もはや、M&Aは大企業だけではない。昨今は、中小企業に対するM&Aも加速している。事業承継の一つの選択肢として注目されているからだ。中小企業庁でも、20214月に「MA支援機関登録制度」を創設している。M&Aを検討する上で重要なプロセスとなるのが、企業価値の算定だ。企業全体の価値を評価することを言う。この手法は、資金調達や経営戦略の策定にも役立つだけに、中小企業の経営者として身に付けるべき知識となっている。そのためにも、中小企業の経営者にもファイナンス教育が重要となると説いているのが、財務管理論を専攻する京都産業大学の中井 透教授だ。インタビューの後編では、スタートアップ企業の動向やジョブ型雇用に関する論点などを伺いました。

 

01起業する環境は資金供給の多さと密接に関わる

日本でもスタートアップ企業の活躍が目立ってきています。現状をどうご覧になられますか。

日本でも、起業しようとする若い人が増えてきていること、そしてその人たちのうちで少なくない割合の人たちが事業を軌道に乗せていること、さらにそうした彼ら彼女らのストーリーがメディアで報じられて情報共有されたり、コメンテーターとしてメディアで自らの経験を語っていることは、とても良いことだと思います。

私は、1998年から1999年にかけて米国カリフォルニア州立大学で客員研究員としてスタートアップの研究をしていました。当時はドットコム・バブルと言われて、インターネット関連企業や情報技術(IT)産業に対する過剰な投資と期待が高まり、株価が異常に高騰した経済現象が起きていました。この時期、多くの投資家や企業が多額の資金をIT関連企業に投じたことで、それを目当てに多くのスタートアップが誕生したのです。

起業するにはおカネが要りますし、スタートアップを成長させるためにはさらに巨額の追加投資が必要になります。このことからもわかるように、起業する環境は、資本市場の活況など、資金供給の多さと密接なかかわりを持っていることが分かります。

日本では1980年代後半のバブル以降、顕著な景気上昇期は確認できませんが、それでも若い人たちを中心とする起業マインドは高く、バブルと言われるほど多くの資金が資本市場に流れていないものの、それでも十分な量の資金が供給されていることもスタートアップが活況を呈していることの背景にあると思います。

1億総中流といわれた時代は去りましたが、いわゆる所得の二極分化は以前から進行していて、おカネを持っている人が起業を目指す人たちに対して投資をしていることもあり、資金供給面でもバックアップもできています。スタートアップが活況を呈してきている背景にはそんなところもあるのではないかと思います。


02企業の倒産を避けるためにはファイナンス教育が不可欠

スタートアップ企業の動きがさらに活発化していくためには、どのような支援が必要だとお考えですか。

資金面の支援は今後も充実が図られていくだろうと思われますから、そちらはあまり要らないのではないでしょうか。今後何が必要になってくるかと言えば、教育に尽きます。倒産しないためにも、資金管理を中心としたファイナンス教育を施すべきです。私がファイナンスを専門としているからと言うのもあるのでしょうが、やはり、ファイナンスは大事です。

在外研究から帰国後もカリフォルニア州シリコンバレーやテキサス州オースティンのシリコンヒルズと呼ばれる地域に出向き、インキュベーターと呼ばれる起業家育成機関の方々にインタビュー調査を実施していました。「インキュベーション施設で育った起業家と、そうでない起業家との間で、売上高や利益といった企業業績に何らかの因果関係はあるのか」との質問を投げかけました。これに対して、複数のインキュベーター施設から返ってきた回答は「業績はまちまちであり一概には言えない。しかし、確実に言えることは、インキュベーション施設で育った企業はキャッシュマネジメントを中心としたファイナンスを学習し、その重要性を認識しているから倒産はしていないはずだ」という印象的なものでした。

自分たちが起業家を教育・支援していく過程で、そこを巣立っていくまでに、倒産しないだけのファイナンスをはじめとした経営知識やノウハウを伝えてきているのだという自負のようなものを垣間見たことを覚えています。売上が増えたか、利益が多いかは企業環境やマクロの環境に影響されますが、倒産するかしないかは、やはりキャッシュマネジメントの問題だというわけですね。

最近、リスキリングが話題になっています。こういったものは、まさに起業家やその予備軍の人たちに対する教育においてこそ、充実が図られるべきだと感じています。

03複数のヒントから最適な買いを探し出すのが経営者


ジョブ型雇用に関する見解をお聞かせいただけますか。

米国のテレビドラマを見ていると、「You are fired!」(クビだ!)って言われた主人公が段ボール箱ひとつ抱えて職場を去っていくシーンがありますよね。どんな理由でクビを言い渡されたのかは分かりませんが、おそらく次の職場も、この段ボール箱ひとつあれば仕事をこなしていけるというスペシャリストとしての自負があるように見えるんですよね。

日本ではいままで、こういう考え方は馴染まなかったと思います。それこそ、自分のデスクの中にある文房具などを持って帰ると怒られてしまう。コミュニケーションを重視してきた日本では、いわゆる「I」型人間が跋扈するオフィスでは、共同作業によって生み出される叡智が最大化されるわけがないという考え方があったのではないでしょうか。

しかし、働く側も、雇用者側も、働き方が多様化する中で、うまく人材を使いこなす必要が出てきているのは事実でしょう。それぞれが自由に働く中で、能力を高めて成果を最大化させるステージに来ていると思います。

昨年話題になった解雇規制の緩和についてはどうお考えですか。

私個人が緩和に賛同するか、否定的なのかということではなく、「緩和の方向に進んでいくのだろうな」、「そうならないとますます日本の産業は衰退していくのだろうな」と思います。旧態依然とした形で労働者の権利だけを守ることを主張していく時代はいつまでも続かない気がします。

ところで、今後生成AIは経営の領域にどのような変化をもたらすとお考えですか。

生成AIは、望ましい仕事のやり方、効果的なマネジメント手法についてのヒントを、今後も与えてくれるはずです。そしてAIが回答を繰り返す過程でデータが蓄積されて学習し、回答の内容が精緻化されていくと思います。ただ、それはあくまでヒントであって、それを意思決定するのは生身の経営者であるべきです。複数のヒントから最適解を出すことができる人が経営者となる資格を与えられることになるでしょう。

04「おカネ」というフィルターから生産性を高めていこう

中小、中堅企業の経営者や人事責任者へのメッセージをお願いいたします。

昨今は転職ブームです。転職が増えると、従業員に教育という投資をおこなっても無駄ではないかと思うのは無理もないことかもしれません。しかし、企業内で人材を育成する姿勢は捨ててはならないと思っています。

たとえば大学生の就職活動において、早期インターンシップでの優秀な人材の早期の囲い込みや、いわゆる「オワハラ」を強要することの背景には、「既に出来上がった優秀さ」を手に入れようとする意識が垣間見られます。しかし、そのことと同等かそれ以上に、入社後の人材育成、人材投資に注力すべきではないでしょうか。

また、おカネというフィルターを使って生産性を追求し、高めていくことは、決して批判されるべきものではありません。ただ、日本人の感覚からすると「おカネ、おカネというな」となりがちです。しかし、生産性を追求することは企業経営としては不可欠であることも事実です。むしろ、生産性を等閑にした投資が質の低下を招くのであり、それは経営資源のひとつである「ヒトへの投資」にも当てはまるのです。

ヒトへの投資は財務諸表には表れにくいとされますが、代替データを使って分析した研究結果があって、それによると、若手の成長を重視する企業などで業績や株価が高まっているとの分析もあります。従業員の能力を伸ばし、社員が働き甲斐を感じる企業の企業価値は高くなっているのです。

ヒトに対する投資を促進するということに留まらず、投資効率を高めるためにおカネを含めたすべての経営資源について生産性の検証を行う経営が喫緊の課題であるといえるでしょう。

―中井先生、貴重なお話をありがとうございました。

 

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中井 透

京都産業大学 経営学部

マネジメント学科  教授 

慶應義塾大学大学院経営管理研究科修士課程修了。広島大学大学院社会科学研究科博士後期課程修了。博士(マネジメント)。1991年岡山商科大学商学部専任講師、2000年同教授、2007年から現職。京都産業大学副学長、理事・評議員、経営学部長、大学院マネジメント研究科長、進路就職支援センター長などを歴任。学会活動として日本財務管理学会会長・常任理事、日本経営財務研究学会評議員など。近著として『物語でわかるスタートアップファイナンス入門』(2025年、中央経済社)。

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