「そこそこ起業」とは、家族が暮らしていけるくらいの十分な稼ぎを目標に、低リスク・低投資で好きなことを仕事にする起業の形です。東京都立大学の高橋勅徳准教授は、ベンチャーキャピタルから大金を集めて急成長を目指す起業だけでなく、自分がどう生きたいかを中心に据えた起業がもっと評価されるべきだと語ります。
起業というと、大きな資金を調達して上場を目指す――そんなイメージが強いかもしれません。しかし高橋准教授は、20年以上にわたる企業家研究の中で、それとはまったく異なる起業のあり方を見てきました。
本記事では、企業家研究とソーシャル・イノベーション論を専門とする高橋准教授へのインタビューをもとに、企業家研究の多様性という視点、神戸の華僑企業家や沖縄・座間味村のダイビング事業に見る低リスク・低投資の起業、ソーシャル・イノベーションの研究、そしてニュージーランドで提唱された「ライフスタイル・アントレプレナーシップ」と「そこそこ起業」について解説します。
この記事でわかること
・「起業=上場を目指すベンチャー」だけではない、企業家研究の多様性
・神戸の華僑企業家と沖縄のダイビング事業に見る、低リスク・低投資の起業
・お金ではなく「どう生きるか」を中心にしたソーシャル・イノベーション
・ライフスタイル・アントレプレナーシップとは何か
・「そこそこ起業」が低投資であるべき理由
東京都立大学大学院 経営学研究科 准教授(取材時)。神戸大学大学院経営学研究科博士課程後期課程修了、博士(経営学)。沖縄大学法経学部専任講師、滋賀大学経済学部准教授、首都大学東京大学院社会科学研究科准教授を経て現職。専攻は企業家研究、ソーシャル・イノベーション論。第4回日本ベンチャー学会清成忠男賞本賞、第17回日本NPO学会賞優秀賞を受賞。著書に『ソーシャル・イノベーションを理論化する』(文眞堂)、『婚活戦略』(集英社)、『なぜあの人は好きなことだけやって年収1000万円なのか? 異端の経営学者と学ぶ「そこそこ起業」』(集英社)、『アナーキー経営学』(NHK出版)、共著に『制度的企業家』(ナカニシヤ出版)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
高橋准教授が大学院に進んだのは1997年。父や父方の親族が大工などの職人で、会社に勤めることにピンとこなかったといいます。当時の日本の経営学では企業家研究はほとんど行われておらず、手探りで研究を始めました。
最初に関心を持ったのは、大きな組織の中でも妙に自由に振る舞い、新しいことを始めるときには中心になっている人の存在でした。恩師である金井壽宏氏(神戸大学名誉教授)の助言を受け、1999年に大阪ガスの社内ベンチャーをテーマに修士論文を書いたのが出発点です。
その後、高橋准教授は「企業家研究の多様性」という言葉を打ち出し、起業を一つの生き方として捉え直すようになります。「将来上場する意思を持った経営者をベンチャー企業家とする」という定義は、政府や行政、ベンチャーキャピタル、銀行の都合でしかない――上場しなくても、そこそこ稼ぎ、地域社会でよい生活を送っている起業家はたくさんいるというのです。
高橋准教授の博士論文のテーマは、神戸の中華街で活躍する華僑企業家、特に2世・3世でした。「日本人には企業家精神がなく、中国や米国の人にはある」とよく言われますが、高橋准教授は歴史資料をたどり、戦前に日本に移り住んだ華僑の起業率はむしろ日本人より低かったことを示しています。
起業が広がったのは戦後です。日本の労働市場から締め出された時期に、生きていくためにお金を出し合って店を開いたことが、中華街の始まりになりました。その後、日本で生まれ育ち、日本の会社に就職できる2世・3世も、親や祖父の世代に強く説得されて起業し、地域の祭りを神戸市と共同で開くなどして、中華街を観光地へと変えていったのです。
| 今よく語られる起業 | 華僑企業家・座間味村の起業 | |
|---|---|---|
| 資金 | ベンチャーキャピタルなどから大金を調達する | 親から受け継いだ資産や、今ある船など手元の資源を生かす |
| 顧客 | どこにいるかわからない顧客を探しながら始める | ネットワークの中で、顧客がいる状態から始める |
| リスク | 失敗すると大きな負債を抱えかねない | 設備投資も借入も少なく、低リスク |
出典:高橋准教授への取材をもとに編集部作成
沖縄大学に赴任した縁もあり、高橋准教授は座間味村のダイビング事業も研究しました。もともと漁師だった人たちのもとに、バブル期にダイビング客が「半日船をチャーターさせてほしい」と訪れるようになります。応じてみると、魚を獲るより儲かる。新たな設備投資は不要で、今ある船を使えばよく、潜水士の資格を持っているのでインストラクターの資格もすぐに取れる。銀行から大金を借りる必要もない、身の丈に合ったビジネスでした。
高橋准教授は、飲食店ののれん分けなども同じ構造だと指摘します。ITやハイテクのベンチャーばかりが研究され、職人や飲食などの自営的な起業が見落とされてきたことへの問題意識が、研究の原点にあるのです。
2015年ごろから約3年をかけて、高橋准教授はソーシャル・イノベーションの研究に取り組みました。まちづくり、障害者支援、エコツーリズムなどに取り組む会社を調べ、ビジネスにならないと思われていたものをどうビジネスにするか、お金ではなく自分たちがどう生きるかを中心に企業をどう活用するかを明らかにしようとしたのです。
その成果は2018年に『ソーシャル・イノベーションを理論化する』(文眞堂)にまとめられ、日本NPO学会賞を受賞しました。華僑企業家の研究も、日本ベンチャー学会の清成忠男賞を受賞しています。
起業を「生き方」として捉える視点は、社員一人ひとりが何を大切に働いているかを理解することにも通じます。
社員一人ひとりが大切にしている価値観を知る
人は、幸せに生きるための手段として仕事をしています。社員一人ひとりが仕事や人生で何を大切にしているかを知ることは、働きやすい組織づくりの出発点になります。DEFiDEの「生成AIワークバリュー・スコア分析」は、生成AIで従業員の属性や組織の特性に合わせた質問を作成し、働く人の価値観や組織の状態を迅速にきめ細かく可視化します。
高橋准教授が「次に来る」と考えたのが、生活に十分な稼ぎを、低リスク・低投資で得る起業でした。先行研究を探すと、ちょうどニュージーランドなどオセアニア地域で提唱されていた概念がありました。それがライフスタイル・アントレプレナーシップ(ライフスタイル起業家)です。
ライフスタイル・アントレプレナーシップとは、自分の好きなことを楽しみながら生きることを目的に、低投資・低関与・低成長を貫いて事業を営む起業のあり方です。
| ニュージーランドのガイド業に見る特徴 | 内容 |
|---|---|
| 起業のきっかけ | サーフィンや釣り、マウンテンバイクを楽しみながら生きるため。仲間に道具の手配ややり方を教えるうちにビジネスになった |
| 働き方 | 天気がよければ休んで山や海、川に出かける |
| 拡大への姿勢 | 銀行やコンサルタントから会社設立や物販を勧められても断る。事業を大きくすると責任が増え、自分がガイドに出られず、やりたくない仕事が増えるから |
| 地域への関わり | 開発で自然が壊されるときなど、必要な場面では積極的に関わる |
| 地域への効果 | こうした人が集まる地域は、観光地として強くなる |
出典:高橋准教授への取材をもとに編集部作成
こうした生業に近い起業は、産業に影響がないとして軽視されがちでした。しかし、低リスクで自立し、充実した人生を送る人々が集まる地域は強い。その生き方を肯定的に捉える概念として提唱されたのが、ライフスタイル・アントレプレナーシップなのです。
高橋准教授はこの考え方を一般の人に届けるため、商業出版社のWeb媒体で連載し、2024年に『なぜあの人は好きなことだけやって年収1000万円なのか? 異端の経営学者と学ぶ「そこそこ起業」』(集英社)として出版しました。
| 「そこそこ起業」の考え方 | 内容 |
|---|---|
| 目標とする稼ぎ | 4人家族が生活できるくらい(本では年収1,000万円と表現) |
| 投資 | 低投資。投資するほど損益分岐点が遠くなる。初期投資ゼロで顧客が取れれば、その日から黒字 |
| リスク | 1,000万円規模までなら、大きなリスクを取らずに起業できる |
| ねらい | 会社を気軽に辞めても生きていける手段を提供する |
出典:高橋准教授への取材をもとに編集部作成
初期投資ゼロで起業できてお客さんが取れればその日から黒字なんですよね。
――高橋准教授
20年ほどさまざまな起業家を調べる中で、高橋准教授は肌感覚としてこのことを知っていたといいます。かつて「自営」と呼ばれていたビジネスを起業のバリエーションとして位置づけ直すことで、会社に縛られずに生きる選択肢を示そうとしているのです(アントレプレナーシップの多様な意義については、江島由裕教授の解説記事でも紹介しています)。
A. 家族が生活できるくらいの十分な稼ぎを目標に、低リスク・低投資で好きなことを仕事にする起業の形です。高橋准教授が著書『なぜあの人は好きなことだけやって年収1000万円なのか?』で提唱しています。投資するほど損益分岐点が遠くなるため、できるだけ投資を抑えて始めることがポイントです。
A. 自分の好きなことを楽しみながら生きることを目的に、低投資・低関与・低成長を貫いて事業を営む起業のあり方です。ニュージーランドなどオセアニア地域で提唱された概念で、サーフィンや釣りのガイド業などが典型例として挙げられています。
A. 高橋准教授は、投資すればするほど損益分岐点が遠くなるためだとしています。初期投資ゼロで顧客が取れれば、その日から黒字になり、生活が成り立ちやすくなります。大金を借りて起業すると、失敗したときのリスクも大きくなります。
A. 高橋准教授は、親から受け継いだ資産と人脈を生かして顧客がいる状態から起業した神戸の華僑企業家や、今ある船を使って漁師からダイビング事業に転じた沖縄・座間味村の事例を挙げています。飲食店ののれん分けも同じ構造だとしています。
A. 高橋准教授は、上場を目指す起業家だけをベンチャー企業家とする定義は政府や金融機関の都合にすぎないとし、上場しなくてもそこそこ稼ぎ、地域社会でよい生活を送る起業家はたくさんいると述べています。そうした人々が集まる地域は強くなるという研究もあります。
後編では、潜在的なニーズや従業員のやる気といった「不確実なもの」に依存する経営がなぜ人を不幸にするのか、顧客が産業を変えるという視点、そして中小企業こそ経営の前提を見直すべき理由について、高橋准教授の問題提起を紹介します。
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