「ここを頑張っています」と言い切る大胆さは大事だと感じました。

三和 裕美子/博士(商学)

明治大学

商学部 教授

大学卒業後、1988年から1991年まで野村證券岐阜支店に勤務。その後同志社大学アメリカ研究科修士課程、大阪市立大学大学院経営学研究科博士課程を経て、1996年より明治大学商学部および大学院にて「機関投資家論」を担当している。1996年から1998年には米ミシガン大学にて客員研究員を務める。

主な研究分野は、機関投資家とコーポレートガバナンス、機関投資家のエンゲージメントとESG投資、資本市場と女性活躍、アクティビストが企業に及ぼす影響など。関連論文を多数公表している。

主な著書として、『激動の資本市場を駆け抜けた女たち』白桃書房(2022年)、『ファイナンス入門』(共著)、ミネルバ書房(2021年)、『DXと人的資本』(共著)、税務経理協会(2023年)、『投資家資本主義の未来 : ESG投資の行方』千倉書房(2024年)などがある。

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