近年、産業構造が大きく変化する中、「戦略人事」というキーワードが注目されている。これは企業の経営者や人事責任者にどのような意識改革を求めているのであろうか。
人的資本経営やHRテクノロジーに造詣が深く、人的資本報告の国際規格「ISO 30414リードコンサルタント/アセッサー認証」も日本で初めて取得された慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任教授の岩本隆氏に伺いました。前編では、「戦略人事」の定義や取り組むメリット、実現に向けたポイントなどをお聞きしました。(後編はこちら)
戦略人事は、英語で言うと「Strategic Human Resources Management」。日本語では、戦略的人材マネジメントと訳されます。戦略とはシンプルに言えば、やることとやらないことを明確にした上で、やることの優先順位をつけて取り組むことです。それの人材マネジメントが戦略人事ですから、企業の経営にとって重要なことに優先順位をつけて、人材マネジメントをすると言うこと。よく考えたら当たり前の話になってきます。
ただ、それがあまりできていないのが実状です。何故なら、人事はルーティンワークが多くて戦略的にものを考える余裕がありません。それで、戦略人事と言う言葉が流行っているという印象です。
日本の場合、戦略のない企業や戦略的ではない企業が多かったりします。そもそも、経営が戦略的でなければ、人事も戦略的になりません。敢えて戦略人事と言う言葉を使っていますが、戦略的に経営している企業にとっては当然な話だと言えます。
日本企業の人事は、割とルーティンワークです。間接部門と良く言われていますけれど、ビジネス部門から頼まれたことを粛々とやっていると言う感じだと思います。しかし、HRテクノロジーの発達により、クラウドアプリが沢山出て来ています。それこそ勤怠管理にしろ、給与計算や労務管理もしかりです。いわゆる人事が主としていた仕事が、テクノロジーでできると言う局面で残る仕事は何かと言う話になって来ます。
私は何年か前に、欧米の企業関係者と一緒にセミナーに登壇しました。その時に米国企業の人事の方がいらして、「うちの会社ではもう旧来型の人事はいなくなりました。CHRO(最高人事責任者)だけがいれば、後は全部テクノロジーでできます」と発言されていました。戦略人事とは企業の経営戦略を実行するために人材マネジメントのサポートをどう行っていくかです。逆に言うと戦略的でない仕事はいらなくなる、人手を使わなくても良くなったと言うことです。
一方で、人材マネジメントは別に人事だけではなくて、経営トップもラインのマネージャーもと、マネジメントする人全てに関わる話です。なので、そこの人材マネジメントをより戦略的にしていくことは重要です。CHROはそれを企業内で推進するために存在しているのですが、CHRO一人だけでは大変なので、今HRBP(HRビジネスパートナー)をCHROの代理として色々な部門に配置しようとしています。欧米企業の人事部は、HRBPみたいな仕事をしています。
今HRテクノロジー市場が凄く成長しているので、日本企業も皆さん、戦略人事について理屈上はわかっています。ただ、会社都合で人を辞めさせるわけにはいかないので、単純作業をしている人たちの仕事をシフトしていかないといけません。それに、労働組合との交渉もあって仕事をなくすと言うことがドラスティックにできない事情もあります。そのため、戦略人事になっていないのが現状です。
戦略人事は人材マネジメントのことです。なので、経営トップや組織のラインマネージャーが本来やるべき仕事です。人事のマネージャーをやっていた人はある程度はわかるかもしれませんが、得意技ではないと思います。
一番大きな話は、日本企業が1990年代から事業ポートフォリオを変革できていないと言うことです。戦後はずっと米国に追いつけ追い越せで、割と見えたマーケットで一所懸命頑張ってきました。それが今やどの産業も成熟して来ているので、新しいビジネスを立ち上げないといけない状況にあります。「失われた30年」と良く言われていますけれど、90年代以降新しい産業を立ち上げられていないと言う意味なのです。
日本人はゴールがわかっているビジネスは得意です。しかし、自分からゴールを作っていったり、市場を創造したりと言うのはあまり経験がないこともあってできていません。ただ、今はどこの企業も事業ポートフォリオの変革が大きな経営テーマになっています。中小・中堅企業も例外ではないと言って良いでしょう。もともとは、エレクトロニクス業界に危機が逸早く訪れました。いわゆる下請けの仕事がどんどん減っていったのです。下請けとは、大企業が決めた仕様通りに真面目に作ると言うことです。なので、マーケティングとかもする必要がありません。市場を作っていく必要もなかったのです。まさに、口を開けて待っていれば仕事が次々とあったわけですから。
今は自動車業界がEV(電気自動車)シフトと言われています。EVになると中国にビジネスが流れてしまいます。トヨタグループはまだ関係を維持していますが、ホンダや日産は付き合いのあった部品メーカーをかなりリストラしました。自動車メーカーにリストラされてしまうと、下請け企業は今まで培った技術を新しい市場で展開していかないといけないと言う話になります。それだけに、中小企業も事業ポートフォリオの変革が喫緊の経営テーマになってきています。
そうすると、今まで慣れていた働き方ではもはや通用せず、新しいビジネスに適用した人材が必要になります。人材版伊藤レポートでも、経営戦略と人材戦略の連動が大切だと強調してますが、そもそも新しい事業にどう入っていくかと言う経営戦略が必要で、それに合った人材戦略を作らないといけないのです。なので、より戦略性が求められると言うのが、ビジネスから見た時の視点です。
今までは戦略を考えなくても良かった。言われたことをやっていたら売り上げが伸びていました。そんな流れが、戦後から1980年代まで続いていたのです。特に中小企業の方々は、自分でプロダクトを持って、それを新しい市場に展開していくなんてことはやったことがありません。それを急にやれと言われても困るというのが本音だと思います。それもあって、戦略性がより求められるようになって来たと言うことです。戦略を立てたら、それを実行する人材、それに対応した人材戦略が必要になるので、戦略人事が当然ながら重要になって来ると思います。
まずは、経営戦略を作ることです。経営トップが経営戦略をしっかりと考えなければいけません。経営戦略ができたら、次はそれを実行するための人材戦略に取り掛かります。例えば5年後、こうしたステージに会社を持っていこうと言う時に、どんな人材を採用・育成・配置すべきか、そうしたことを考える必要があります。
大企業の場合は、経営戦略の策定に戦略コンサルティングファームが絡むことが多いので、理屈上は作れるのですが、それを人材戦略に落とせるかどうかがポイントです。例えば、全体の人材ポートフォリオの中でDX人材を何十%まで増やすとか、皆さん思い描いていますが、実際にやってみると新しい事業はビジネスモデル自体が変わるので、新たな人材を採用して連れて来てもカルチャーが合わなかったりします。その会社の常識と入ってきた人の常識が違うので、かみ合わなくて何かいづらくなり辞めていくと言うパターンを数多く見聞きしています。
中小・中堅企業だともっと典型的だと思います。最近は大企業で部長を務めていらした方が、定年退職した後に中小企業で働くケースも珍しくありません。ただ、意外と職場にフィットしていなかったりしています。相変わらず大企業の部長の感覚で偉そうに指示や指導をしてしまうからです。中小企業の人からすると、仕事が大してできないのに命令だけする人のように映ってしまいます。それで職場の中で浮いてしまうわけです。
人事に求められる能力が変わってきました。今までは労働組合との折衝が上手いとか、労働法をよく知っている、社内で何かしら問題が起こった時にスムーズに解決してくれる、従業員が訴訟を起こした時に対応してくれると言った人が多かったと思います。しかし、これからは、人事の専門家ではなく、ビジネスの専門家をCHROにアサインすることが重要になってきます。そうした人材マネジメントが上手い人は社内に何人かいたりします。人の心を掴むのが得意であったり、人をマネージするのが上手い人が。それこそHRマネジメントですから、人をマネージするのが上手い人がCHROやHRBPになっていく方が機能すると思います。
割と大企業でそういう例が増えています、CHROの集まりに参加すると、「実は営業畑の出身です」とか、「海外子会社の社長をしていました」という方が良くおられます。要は、いわゆる従来型の人事出身ではなくて、経営戦略がわかる、ビジネスや人材マネジメントがわかる人と言うことです。人間科学という学問分野がありますが、人事部門は本来、人のサイエンスをよく知ってる人がやるべきです。でも、実際には事務作業が多いので人と接しない仕事をしている人が多いと言えます。なので、むしろ人と接するのが得意な人を戦略人事のスタッフにアサインしていくのが重要かと思います。
中小企業でも人の扱いに慣れた社長がいると思います。仮にそうでない場合は、例えば事業部門のマネージャーをしていて、部下の心を掴むのが上手い人にCHRO的な役割を与えていくと良いです。
別に専任でなくても良いのです。場合によっては、社長がやっても良いです。もし、社長が忙しければ、事業部門長が兼務でCHROをやっても良いと思います。いずれにしろ、人を活躍させるのが上手い人がやった方が絶対良い気がします。それだけに、営業経験者や事業部門のヘッドで成績を上げた人とかがCHROになるケースが今大企業では増えています。
岩本 隆氏
慶應義塾大学大学院政策
メディア研究科特任教授
東京大学工学部金属工学科卒業、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院工学・応用科学研究科材料学・材料工学専攻Ph.D.。 日本モトローラ(株)、日本ルーセント・テクノロジー(株)、ノキア・ジャパン(株)、(株)ドリームインキュベータを経て、2012年6月より2022年3月まで慶應義塾大学大学院経営管理研究科特任教授。2023年4月より同研究科講師。2018年9月より山形大学学術研究院産学連携教授。2023年4月より同客員教授。 2022年12月より慶應義塾大学大学院大学院政策・メディア研究科特任教授。岩本隆氏のオフィシャルウェブサイトはこちら。