人的資本経営の重要性が叫ばれる今日。2023年度からは、経済産業省の旗振りのもと、上場企業に有価証券報告書への人的資本の開示が義務化された。こうした動きに対応し、人事部が人的資本経営に向けて主導的な役割を担っていくべきであるとする特集が多数のメディアで掲載されている。「人的資本経営は人事部の問題ではない、経営の問題だ」と指摘するのが慶應義塾大学大学院経営管理研究科教授の清水 勝彦氏だ。インタビューの前編では、戦略の本質や「良い企業」の条件、人的資本経営を巡る誤解などが語られた。

01社員のパワーを
100%駆使している
会社がどれだけあるか

人的資本経営がバズワード的に取り上げられています。どうご覧になられていますか。

良いと思います。人が重要だというのは、間違いないですから。ロンドンビジネススクールの客員教授であるゲイリー・ハメル氏の共著書、『ヒューマノクラシー――「人」が中心の組織をつくる』(英治出版)でも同様の指摘をしています。彼の出世作は1989年に発表したハーバード・ビジネス・レビューの論文、「ストラテジック・インテント」(戦略的意図)です。MBAのプログラムでは、もはやクラシックと称されるほどの論文で、トップスクールのほとんどの学生が読んでいます。

彼の近著は、「社員のパワーを100%使っている会社がどれだけあるのか」という話です。米国を代表する世論調査会社・ギャラップが実施している従業員エンゲージメント調査の結果によると、世界的に見てもエンゲージメントが高い人は20%ぐらいしかいません。ならば、残りの80%は一体何をしているのでしょう。会社として数多くの優秀な人を採用しても使いきれていないのではないか。日本はその比率が1桁と言われています。

ゲイリー・ハメル氏は基本的にはストラテジーの研究者なのですが、結局一部の人が作ったストラテジーを実行しようとしても、世の中はどんどん変わっていく、むしろ現場の人たちの方が生の情報を持っていますし、お客様も競争のことをわかっているので、そういう人たちの発想を取り入れていく必要があることを強調しています。私も同感です。作ったものを実行するのではなくて、作りながら実行する。あるいは、実行しながらまた新しくrenew(リニュー)していく。そういう発想がないといけません。

その意味で言うと、人的資本経営自体はすごく重要な話だと言えます。バスワードだから良いとか悪いという話ではないと私は思っています。

人的資本の重要性が高まっている背景には何があるとお考えですか。

これは別に、日本だけではありません。申し上げたように世界的にそうです。もう20年以上も前からの話です。昔は、規模の経済や大量生産がもてはやされていましたが、そういうのは中国や海外の会社が圧倒的に強いため、先進国は何で勝負するのかと言うともう知的資産、ヒトしかありません。いわゆる、intangible assets(無形資産)しかないのです。そうした中で、人的資本が注目されていたわけです。だから、わかっていた人はずっとわかっていたはずです。どちらかと言えば、そういうことが漸く表に出てきただけです。

02人的資本の開示は
あくまでも
意識付けに過ぎない

経済産業省が旗振り役となって、近年人的資本経営を推進しています。どのような狙いがあると思われますか。

重要とは思いますが、微妙なところもあります。例えば人的資本の開示と言っても、純粋に教育に使った費用を開示する会社もあれば、教育を受けている間のうべかりし利益や売り上げ(機会損失)も含めて教育費だと言ってる会社もあったりします。OJTとなるとさらに難しいでしょう。

企業として、人的資本投資に注意を持って投資家と会話するのは悪くないとは思いますが、まだ本当に試行錯誤しているなあという感じです。

人的資本経営を企業価値の向上に結びつけるにはどうすれば良いとお考えですか。

人的資本経営と企業価値の向上を結び付けたら良いのですが、変数は山のようにあります。教育費をつぎ込んだら急に企業価値が上がりますということは全くありません。結局、人的資本経営と言っても、すごい広い概念を意味しています。もっと言うと、人的資本と書いてありますけれど、これはあくまでも「経営」ですよね。経営の仕事は、企業価値を上げることです。それなのに、人的資本経営がどうのと言われても2+2は4ですと言っているだけの話に過ぎません。何か新しいことを言ってるわけでは全くないという気がしています。

03戦略とは「肉を切らせて骨を断つ」こと

戦略人事というワードももてはやされましたが、そもそも日本企業は戦略という言葉を明確に理解しているのでしょうか。

私は、日本企業や米国企業とわけるのはあまり好きではありません。単に、「良い企業」と「悪い企業」という、それだけの話です。米国でもわかっていない企業は沢山ありますし、日本でも頑張っている企業があると思っています。

私もコンサルティングファームにいましたが、悪いコンサルタントは「これもやりましょう」「あれもやりましょう」とずらずらとやらなければいけないことのリストが出て来ます。東日本大震災の後に、復興戦略と良く言われていました。これは、復興戦略では全くなくて復興計画に過ぎないと私は思っています。なぜかと言うと、戦略と言いながら、やりたいこと、やらなければいけないことが数多く提示されていて、優先順位がついていません。何年経っても「まだ30%しかできていません」みたいな話を良く見聞きします。

本当はやりたいもののもっと大事なことがあるので、そちらに資源を投入するために、こちらは泣く泣く辞める、あるいは後回しにする。それが戦略だと思います。別の言葉で言えば、「肉を切らせて骨を断つ」という感じです。何かやりたいことを沢山並べたり、良い話ばかりしているようではやはりダメだと思っています。

04自分たちの基準を
持っているかが
「良い企業」の条件

清水先生にとって「良い企業」を教えていただけますか。

私の著書、『機会損失 「見えない」リスクと可能性』(東洋経済新報社)でも取り上げましたが、コマツは「良い企業」だと思います。トップが「ここは負けてもいい」と言っているくらいですから。それは、すごく大事なことです。未だに私はコマツしか知りません。「ここは負けてもいい」と言っている会社は。米国でも聞いたことがないので、相当レベルが高いと思います。

コマツ以外だと、アイリスオーヤマや東京エレクトロン、ダイキン工業も私的には「良い企業」です。面白いのは、アイリスオーヤマと東京エレクトロンです。前者は企業理念の中で「利益の出せる仕組みを確立する」と記していますし、後者も経営理念の一つに利益を上げ「利益の追求を重視し企業価値の向上を目指します」と謳っています。要は、いずれも儲けると明確に打ち出しているのです。

こうした企業はかなり珍しい気がします。社会貢献とか、何か格好良い言葉が並ぶことが多いものですが、その二つの会社は企業が存続していくためには、利益を上げなければいけないという考えを企業理念・経営理念の中に入れています。建前ではなく「会社として利益にコミットしている」と堂々と言えるのはすごく良い会社だなと思っています。

一つの正解があるわけではないのです。例えば、「負ける」としっかり言える会社も「良い企業」ですし、利益を上げると堂々と言っている会社も良いと思います。

ダイキン工業の良さはどこにあるのですか。

ダイキン工業という会社が面白いのは、経営陣を見るとおじさんばかりなのです。そもそも、取締役会長が90歳近いですからね。もちろん、若い人も活躍していますけれども、役員の平均年齢はかなり高いです。世の中的に言うと、それは「悪い企業」だと言われてしまうかもしれません。しかし、競争力は非常に高く空調で世界一を誇っています。世の中の風潮だとか、あるいは「他社がやっているから、うちの会社でもやろう」みたいに流されず、自分たちの信念を持つことが素晴らしいと感じます。

年齢で駄目だとか良いとかいうのは、流行(はやり)のダイバーシティの話から言うとおかしいはずです。自分たちとしての基準を持って、しっかり取り組んでいる会社は強いと思います。

05戦略が決まって
人事があるという
発想から脱却を

軸を持って、ぶれずに突き進むということですね。ところで、戦略人事が叫ばれる一方で「人事に戦略的なマインドが欠如している」という指摘もあります。清水先生は、どうお考えですか。

それは無理ですよ。今まで野球をしていた人にサッカーをやれというようなものです。本当にサッカーで勝負する気があるのであれば、サッカー選手を集めなければいけません。だから、私の研究室のブログでも書きましたが、「人事部は変われるか」といった議論は良く聞くものの、そもそも問い自体が間違っていると思います。人事部は、残業管理や福利厚生だとかを一生懸命やらないといけません。戦略とかは個人的に言うと、経営企画がやったら良いと思います。経営なのですからね。人的資本「経営」ですよ。経営なのに、なぜ人事ばかりがやらなければいけないのかと思っています。

経営戦略と連動した人事戦略を実施する、戦略人事そのものも疑問だというお考えでしょうか。

そもそも、経営戦略と人事戦略がわかれているのはおかしいと思います。伊藤レポートでもそうなのですが、まずは戦略があってそれに合わせて必要な人を登用するとあります。実際には、そんなに上手くいきません。そうではなくて、「こういう人がいるからこういう戦略で行くべきだ」という話が普通です。当然、足りないところは外から取ってこよう、採用しよう、そういう話はあります。

戦略を作りました。それを実行しようと思っても人がいないという話になったり、あるいは人はいると思ってやってみたら、世の中が大きく変わってしまい、「さあどうしましょうか」という世界が今すごく増えてるはずです。それなのに、「戦略をまず作ってその後に人事を考えましょう」という発想自体は変えなければいけないと私は思っています。

今までインタビューしてきた先生方とは違うご意見なのでなかなか新鮮です。

私は今、2024年8月に開かれる学会に向けた原稿を書いているところです。海外の論文を見ても結局、こうした人的資本を戦略と連動させた戦略的HRは戦略の先生が書いていることは殆どありません。人事を専門にしてきた研究者が戦略の視点を入れて書いているわけです。そもそも戦略の先生が、「ヒトの中」でのトレードオフや「経営全体から見た」トレードオフの考え方に基づいて書かれた論文が、世界的に見ても非常に少ないのが実状です。あくまでも経営の問題なのですから、戦略の研究者も研究すべきだというのが私の考えです。

それなにの、最初に「人」という言葉に目を奪われて、人的資本経営は人事部マターになっている雰囲気がありますが、あくまでも経営なのです。ということは、CEOを含めて経営幹部のマターなのです。人事部に任せておく話では決してありません。そうした発想を持たなければいけないと思います。

「CHRO(Chief Human Resource Officer:最高人事責任者)」の役割は、どう捉えておられますか。

HR系では強い米国のコーネル大学が2010年に行った調査では、CHROの人たちが何をしているのかといえば、他の事業担当役員に「人を育てたり活躍させるのはあなたたちの仕事」「自分こそヒトの責任者である自覚を持ってもらいたい」と一生懸命説いているとのことでした。だから、CHROが人的資本経営のすべてを担当するのではなくて、実践するのは経営だということです。


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清水 勝彦

慶應義塾大学大学院
経営管理研究科教授

東京大学法学部卒業、MBA(ダートマス大学エイモス・タックスクール)、コーポレイトディレクション(CDI)を経て、2000年Ph.D.(経営学、テキサスA&M大学)。同年テキサス大学サンアントニオ校助教授、2006年准教授(テニュア取得)。2010年より慶應義塾大学大学院経営管理研究科教授。Strategic Management Journal、Journal of Management Studies、Journal of International Management、Asia-Pacific Journal of Managementの編集委員(Editorial Board member)。株式会社ドリコム(東証グロース)取締役 監査等委員。『機会損失』(東洋経済新報社)、『プロがすすめるベストセラー経営書』(日本経済新聞社、第1章)『リーダーの基準:見えない経営の「あたりまえ」』(日経BP社)『あなたの会社が理不尽な理由』(日経BP社)などの著書がある。研究室のホームページは、 https://shimizu-lab.jp/

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