ドイツの哲学者・経済学者カール・マルクスは、資本主義を資本家が労働者を搾取する不公平なシステムであると批判した。労働者が生み出した利益を資本家が手にしてしまうことを指摘したものだ。最近では、「利益に留まらず労働者のやりがいをも搾取しているのではないか」という声が高まっている。やりがいは、職場の生産性アップや労働者の定着率向上への大きな原動力となるが、それを意図的に利用し労働者に不当な労働を強いる企業が見られるというのである。近年、バーンアウト(燃え尽き症候群)がクローズアップされているのも、その流れと言って良いかもしれない。こうした問題を個人の適性に留めず、組織さらには社会の在り方に絡めて捉えていく必要性を提示しているのが、同志社大学政策学部・総合政策科学研究科教授の久保 真人氏だ。インタビューの前編では、ウェルビーイングが注目される背景やバーンアウトとワークエンゲージメントとの関係性などについて語ってもらった。

01人的資本の概念にリンクし、ウェルビーイングへの注目が高ま

久保先生は、働きやすい組織と個人のウェルビーイングを研究されておられます。近年、日本企業ではウェルビーイングがキーワードとして取り上げられています。その背景をお聞かせください。

「今なぜウェルビーイングなのか」と言った場合に、人的資本という考え方に恐らく重なってくると思います。従業員のウェルビーイングを重視する企業,一人一人の生き方と真剣に向き合ってくれる企業に優秀な人材が集まるようになったことが,その背景にあるのではないでしょうか。

若い人の中で徐々に転職が一般的になってきています。私のゼミの卒業生も良い就職先に入ったとしても、何年かして転職していくことが全然珍しくなくなっています。彼ら彼女らが転職先でも活躍しているという話を聞くと、転職支援に関してはこれからもどんどん広がっていくんだろうと思います。

その意味では、今までのように優秀な人材を一括採用するだけではなくて、そういった転職組からも企業を担っていくような、基幹的な労働者が出てくるはずです。そうした時に、新たな活躍の場として選んでもらえるのは、生活と仕事のバランスが取れていて働きやすい、そして自分自身が能力を伸ばしていける企業だと思います。

新卒の場合には、学生はほとんど企業の情報を持たないまま入社してしまったり、ただ単に「有名企業だから」「社名を知っているから」で会社を選びがちです。ある程度社会人としての年数を積んだ人たちは、名前だけではなくて、自分自身が生かせる場所かどうかという視点で選ぶとすれば、企業としてもそういった人たちから選んでもらえるようなバランスが取れた人生が送れる環境を整えていく必要があります。そういう意味でウェルビーイングという話になってきていると思います。

だから、働きがいとか、いわゆる仕事中心の価値観ではなくて、その人の生活をトータルに見た上でサポートできる機会を提供していこうということで、ウェルビーイングという言葉が今流行っていると捉えています。

それぞれの企業に応じたウェルビーイングが存在するのでしょうか。

ウェルビーイングには、実は定義がありません。元々、WHO(世界保健機関)が健康の定義としてウェルビーイングという言葉を使いました。その場合には、いわゆる今の身体の健康、あるいは心の健康だけではなくて、社会的な状態も重要な要素だとなりました。総合的な視点から健康を考えましょうということです。そこから色々な人がさまざまな形でウェルビーイングを定義しており、実際には定まった定義がないというのが実情です。

人だけでなく、企業がウェルビーイング経営という形で使う場合もあります。その場合には、企業自身が社会的にも、人的にも、あるいは制度的にもバランスの取れた経営をしているということを指したりします。

02個人のウェルビーイングが高い組織は生産性も高い

個人のウェルビーイングは働きやすい組織とどう結びついていくのでしょうか。

私はウェルビーイングを仕事と生活、いわゆるワーク・ライフバランス的な意味合いで理解しています。仕事と生活の両面が充実できる会社、もっと言えばワーク・ライフバランスが取れて、なおかつ生産性が高い職場を作ることが、優秀な人材が長く、そして高いパフォーマンスを発揮できる環境になっていくんだろうと思っています。個人のウェルビーイングが実現できる会社は、当然優秀な人材が集まりますし、それによって生産性も上がります。そういったことで組織と個人を繋げて考えていくという話になります。

個人のウェルビーイングと働きやすい組織との結びつきをどのように研究されておられるのですか。

私自身は心理学の出身です。心理学は個人の精神的なプロセスを学ぶ学問と言えます。その中でも、最初はストレスを研究していたのです。

私がストレスを研究していた1990年ぐらいに、看護師の集団離職がマスコミをにぎわす形となりました。それで,看護師,次に公的サービスというくくりで,介護士や教員といった人たちが研究の対象となっていったわけです。

ただ、先ほど言いましたように心理学は、個人のプロセスを問題にするので、心理学でのストレスの研究は、ストレスをいかに個人の中で対処するか、いかにストレスを軽減し自分の中でそのストレスをマネージするかが、メインのテーマになってきます。しかし、病院や学校組織を見ていくと、個人の問題ではなく組織自体に非常に大きな問題があり、個人で対処できるレベルを越えている,個人ではどうしようもない部分が存在していることに気づきました。そこから、いわゆる組織の研究を始めたわけです。

主な研究テーマとしては、公的なサービスに携わる人たちの燃え尽き症候群、別名バーンアウトと呼ばれている現象がなぜ起こってくるのか、あるいはバーンアウトが起こりやすい組織、起こりにくい組織の研究をずっと続けてきました。その中でバーンアウトと対極にある概念としてウェルビーイングに関心を持ったのです

03ワーク・エンゲージメントとバーンアウトは同じ延長線上にある

バーンアウトは、ウェルビーイングの対極にある言葉なのですね。ワーク・エンゲージメントとウェルビーイングの関係はどうなのでしょうか。

一般的には、バーンアウトの対概念はワーク・エンゲージメントということになっています。ただ、そもそものバーンアウトの背景は仕事に対する偏った価値観、仕事中心の価値観にあると思います。

確かに仕事のやりがいがあって、いわゆるゾーンに入ったみたいな形で仕事を一生懸命取り組んでいる人は、見た目ではワーク・エンゲージメントが高い人と言えます。そういう意味では、仕事へのやる気を失ってしまうバーンアウトとは対極の状態だと言えます。しかし、仕事にのめり込んでいるときに何かの歯車が狂った時に起こるのがバーンアウトなのです。実はバーンアウトの予備軍はワーク・エンゲージメントの高い人だということを、私自身は仮説として持っていますし,実際に海外の研究でも、ワーク・エンゲージメントのスコアとバーンアウトのスコア両方を計測しており、どうなると離職や退職するのかを追跡調査したようなデータがあります。

その時に最も離職率が高かったのが、バーンアウトも高いしワーク・エンゲージメントも高い、要するに仕事に対して非常に熱心に取り組んでるんでいるもののその分ストレスも高い人たちでした。見た目ではバリバリ働いてる人たちなのですが、何か一つ歯車が狂うと離職・転職、いわゆる燃え尽きるというところに陥ってしまうわけです。

なので、ワーク・エンゲージメントとバーンアウトは確かに見た目としては、対概念なのですが、同じ延長線上にあるのではないかと思っています。その意味で、バーンアウトしない人たちは仕事だけの価値観で生きているのではなくて、それ以外の価値も持っていると言うことができます。先ほど言ったような自分の生活をバランス良く捉えている人たちなのではないかというのが、私自身の研究における現在の仮説になってます。

04バーンアウトが重症化すると離職・転職につながる

昨今は、ウェルビーイングやワーク・エンゲージメントは大流行です。バーンアウトと言う概念も話題になっているのでしょうか。

バーンアウトの肩を待つわけではないのですが、バーンアウトも最近は人気です。Googleアラートというサービスを利用すると、登録したワードがネット上でどれだけ記事として取り上げられているのかがわかります。私もバーンアウトと感情労働など幾つかの用語を登録しています。バーンアウトは毎日のようにネット上で記事が出てくるぐらい、最近では良く使われるキーワードになっています。色々なものが入っていて、必ずしもバーンアウトとは言えない類もあったりするのですが、燃え尽きとかバーンアウトという話題は頻繁にネット上の記事になっています。

学術的な話で言うと、2022年にWHOが疾病分類を改定した時に初めてバーンアウトという項目が入りました。なので、一般の人たちの認知度は上がっていると思います。バーンアウトは、どちらかと言えばネガティブな言葉なので,企業のキャッチフレーズなどにはなりにくいのかもしれませんが,最近良く使われるワードになってきているのは間違いないと思います。

バーンアウトは、昔からある概念なのですか。

バーンアウトは元々、米国の心理学者ハーバート・フロイデンバーガーが提唱した概念です。1974年にその言葉を使った論文が出て以来、バーンアウトの研究が続いています。最初のバーンアウトは先ほどお話したヒューマンサービス、公的なサービスに従事している人たちを対象とした研究でした。

バーンアウトを測るための世界標準で使われている尺度があるのですが、その項目の中にクライアントという言葉が出てきます。それは明らかに人にサービスを提供する人たち向けの尺度になっています。人に対してサービスを提供する人たちが陥る状態として、このバーンアウトの研究が始まったわけです。

それが、2000年を過ぎた頃から、バーンアウトの対象がヒューマンサービス、公的なサービスから対人サービス、そして人に対してのサービスが仕事の中心ではない,職業一般へと広がっていきました。一般的な職種の人、例えば何か仕事に対して非常に高いモチベーションを持っていた人が急にモチベーションが減衰して、そして、離職・転職に至るという形もバーンアウトと呼ばれるようになり、対象が一気に広がっていったのです。

最近、一番マスコミで話題を集めたのが、世界的に人気のK-POPグループであるBTS(防弾少年団)のメンバーが、バーンアウトを理由に活動を停止したニュースです。かなり注目されました。他にも、芸能人やスポーツ選手などでも、バーンアウトという言葉が使われるようになってきており、認知度はかなり上がってきた印象があります。

バーンアウトに陥ると突然休職したり、重い場合には離職したり、うつ病になってしまったりするわけですか

バーンアウト自体は一種の不適応状態なので、WHOの分類でも疾病とはされていません。そういう意味では病気ではないのです。ただ、バーンアウトが昂じると実際に離職や退職という行動になったり、あるいはメンタル部分でのうつ病になってしまいます。そうなると、病気に至るということがあります。

05バーンアウトは仕事に対する失恋のような状態

バーンアウトが看護師や教員に何故多いのですか。

まず、私は「バーンアウトとは何か」と聞かれた時に、以前は難しい定義で説明していました。ただ、受けが良くないと言うか今ひとつピンとこない感じだったので、最近は「バーンアウトは失恋みたいなものだ」と譬えています。要するに、失恋は自分が熱烈に恋した人から何の見返りもなかった,これだけ尽くしたのに振り向いてもらえなかったという喪失感がベースとなっています。バーンアウトは、仕事に対する失恋。自分はこれだけ頑張ったのに仕事からは何も得られなかった、失恋と同じような喪失感を経験している状態だと説明しています。

恐らく、失恋を経験したことがない人はいないと思います。失恋するとしばらく何もできなくなりますよね。あれと同じ状態なのです。失恋の場合は、代わりが割と沢山いますから、それほど大きなダメージもなく新しいパートナーを探せるかもしれません。しかし、仕事の場合はなかなかそういうことができなかったりします。

恐らく、失恋は若い頃に経験するもので、ある程度年を取ってくるとなかなか失恋しなくなると思います。やはり、若い頃はパートナーに対する過度な思い入れや理想化みたいなものがあって、それがいわゆる恋に恋する形となり、相手もそれが重荷となってふられてしまうのだと思います。

仕事の場合にも、その仕事に対して高い理想を持っていたりすると、実際にその仕事から自分が最初に思い描いていた通りのことが得られなかったリ、上手くいかないという気持ちが生じてきたら、それがバーンアウトにつながったりします。

先ほどいただいた、「なぜ看護師や教員でバーンアウトが頻発するのか」と言う問いについてですが、看護師や教員を志望している人たちは、概ね仕事に対して非常に高い理想を持っています。もちろん、セールスマンの中にも高い理想を持って入社してくる人もいると思うのですが、看護師や教員という人たちの方が遥かに仕事を理想化して入職してくることが多いのは間違いありません。仕事に対して真面目で献身的な人たちが多いからこそ、バーンアウトが起こりやすいと考えています。

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久保 真人

同志社大学

政策学部・

総合政策科学

研究科 教授

1983年京都大学文学部卒業後、1999年同大大学院文学研究科博士(文学)取得。大阪教育大学教育学部助手、同志社大学政策学部助教授などを経て、2006年より現職。専門は組織心理学。著書に『バーンアウトの心理学――燃え尽き症候群とは』(サイエンス社/2004年)など

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