幸福度(ハピネス)は生産性を高めます。一橋大学の小野浩教授によると、これまで働き方と幸福度には「相関」があるとされてきましたが、最近の研究では、生産性が高いから幸せなのではなく、ハピネスが生産性を高めるという「因果関係」が見えてきました。
前編では、人的資本理論の本来の意味と、才能を見つけて幸福をつかむ考え方を紹介しました。後編では、人的資本を企業価値につなげるための条件と、日本企業が陥りがちな思い込みについて考えます。
本記事では、小野教授へのインタビューをもとに、ハピネスと生産性の因果関係、人的資本と企業価値をつなぐ条件、人的資本が企業価値に与える金額を計算する試み、人的資本開示の位置づけ、そして「賃上げで生産性向上」が危険な思い込みである理由について解説します。
この記事でわかること
・ハピネスが生産性を高めるという因果関係が見えてきたこと
・人的資本と企業価値をつなぐ「能力」と「職場環境」の両輪
・モチベーションを高める4つの条件(性善説、心理的安全性、自律性、良い人間関係)
・人的資本が企業価値に与える金額を計算する試みと、パネルデータの重要性
・「賃上げで生産性向上」が危険な思い込みである理由
一橋大学大学院 経営管理研究科 国際企業戦略専攻 教授(取材時)。早稲田大学理工学部卒業。野村総合研究所のコンサルタントを経て、シカゴ大学大学院社会学研究科博士課程修了、Ph.D.。ストックホルム商科大学准教授、テキサスA&M大学准教授を経て、2014年より現職。2017年スタンフォード大学客員教授。テキサスA&M大学特任教授も務める(取材時)。専門は人材マネジメント、人的資本理論、幸福度、統計学。「人的資本理論の実証化研究会」座長。著書に『人的資本の論理 人間行動の経済学的アプローチ』(日本経済新聞出版、2024年)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
小野教授は長年、人的資本や働き方の研究と、2000年代に始めた幸福度の研究を別々に進めてきました。共同研究者も違っていましたが、この5〜6年で2つの研究領域が少しずつ融合し、働き方とハピネスの関係が見えてきたといいます。
| これまでの研究 | 最近の研究 | |
|---|---|---|
| わかっていたこと | 働き方(生産性)とハピネスには相関がある | ハピネスが生産性を高めるという因果関係 |
| 矢印の向き | はっきりしなかった | ハピネス → 生産性 |
出典:小野教授への取材をもとに編集部作成
マスコミは気軽に因果関係を語りますが、学者は非常に慎重です。そのため、因果関係がわかったこと自体が、労働経済の世界では画期的な発見だと小野教授は言います。
小野教授が幸福度の研究を始めたのは、お金の話ばかりの経済学に偏りを感じていたころ、幸福度を計量化する研究が出てきたことがきっかけでした。統計学では、原因となる説明変数(性別、年齢、勤務形態など)と、結果となる被説明変数があります。これまで被説明変数には賃金を置いていましたが、そこに幸福度を入れても同じ仕組みのモデルで分析できるのです。
小野教授は、生前のベッカーに「ベッカー理論を使って幸福度を見てみたい」と相談し、「ぜひやるべきだ」と後押しを受けたといいます。家庭内分業の理論を使い、誰が働き誰が家にいるかが賃金ではなく幸福度にどう影響するかを分析した「家庭内分業と結婚の幸福度」の研究が、その出発点になりました(前編で紹介した人的資本理論の応用でもあります)。
人的資本、ハピネス、生産性の関係を考えると、両方が必要だと小野教授は言います。
| 組織の状態 | 生産性 |
|---|---|
| 優秀な人がいるが、職場環境が整っていない | 能力を発揮できない |
| ハッピーな人はいるが、能力が低い | 生産性は上がらない |
| 優秀な人が集まり、ウェルビーイングを高める仕組みがある | 生産性が大きく高まる |
出典:小野教授への取材をもとに編集部作成
小野教授は最近、Googleを視察しました。非常に優秀な人材を集め、その人たちがパフォーマンスを発揮できる土壌をつくっている仕組みに関心を持ったといいます。
小野教授は論文「働く質を高めるための基礎条件――事例研究からの示唆」(『日本労働研究雑誌』掲載)で、モチベーションを高める条件として、次の4つが必要だと論じています。
| 条件 | 意味 |
|---|---|
| ① 性善説 | 人を信頼することを前提にする |
| ② 心理的安全性 | 自分の考えや気持ちを、誰に対しても安心して表現できる組織の状態 |
| ③ 自律性 | 他者に支配・強制されず、自分で計画を立て、自らの考えで目的達成に向けて行動すること |
| ④ 良い人間関係 | 職場での良好な関係 |
出典:小野教授への取材をもとに編集部作成
職場のハピネスやエンゲージメントを高める取り組みは、まず社員の今の状態を知ることから始まります。
従業員のハピネスとエンゲージメントの状態を把握する
ハピネスが生産性を高めるのであれば、社員が仕事や職場にどれだけ満足し、生き生きと働けているかを把握することが、生産性向上の出発点になります。DEFiDEの「生成AIワークバリュー・スコア分析」は、生成AIで従業員の属性や組織の特性に合わせた質問を作成し、組織の状態を迅速にきめ細かく可視化します。
小野教授は、2022年に設立された「人的資本理論の実証化研究会」の座長を務めています。人的資本を「能力」と捉え、それが企業価値や業績にどう寄与しているのかを、産学連携で検証する場です。毎月の勉強会で小野教授が人的資本理論と実証化の話をし、別のチームが参加企業からデータを集めてフィードバックしています。
研究会では、複数の参加企業のデータを分析しながら、各社が人的資本が企業価値に与える金額を計算するモデルをつくる支援もしています。ただし、そこにたどり着くには多くのハードルがあります。
| ハードル | 内容 |
|---|---|
| 因果関係の特定 | 今年の人材育成費と今年の売上を比べても、両者の因果関係はわからない |
| 時間のずれ | 今の業績は過去の人材投資から生まれているため、過去にさかのぼってデータを取る必要がある |
| パネルデータの蓄積 | 特定の個人や企業を定期的に追跡するパネルデータを、一定期間ためて検証を繰り返す必要がある |
出典:小野教授への取材をもとに編集部作成
適切なデータを蓄積しながら検証を重ねることで、人的資本が企業価値に与える金額を計算できると小野教授は考えています。
2023年3月期から義務化された人的資本の情報開示について、小野教授は、開示項目は人的資本の直接の指標ではないと言います。例えばダイバーシティやエンゲージメントは、人的資本が力を発揮するための「インフラづくり」の指標です。こうした条件が整えば人的資本の発揮度を高められるため、開示が無駄な努力だとは思っていません。人的資本がうまく回っているかを判断する材料だという位置づけです。
一方で小野教授は、情報開示が目的化していることを懸念しています。開示の目的がよくわかっておらず、現場の担当者も「なぜ(why)」を理解していない。全体像が見えないまま「とにかくこのデータを集めてこい」と指示されれば、現場はやりがいを感じられず、取り組みが続かない可能性もあります。目的をはっきり理解してもらうことが重要ですが、上の人も理解していないことがある――人的資本経営と人的資本が噛み合っていない表れだと小野教授は語ります。
最後に小野教授は、中小・中堅企業の経営者と人事責任者に向けて、賃上げをめぐる思い込みに警鐘を鳴らしています。
賃金が上がること自体はよいことです。しかし調査によると、企業が賃上げをする理由は、従業員のモチベーション向上への期待だといいます。確かに賃金を上げれば、モチベーションや生産性は一時的に高まるかもしれません。しかしそれは短期的な効果にすぎず、持続可能ではないと小野教授は指摘します。
| 危険な思い込み | 人的資本理論が示す流れ | |
|---|---|---|
| 順番 | 賃上げ → モチベーション向上 → 生産性向上 | 人的資本投資 → 人的資本のストックが高まる → 生産性向上 → 付加価値向上 → 賃上げ |
| 効果 | 短期的で持続しない | 持続可能 |
出典:小野教授への取材、小野浩『人的資本の論理』をもとに編集部作成
「賃上げから生産性向上を見込むのは危険な思い込みです。」
――小野教授
生産性の向上を伴わない人への投資は、付加価値の向上につながりません。賃上げを持続可能にするには、人的資本投資を継続的に行うことが欠かせないと小野教授は言います。
なぜ日本の生産性は停滞し、経済は伸びないのか。小野教授の答えは明快です。この30年間、人的資本投資を怠ってきたからです。バブル崩壊後、長期雇用を重んじて人員削減を避けた日本企業は、大量の余剰人員を抱えました。その反動で人を資産ではなくコストとして扱い、人件費の削減ばかりを考え、割安で長期のコミットが不要な非正規雇用を増やしました。節約ムードから始まったため、人に投資するという発想が生まれなかったのです。
日本生産性本部によると、2024年の日本の時間当たり労働生産性はOECD加盟38カ国中28位にとどまっています(「労働生産性の国際比較2025」)。中小企業は大企業に比べて意思決定が速く、柔軟です。ただし、目先の生産性向上のためにルールを増やすのではなく、人に投資して人を育て、人が成長すれば企業も成長する――そのステップへ踏み出してほしいと小野教授は語ります(労働生産性を高める方法は、滝澤美帆教授の解説記事でも紹介しています)。
A. 小野教授によると、これまで働き方とハピネスには相関があるとされてきましたが、最近の研究では、生産性が高いから幸せなのではなく、ハピネスが生産性を高めるという因果関係が見えてきました。労働経済の世界では画期的な発見だとしています。
A. 小野教授は、優秀な人材(能力)と、ウェルビーイングを高める職場環境の両方が必要だとしています。そのうえで、モチベーションを高める条件として、性善説、心理的安全性、自律性、良い人間関係の4つを挙げています。
A. 小野教授は、適切なデータを蓄積して検証を重ねれば計算できると考えています。ただし、今の業績は過去の人材投資から生まれるため、特定の個人や企業を追跡するパネルデータを過去にさかのぼって集め、一定期間ためて検証する必要があるとしています。
A. 小野教授は、賃上げから生産性向上を見込むのは危険な思い込みだと指摘しています。賃上げによるモチベーション向上は短期的な効果にすぎず、持続可能な流れは、人的資本投資によって生産性が高まり、付加価値が向上して賃金が上がるという順番だとしています。
A. 小野教授は、この30年間、日本企業が人的資本投資を怠ってきたからだとしています。バブル崩壊後に余剰人員を抱えた反動で、人をコストとして扱い、人件費の削減や非正規雇用の拡大に向かったため、人に投資する発想が生まれなかったと説明しています。
賃上げも、情報開示も、それ自体が目的ではありません。人に投資し、人が生き生きと力を発揮できる環境を整えることが、生産性と企業価値を持続的に高める出発点です。
人的資本のデータを継続的に蓄積し、可視化する
人的資本が企業価値に与える影響を検証するには、人材への投資や組織の状態に関するデータを継続的に蓄積し、可視化する仕組みが欠かせません。DEFiDEの「HRキャピタルダッシュボード」は、人的資本報告の国際規格ISO 30414に基づき、11領域58指標のデータを企業規模に応じて可視化・レポートできるクラウドサービスです。
▶ 前編:人的資本理論とは?ベッカーが体系化した「人への投資」の考え方と、才能を見つけて幸福をつかむ経済学(内部リンク)
▶ インタビュー全文:経済成長に向けて人的資本への継続的な投資を(後編)(JOB Scopeマガジン)