>やりがいを搾取する組織が最も危ない(後編)
ドイツの哲学者・経済学者カール・マルクスは、資本主義を資本家が労働者を搾取する不公平なシステムであると批判した。労働者が生み出した利益を資本家が手にしてしまうことを指摘したものだ。最近では、「利益に留まらず労働者のやりがいをも搾取しているのではないか」という声が高まっている。やりがいは、職場の生産性アップや定着率向上への大きな原動力となるが、それを意図的に利用し労働者に不当な労働を強いる企業が見られるというのである。近年、バーンアウト(燃え尽き症候群)がクローズアップされているのも、その流れと言って良いかもしれない。こうした問題を個人の適性に留めず、組織さらには社会の在り方に絡めて捉えていく必要性を提示しているのが、同志社大学政策学部・総合政策科学研究科教授の久保 真人氏だ。インタビューの後編では、バーンアウトの重症化を防ぐ手立てや感情労働などについて語ってもらった。
目次
01バーンアウトはキャリアにおける一つの節目
最近の若者は失恋どころか、恋愛をも避ける傾向があります。バーンアウトは、起きない方が良いものなのですか。
実は、「バーンアウトは失恋みたいなものだ」と講演などで話したりするのですが、終わった後に「先生、今の若い人に失恋と言っても通じないかもしれません。失恋しないからです」みたいなことを言われることが何度かありました。確かに、うちの大学の学生もあっさりと別れても、しばらく経つと新しい人ともう付き合っています。結構ドライな感じの人が多いです。なかなか失恋の感覚はわからない人が増えてきているのかもしれません。
失恋も人生経験上必要というか、自分に合ったパートナーを見つける上での一つのプロセスだと思います。実はバーンアウトもそうなのです。皆が離職・退職してしまうわけではなくて、キャリアの中での一つの節目なのです。これは、私の著書「バーンアウトの心理学 燃え尽き症候群とは」(サイエンス社)の最終章でも書いています。
仕事に対する期待感、想いがあって真面目な人なら、実際の仕事との間にギャップがあれば、大なり小なり皆キャリアの中でバーンアウトに似た状態を経験していて、そこから自分と仕事との距離の取り方や仕事への関わり方を学んでいくはずです。
もちろん、それがひどくなると離職や転職、さらには何かの病気に繋がる場合もあります。とは言っても、長い間高いレベルの仕事を続けている人は、話をしてみると必ずバーンアウトに近いような経験を持っておられて、その中で自分自身がどう仕事に関わっていくか、そして仕事から何を期待するかを学んでいます。バーンアウトはキャリアの節目にもなると私自身は思っています。
02上司や同僚のサポートでバーンアウトの重症化を防げる
組織としてバーンアウトの重症化を防ぐ手立て、アドバイスをお聞かせいただけますか。
基本的には、人によるサポートが非常に重要になると思います。バーンアウトの研究をし始めた頃に、京都で非常に優秀な看護師長さんと出会い、お話を伺う機会がありました。その看護師長さんは、白血病の病棟で働いている方でした。病気の性質上、病棟で亡くなられる方が多かったんです。しかも、白血病なので子供や若い人たちが亡くなることも少なくはない職場でした。
その看護師長さんは、受け持ちの患者さんが亡くなられた部下の看護師に「良くやったよ」と必ず声を掛けていたそうです。患者さんは治癒して退院する時もあれば、亡くなられる時もあります。いずれであっても、看護師として最後まできちっとケアできていれば、それは成功なんだという話をしているというのです。ただひたすら仕事にのめり込んでいくのではなく,その限界を知り,自分のできる最善を尽くそうという姿勢です。
当然ながら医療としての限界はあります。その限界の中で自分たちの仕事を遂行すること、看護師の気持ちが前向きになるための声かけです。
特に、若い人が亡くなったりすると、「もっとやってあげられることがあったのではないか」「こういうことをしてあげた方が良かったのではないか」という気持ちになりがちです。こういった負のループに陥らないためにも「良く頑張ったよ」と声を掛けて上げるようにする。その話を聞いて、「こういう上司がいたら良いんだろうな」と思った経験がありました。そういうロールモデルと成り得る人がいる組織はバーンアウトへの耐性が強い環境だと思います。
また、通常の病院組織でもカンファレンスという場を設けて、ベテランと若手の看護師がさまざまなケースについてディスカッションする機会を設けています。そこでは、看護師同士で患者の情報共有とその対応などを話し合います。仕事への関わり方,距離の取り方を学ぶ良い機会になっていると思います。病院以外の組織でも同じような場が持てれば,とても有効機会だと思います。
実際、どんな組織がバーンアウトを起こしやすいのでしょうか。
象徴的な言い方をすると、やりがいが搾取されているような組織です。やたらとエンゲージメントややりがいを強調している組織は、バーンアウトを起こしやすい組織だと思います。たとえば,教員組織は残念ながらその傾向が強いと言わざるを得ません。先生は真面目な人が多いですし、生徒のためなら残業代もなしに超過勤務をするのが当然で、そこに強いやりがいを感じているように思えます。
ワーク・エンゲージメントの調査をすればとても高い得点が得られると思いますが、バーンアウトや過労死と隣り合わせの環境であることは間違いありません。一見すごくやりがいに満ちて皆が働いているような組織が、実は私からすると一番危ない組織だと思っています。
03感情労働は現代社会を象徴する重要な用語
久保先生の研究キーワードに挙がっている感情労働とは、どういう概念なんでしょうか。
そもそも感情労働自体は、米国の社会学者A・R・ホックシールドが1983年に執筆した著書「The Managed Heart」で提唱された概念です。背景としては、サービス経済化の流れの中でサービス業に従事する人たちが先進国で増えてきたことがあります。サービス業の人たちは、もちろん肉体労働でもあるのですが、例えばクレーマーに対しても笑顔で対応しないといけないとか、悪いと思っていなくても謝らなければいけないといった、肉体よりもむしろ自分自身の感情を抑制しながら、顧客のニーズに沿うよう自分の感情をフェイクすることを余儀なくされるケースが増えて来ています。それを感情を酷使するという意味で、感情労働という言葉を使いました。
これは現代の労働、現代の社会を象徴する重要な言葉だと思っています。私自身は、当初はサービス業に従事する人たちのストレスとの関連で関心を持ったのですが、その後の研究の中ではマイナスの部分だけではなくて、例えば私達が労働の中で達成感を得たり、満足を得たりする一つの形として相手から感謝されたり、お互いに感情のやり取りがあるといったプラスの部分もあることもわかりました。
もっと社会構造的な問題としては、感情労働が正しく評価されていないという問題もあります。日本も含めてですが、サービス業が割と使い捨てになっています。事実、非正規職員が低賃金で働かされています。知識やスキルは高く売れるのですが、人間的な感情を酷使することは、あまり高く評価されていなかったりします。
そういった労働の中に、女性が沢山配置されています。その背景には女性だから愛想を振りまくのは得意なのではといった一種のジェンダー的な偏った見方、ステレオタイプが存在しているのではないかといった議論もあり、その辺りに関心を持っていることもあって、感情労働を研究のキーワードの一つとして挙げています。
「感情労働はバーンアウトと非常に親和性が高い」「感情労働がバーンアウトの原因になっている」などといった議論が今もあります。感情労働という概念は,今の社会のいろいろな側面を浮き彫りにしています。現在感情労働をテーマに本を執筆しているところです。出版されたら、ぜひ皆さんにもご覧いただきたいです。
04人的資本をよりバリューアップできる企業に未来がある
ここからは話題を変えさせてください。「人材版伊藤レポート」の公表以来、人的資本経営がクローズアップされています。改めて、ビジネス競争に勝ち続けるために今なぜ人的資本が重要なのかを教えていただけますか。
昔、労務管理と言われていたものが人的資源管理になり、そして人的資本という言い方に変わってきたと理解しています。人に対する考え方が、企業あるいは社会の中で変わってきたのだと思っています。
私自身は、労務管理の専門家ではありませんので、人的資本というものがどういった形で研究されてきたのか、経営学の研究的背景については、実は存じ上げないです。
しかし、私のイメージとしては今お話したように、人に対する考え方が変わってきた印象です。人的資源と言うと何か消費するものというイメージがあります。それに対して、人的資本と言うと、大切に持っていなければいけないもの、企業としての財産、そういった意味合いが強くなります。なので、人に対しての考え方がより人を尊重するということに変わってきたのではと思っています。それが一点です。
もう一つは、私自身の専門を踏まえて付け加えると、今さまざまな形で働き方改革であるとか、あるいはメンタルヘルス関連とか、そういった企業で働く人たちのメンテナンスやケアなどの視点が以前に比べると非常に強くなってきています。それも、人的資本の考え方とマッチする世の中の流れなのではないかと思っています。
この人的資本経営の取り組みを企業価値向上につなげるためには、どうしたら良いとお考えですか。
先程のコメントの最後に触れましたように、従業員のメンテナンスや従業員自身のキャリアアップであるとか、あるいはリスキリングであるとか、そういった話もありますけれども、自分自身が自らを高めていくことをサポートしていく、言い換えれば、資本は企業が持っている財産なので、その財産をより増やしていく、あるいは価値あるものにしていくという、そういったものが人的資本経営だと思います。
日本の場合には、労働人口が減っていっていますし、若い人たちも減ってきています。その意味では、人的資本自体が奪い合いになっているという部分があるかと思います。となると、自分たちの持っている資本をできるだけ磨いて、そしてそれを企業の生産性に活用していくことが、以前に比べてより重要になってきているし、それができる企業がこれからの日本において発展していくんだろうという話だと理解しています。
人的資本に関する開示の状況をどう捉えておられますか。
本来日本の会社の場合には、人事部が社員のキャリアを組み立てていく上で、非常に大きな役割を果たしていると思います。その意味では開示そのものにエネルギーが取られてしまって、人的資本の育成であるとか、キャリアプランとかに手が回らなくなっているとすれば、それは本末転倒な話なのかなと思います。
05ジョブ型雇用を広げるには教育システムの変革が不可欠
ジョブ型に関する見解をお聞かせいただけますか。
日本においてジョブ型雇用は、なかなか難しいだろうというのが私の見解です。それは、企業だけの問題ではないからです。私自身、大学で勤務していまして、新卒一括採用、いわゆる就活と言われているものに取り組んでる学生の様子を見聞きしていますと、ジョブ型雇用とは全くかけ離れた形での採用活動が現在行われていることがわかります。
実は、私自身10年前オーストラリアに社会学の研究員として1年間滞在していたことがあります。その時にオーストラリア人の社会学の先生から「相談に乗ってほしい」と言われました。内容としては、オーストラリアの大学に留学している日本人の学生がいて、「日本に帰ってからは銀行に就職したい」と言っているので、「それなら経済学の学位も必要なのではないか。このままだと社会学の学位しかもらえない。もう1年間留学を続け、経済学の講義も幾つか取れば、社会学の学位に加えて経済学の学位も取れる。だから、1年間卒業を待ってから銀行に就職した方が良いと私は助言しているが、その日本人の学生がどうも理解してくれないので、話しをしてあげてほしい」とのことでした。
実際に、その学生と会って話をすることがありました。その際に、「日本の銀行に就職するにあたって、本当に経済学の学位も必要なのでしょうか」と学生から質問されました。私の答えは、「全く必要ありません」でした。
その辺りの感覚が欧米系の大学の先生や学生とは、全く違うんですよね。日本ではとにかく潜在能力があって、活動的な若い人たちを送り出してくれれば良いという企業側のニーズがあります。大学側も学位がそのまま専門的な知識やスキルの証明になるほどのハードルを学生に課しているわけではありません。もっと言うと、学生自体がどういう経緯で大学に入学するかというとやはり偏差値で選んでいます。要は、自分が通りそうな大学をリストアップして、「ここは有名な大学だから」という理由で受験をしがちです。例えば、特定の大学に行くことが目的で,法学部・経済学部・商学部などを全部受けて、通ったところに行くというケースが非常に多いです。
そもそも、日本の教育だと大学で何かを身に付けて、それを社会に役立ていくという発想がありません。企業がどれほどジョブ型雇用に変えたとしても、裾野から変えていかないと変わっていかないという実感を持っています。なので、もしジョブ型雇用という方向に変わっていくのであれば、教育のシステムも変えていかなければいけません。企業だけの問題ではありません。それは現時点では相当難しいのではないかと思います。もちろん、社員の処遇をジョブ型みたいな形に変えていくのはできるでしょう。ただ雇用自体は、今の新卒一括採用という形がそう簡単には変わらない気がしています。それが、私の意見です。
最後に仕事について思うところをお聞かせいただけますか。
仕事だけに専心するのではなく、仕事とは何か別の世界を持っている人たちがいてこそ、やりがいを持って働けるし、生産性も高まる職場であると思っています。それが、ウェルビーイングという話に通じます。やはり、そういった仕事だけでなく、仕事以外にも目を向けられる機会であるとか、価値観を養えるような職場環境を作っていってほしいです。それが、結果的に組織にプラスに返ってくると私は思っています。
――久保先生、貴重なお話をありがとうございました。
久保 真人氏
同志社大学
政策学部・
総合政策科学
研究科 教授
1983年京都大学文学部卒業後、1999年同大大学院文学研究科博士(文学)取得。大阪教育大学教育学部助手、同志社大学政策学部助教授などを経て、2006年より現職。専門は組織心理学。著書に『バーンアウトの心理学――燃え尽き症候群とは』(サイエンス社/2004年)など