人的資本理論とは、人が持つ能力や知識、技量、才能、体力といった「人的資本」に投資すれば、生産性が高まり、収益も高まるという考え方です。一橋大学の小野浩教授は、今広まっている「人的資本経営」は投資家目線や会計学から生まれたものであり、経済学でいう人的資本の本来の意味をもっと理解してほしいと語ります。
人的資本経営や人的資本の情報開示への関心が高まっています。しかし、その本質をどれほどの人が理解しているでしょうか。30年以上にわたり人的資本理論と人間行動の経済学を研究してきた小野教授は、「言葉だけが先行しているのではないか」と疑問を投げかけます。
本記事では、ノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・ベッカーのもとで学んだ小野教授へのインタビューをもとに、人的資本と人的資本理論の本来の意味、人的資本経営との違い、人的資本理論が社会に与えたインパクト、そして人的資本理論から考える「才能を見つけて幸福をつかむ」生き方について解説します。
この記事でわかること
・人的資本と人的資本理論の本来の意味
・経済学の人的資本と「人的資本経営」が噛み合っていない理由
・ベッカーが人的資本理論を体系化し、実証研究で力を得た経緯
・人的資本理論のミクロ・マクロへの応用(教育の収益率、経済成長、少子化など)
・「努力は必ず報われる」ではなく、才能を見つけて幸福をつかむという考え方
取材協力:小野 浩(おの ひろし)氏
一橋大学大学院 経営管理研究科 国際企業戦略専攻 教授(取材時)。早稲田大学理工学部卒業。野村総合研究所のコンサルタントを経て、シカゴ大学大学院社会学研究科博士課程修了、Ph.D.。ストックホルム商科大学准教授、テキサスA&M大学准教授を経て、2014年より現職。2017年スタンフォード大学客員教授。テキサスA&M大学特任教授も務める(取材時)。専門は人材マネジメント、人的資本理論、幸福度、統計学。「人的資本理論の実証化研究会」座長。著書に『人的資本の論理 人間行動の経済学的アプローチ』(日本経済新聞出版、2024年)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
人的資本と人的資本理論とは?
人的資本とは、人が持つ能力、技量、才能、知識、体力などで、生産性を高めるものです。そして人的資本理論とは、人的資本に投資すれば生産性が高まり、収益も高まるという考え方です。
| 用語 | 意味 |
|---|---|
| 人的資本 | 人が持つ能力、技量、才能、知識、体力など、生産性を高めるもの。あくまで「人が有する資本」 |
| 人的資本理論 | 人的資本に投資すれば、生産性が高まり、収益も高まるという考え方 |
出典:小野教授への取材をもとに編集部作成
経済学の人的資本と「人的資本経営」は噛み合っていない
小野教授は、自身は人的資本経営にはほとんど関わっていないと言います。今の人的資本経営は、投資家が企業価値を判断する材料や、会計学の透明性といった観点から入ってきたもので、経済学者で人的資本経営そのものを研究している人はいないだろうというのです。
| 経済学の人的資本(人的資本理論) | 人的資本経営 | |
|---|---|---|
| 出発点 | 人の能力への投資と、生産性・収益の関係 | 投資家目線、会計学の透明性 |
| 人的資本の捉え方 | 生産性を高めて収益を上げる「能力」そのもの | 開示する指標や項目 |
| 小野教授の見方 | ― | 今求められている開示項目は、直接的な人的資本の指標ではない |
出典:小野教授への取材をもとに編集部作成
そもそもの出発点が違うため、両者はかみ合っていないと小野教授は指摘します(人的資本の情報開示の意義については、後編や川口章教授の解説記事でも紹介しています)。
ベッカーとの出会い――人的資本理論の30年
小野教授はもともと理系出身で、大学では機械工学を専攻していました。シンクタンクでコンサルティング業務に携わる中で社会科学に関心を持ち、1992年9月、社会科学研究の世界最高峰とされる米シカゴ大学大学院社会学研究科に留学しました。
その翌月、同大学で教鞭をとっていたゲーリー・ベッカーが、人的資本理論の発展と、経済理論を人間行動の分析に応用した功績でノーベル経済学賞を受賞しました。1993年にベッカーの著書『Human Capital』を手にした小野教授は、社会科学でも数学を使って人間の行動を科学できることに魅了され、ベッカーの弟子として人的資本理論を核にした実証研究に取り組むようになりました。それから30年が経っています。
人的資本理論が社会にもたらしたインパクト
人的資本の考え方は、古典派経済学の父アダム・スミスが約250年前に著した『国富論』にもうかがえます。それを理論として体系化し、実証にまで結びつけたのがベッカーでした。1960年代からは、ベッカーのコロンビア大学時代の同僚ジェイコブ・ミンサーによって実証研究が進みました。
「何が理論を強くするかと言えば、やはり実証です。」
――小野教授
理論にどれだけの説明力と予測力があるか――それが理論を力強くする、とベッカー自身もよく語っていたといいます。
ミクロからマクロへ――幅広い応用範囲
人的資本理論の素晴らしいところは、もともとミクロの理論だったものが、マクロにも応用できるとわかったことだと小野教授は言います。
| 分野 | 応用の例 |
|---|---|
| ミクロ(個人) | 大学進学の費用対効果を分析し、教育の収益率を計算する。収益率がプラスなら、その教育はよい投資だと判断できる |
| マクロ(国) | 人的資本投資がGDPに占める比率と経済成長率の関係を分析する。人的資本に投資する国ほど経済成長率が高いという正の相関がみられる |
| その他 | 人口学(少子化の説明)、男女間の格差、学歴、家族、結婚、格差・不平等など |
出典:小野教授への取材をもとに編集部作成
2023年にノーベル経済学賞を受賞したクラウディア・ゴールディン教授も、シカゴ大学でベッカーに学んだ一人です。男女間の格差や家族の経済学の実証研究の核には、人的資本とベッカーの理論があるといいます。
世界銀行での応用――女性の教育への投資
ベッカーの理論は世界銀行でも影響力を持ちました。発展途上国の出生率の問題に、人的資本理論が応用されたのです。
- 女性の教育に投資する
- 女性の人的資本と市場価値が高まる
- 働くインセンティブが高まり、働かないことの機会費用(失うもの)が大きくなる
- 出産・育児のインセンティブが下がり、出生率が安定・低下する
ベッカーは1995年の世界銀行のワーキングペーパーで、メキシコでは1970年代から1990年代に出生率が半減し、同じ期間に女性への教育投資が強化されたことと強く相関していると論じています。
人的資本を誰にでもわかるように――『人的資本の論理』
小野教授は2024年4月、『人的資本の論理 人間行動の経済学的アプローチ』(日本経済新聞出版)を刊行しました。執筆の背景には2つの問題意識があります。
| 問題意識 | 内容 |
|---|---|
| ① 人的資本が経済学の中に閉じていた | シカゴ大学留学中、経済学の大学院生に人的資本について尋ねると「経済学を学んだことがない人に説明するのは時間の無駄だ」と言われた。しかし人的資本は人に関わる話であり、誰でも理解できるはず |
| ② 人的資本そのものの本がなかった | 人的資本「経営」の本は数多いのに、人的資本そのものの本は、1976年に翻訳出版されたベッカーの専門書くらいしかなかった |
出典:小野教授への取材をもとに編集部作成
同書では、微分積分を使わず、二次方程式レベルで説明するよう工夫しています。経済学はお金の話だと思われがちですが、人的資本の美しさは、経済理論を日常生活に応用したところにあると小野教授は言います。経済学の原点である合理性を使えば、教育、労働、結婚、出産、離婚、犯罪など、お金の範囲を超えて幅広いことが説明できるのです。
人的資本理論から考える「才能を見つけて幸福をつかむ」生き方
同書の帯には「幸福な人生を実現するための経済理論」と記されています。その意味を、小野教授は合理性から説明します。
| よくある考え方 | 人的資本理論の考え方 | |
|---|---|---|
| 成果が出ない理由 | 努力が足りないから | 自分の才能を発見していないから |
| 努力と成果 | 努力すれば必ず報われる | どんなに努力してもできないこともある(例:100mを10秒台で走る) |
| 幸福への道 | 非現実的な目標に向けて努力し続ける | 自分の適性を見つけ、伸びる方向に軌道修正する |
出典:小野教授への取材をもとに編集部作成
非現実的な目標を立て、努力すれば何とかなると思い続けるのは、小野教授から見れば非合理的で、不幸な人生です。テニスのロジャー・フェデラーや作曲家のモーツァルトのように、自分の才能を発見し、それが成果に結びついたときに真の幸せをつかめる――それが人的資本理論から導かれる考え方だといいます。
社員一人ひとりの才能や適性を見つけ、伸びる方向に生かすことは、企業の人材マネジメントにも通じます。
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よくある質問(FAQ)
Q. 人的資本理論とは何ですか?
A. 人が持つ能力や知識、技量、才能、体力といった人的資本に投資すれば、生産性が高まり、収益も高まるという考え方です。ノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・ベッカーが体系化し、ジェイコブ・ミンサーらによる実証研究で説明力を高めてきました。
Q. 人的資本と人的資本経営は何が違うのですか?
A. 小野教授は、経済学でいう人的資本は、生産性を高めて収益を上げる人の能力そのものだとしています。一方、人的資本経営は投資家目線や会計学から入ってきたもので、今求められている開示項目は直接的な人的資本の指標ではないため、両者は噛み合っていないと指摘しています。
Q. 人的資本理論は何に応用されていますか?
A. ミクロでは大学教育の収益率の計算、マクロでは人的資本投資と経済成長率の関係の分析に使われています。さらに少子化、男女間の格差、学歴、結婚、格差・不平等など幅広い分野に応用されています。世界銀行では、女性の教育への投資と出生率の関係の分析にも使われました。
Q. ゲーリー・ベッカーとはどんな人物ですか?
A. シカゴ大学で教鞭をとった経済学者で、人的資本理論の発展と、経済理論を人間行動の分析に応用した功績により1992年にノーベル経済学賞を受賞しました。小野教授はシカゴ大学留学中にベッカーに学び、その弟子として人的資本理論を研究してきました。
Q. 人的資本理論から見た「幸福」とは何ですか?
A. 小野教授は、努力すれば必ず報われると考えて非現実的な目標を追い続けるのは非合理的だとしています。自分の才能や適性を見つけ、伸びる方向に軌道修正し、それが成果に結びついたときに真の幸福をつかめるというのが、人的資本理論から導かれる考え方です。
まとめ:人的資本の本来の意味を理解し、才能を生かす
- 人的資本とは、人が持つ能力や知識など生産性を高めるもの。人的資本理論は、それに投資すれば生産性と収益が高まるという考え方
- 人的資本経営は投資家目線・会計学から生まれ、経済学の人的資本とは噛み合っていない
- ベッカーが体系化し、ミンサーらの実証研究で、人的資本理論は強い説明力を持つようになった
- 人的資本理論は、教育の収益率から経済成長、少子化、男女格差まで幅広く応用されている
- 努力だけでなく、自分の才能や適性を見つけて伸ばすことが幸福につながる
後編では、ハピネスが生産性を高めるという因果関係、人的資本と企業価値をつなぐ条件、人的資本が企業価値に与える金額を計算する試み、そして「賃上げで生産性向上」が危険な思い込みである理由について解説します。
人材マネジメントの仕組みを、実際の画面で確かめる
社員の能力やスキル、役割を一元的に把握できれば、人的資本への投資をどこに向けるべきかが見えてきます。DEFiDEの「JOB Scope」では、実際の画面を見ながら説明を受けられる個別オンラインデモを行っています。
▶ 後編:幸福度は生産性を高めるのか?ハピネスが人的資本と企業価値をつなぐ条件と、「賃上げで生産性向上」が危険な思い込みである理由(内部リンク)
▶ インタビュー全文:経済成長に向けて人的資本への継続的な投資を(前編)(JOB Scopeマガジン)