従業員インパクト会計とは、企業が従業員に支払った給与などが、どれだけ社会に価値を生み出したかを数値で示す会計手法です。明治大学の三和裕美子教授は、投資家が人的資本に求めているのは施策の一覧ではなく、従業員が生き生きと働くことが企業価値の創造にどう結びつくのかという「ストーリー」だと語ります。
上場企業に人的資本の情報開示が義務づけられ、人的資本経営のテーマは「どう開示するか」に移りつつあります。そこで注目されているのが、あらゆるステークホルダーに自社の現状と方向性を伝える統合報告書です。
本記事では、証券市場論と機関投資家論を専門とし、「第3回日経統合報告書アワード」の審査員も務めた三和教授へのインタビューをもとに、人的資本経営が注目される背景、従業員インパクト会計と柳モデル、東証のPBR改善要請がもたらした変化、「負の外部性」を取り込む開示、そして評価される統合報告書の条件について解説します。
この記事でわかること
・マルチステークホルダー経営と人的資本経営の関係
・従業員インパクト会計と柳モデル――人への投資を企業価値と結びつける手法
・東証のPBR改善要請が日本企業にもたらしたインパクト
・「負の外部性」を取り込み、価値創造ストーリーとして開示する考え方
・日経統合報告書アワードで評価される統合報告書の条件
取材協力:三和 裕美子(みわ ゆみこ)氏
明治大学 商学部 教授、博士(商学)(取材時)。大学卒業後、1988年から1991年まで大手証券会社に勤務。その後、同志社大学大学院アメリカ研究科修士課程、大阪市立大学大学院経営学研究科博士課程を経て、1996年より明治大学商学部および大学院で「機関投資家論」を担当。1996年から1998年には米ミシガン大学客員研究員。研究分野は、機関投資家とコーポレートガバナンス、機関投資家のエンゲージメントとESG投資、資本市場と女性活躍、アクティビストが企業に及ぼす影響など。著書に『激動の資本市場を駆け抜けた女たち』(白桃書房、2022年)、『投資家資本主義の未来:ESG投資の行方』(千倉書房、2024年)、共著に『DXと人的資本』(税務経理協会、2023年)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
人的資本経営が注目される背景――マルチステークホルダー経営
企業は株主だけでなく、従業員や顧客などさまざまなステークホルダーで成り立っています。2019年8月、米国の主要な経済団体ビジネス・ラウンドテーブル(BRT)が、それまでの「株主価値の最大化」から、従業員や顧客を含むステークホルダーの利益を考慮する企業像へと転換を表明しました。このころからマルチステークホルダー経営が日本でも重視されるようになったと三和教授は言います。
日本には「三方よし」という考え方があり、もともと従業員を重視していたという議論もあります。しかし本当のステークホルダー経営を考えると、従業員への給与や報酬をコストではなく、エンゲージメントを高めることで企業価値にどう影響するのかというストーリーが必要になります。その流れの中で人的資本経営が出てきたと三和教授は見ています。
投資家が見たいのは「施策」ではなく「つながり」
機関投資家が評価したいのは、従業員が生き生きと働き、エンゲージメントが高いことと、戦略との関係です。「福利厚生をこんなに頑張っている」「こんな教育をしている」という施策は、統合報告書に数多く開示されています。しかし投資家が求めているのは、それが企業価値の向上にどう結びついているのかを可視化したストーリーなのです。
従業員インパクト会計とは?――「給与はコストではなく価値」
従業員インパクト会計とは、企業が従業員に支払った給与などが、どれだけ社会にインパクト(価値)をもたらしたかを示す会計手法です。米ハーバード・ビジネス・スクールのジョージ・セラフェイム教授が主導する「インパクト加重会計イニシアティブ(IWAI)」で開発され、その取り組みは2022年に国際財団IFVIへと発展しています。
日本で初めてこの手法を使って、従業員の給与がコストではなく価値を生んでいることを数値で示したのが、製薬会社のエーザイです。同社は今、従業員インパクト会計の数値をKPIにしているといいます。まだ少数ではあるものの、こうした取り組みが経営目標になっていることから、投資家が人的資本経営を評価できる時代になってきたと三和教授は語ります。
柳モデル――ESGの取り組みとPBRの相関を示す
もう一つの手法が、エーザイの元CFO・柳良平氏が考案した「柳モデル」です。女性従業員の活躍や男性の育児休業取得といったESGの取り組みが、導入から数年後のPBR(株価純資産倍率)の向上と相関しているかを示すものです。
| 手法 | 何を示すか | 導入企業の例(三和教授の紹介) |
|---|---|---|
| 従業員インパクト会計 | 従業員に支払った給与などが、社会にどれだけ価値を生んだか | エーザイ(数値をKPIにしている) |
| 柳モデル | ESGの取り組みと、数年後のPBRとの相関 | エーザイ、アサヒビール、日清製粉、NECなど |
出典:三和教授への取材をもとに編集部作成
柳モデルはESGの取り組みとPBRの相関を示したものですが、従業員への施策が企業価値にどう寄与しているのかを検討する企業が出始めていることの表れです。投資家が企業価値と結びついたストーリーを求めるようになり、企業もそれに応えて開示を始めていると三和教授は見ています(人件費の会計上の扱いと人への投資の関係は、島永和幸教授の解説記事でも紹介しています)。
人への投資と企業価値のつながりを示すには、まず人的資本の状態を継続して測り、見える化しておくことが出発点になります。
人的資本と企業価値のつながりを、データで示す
投資家が求める価値創造ストーリーを語るには、人的資本の状態や施策の成果を指標で継続して測定し、わかりやすく可視化することが欠かせません。DEFiDEの「HRキャピタルダッシュボード」は、人的資本報告の国際規格ISO 30414に基づき、11領域58指標のデータを企業規模に応じて可視化・レポートできるクラウドサービスです。
東証のPBR改善要請が日本企業にもたらした最大のインパクト
三和教授は、日本の資本市場とコーポレートガバナンスの変化を次のように振り返ります。
| 時期 | 日本の資本市場の変化 |
|---|---|
| かつて | 銀行と事業会社の株式持ち合いが中心の「法人資本主義」。純投資の機関投資家がほとんどいない |
| 1990年代 | 銀行が不良債権問題を抱え、企業をチェックする役割から降りる |
| 2014年〜2015年 | スチュワードシップ・コード、コーポレートガバナンス・コードの導入。機関投資家が資本市場から企業をモニタリングする仕組みが軌道に乗る |
| 2023年3月 | 東京証券取引所が、資本コストや株価を意識した経営(PBR改善)を上場企業に要請 |
出典:三和教授への取材をもとに編集部作成
この10年で、社外取締役や女性役員が加わり、機関設計も変わるなど、ガバナンスは大きく変わりました。しかし、日本企業の稼ぐ力や株価は今も欧米に劣っています。そこで東証がPBRの改善を要請し、企業が慌てて資本市場を意識し始めました。東証のPBR改善要請は、コーポレートガバナンス・コード導入以来、最大のインパクトだったと三和教授は言います。機関投資家がずっと言い続けても変わらなかったことが動き出し、アクティビストやファンドがPBRの低い企業に働きかける動きも加速しています。
「負の外部性」を取り込み、価値創造ストーリーとして語る
有価証券報告書へのサステナビリティ情報の記載が企業の持続的成長にどうつながるのか。三和教授は、10年以上の長期で事業を考えるなら、地球環境や人的資本などのサステナビリティなしに持続的な成長はないと言います。
例えば化石燃料を使った経済活動は、地球環境を汚染してきました。経済学ではこれを「負の外部性」(生産や消費に伴って第三者が負担するコスト)と呼びます。放置すれば、将来ビジネスを続けられなくなるリスクがあります。長期的には、負の外部性を企業の内部に取り込む活動が求められているのです。人的資本や人権の情報を開示することも、その一つです。
男性の育休を「社会的インパクト」として語る
三和教授は、男性の育児休業取得率を例に、価値創造ストーリーの描き方を説明します。
- 男性が育児休業を取る:例えば5日間や1カ月間
- 配偶者の育児・家事負担が減る:減った時間を試算できる
- その時間を仕事に向けられる:その分の賃金を計算できる
- 社会的インパクトとして示す:育児休業によって女性が働ける社会的な価値を、これだけ生み出したと説明する
まず開示し、それが企業の将来的な価値やリスクの減少にどう結びつくのかというストーリーを統合報告書で展開することが大切です。その際には、ロジックモデル、国際統合報告評議会(IIRC)の価値創造プロセス(いわゆるオクトパスモデル)、ロジックツリーなど、可視化のモデルを使う企業もあります。
評価される統合報告書の条件――日経統合報告書アワードから
「第3回日経統合報告書アワード」の審査員を務めた三和教授は、統合報告書の情報量が年々増え、読みやすさと情報量をどう両立させるかが課題になっていると言います。そのうえで、評価が高い統合報告書の特徴を次のように挙げています。
| 評価のポイント | 内容 |
|---|---|
| ① 読みやすさと情報量の両立 | 日立製作所は、ページ数を大きく絞ってエッセンスだけを載せ、詳しい情報は別サイトで展開している |
| ② トップメッセージの熱量 | 自分の言葉で書いているか、ライターが当たり障りなく書いたかは読めばわかる。学生も投資家も、まずトップメッセージを読む |
| ③ 非財務と企業価値のつながり | 非財務情報が企業価値にどう結びつくかを工夫して見せている |
| ④ 資本市場との対話の開示 | 機関投資家とどんな対話をし、その声を戦略にどう生かしたかを開示している |
| ⑤ ガバナンスの説明 | スキルマトリックスにとどまらず、なぜその社外取締役が必要なのかを文章で明確に示している |
| ⑥ とがったテーマ | グランプリのコンコルディア・フィナンシャルグループは、全ページを東証のPBR改善要請への取り組みと財務の考え方の解説に充てた |
出典:三和教授への取材をもとに編集部作成(第3回日経統合報告書アワードの審査を踏まえた三和教授の見解)
「企業として、『ここを頑張っています』と言い切る大胆さは大事だと感じました。」
――三和教授
情報量が多くビジュアルもよく、全般的に優れた統合報告書は数多くあります。しかし、とがった部分やエッジが効いた報告書のほうが審査員に響くと三和教授は語ります(統合報告書で何を伝えるべきかは、円谷昭一教授の解説記事でも紹介しています)。
よくある質問(FAQ)
Q. 従業員インパクト会計とは何ですか?
A. 企業が従業員に支払った給与などが、どれだけ社会に価値をもたらしたかを数値で示す会計手法です。ハーバード・ビジネス・スクールのセラフェイム教授が主導するインパクト加重会計イニシアティブで開発され、日本ではエーザイが初めて導入し、その数値をKPIにしています。
Q. 柳モデルとは何ですか?
A. エーザイの元CFO・柳良平氏が考案したモデルで、女性活躍や男性の育児休業取得などのESGの取り組みが、導入から数年後のPBR(株価純資産倍率)の向上と相関しているかを示すものです。三和教授によると、エーザイのほか、アサヒビールや日清製粉、NECなどでも導入されています。
Q. 投資家は人的資本の何を評価しているのですか?
A. 三和教授は、投資家が評価したいのは、従業員が生き生きと働きエンゲージメントが高いことと、企業の戦略や企業価値との関係だとしています。施策を並べるだけでなく、それが企業価値の向上にどう結びつくのかというストーリーを可視化することが求められています。
Q. 東証のPBR改善要請はどんな影響を与えましたか?
A. 三和教授は、2023年3月に東京証券取引所が資本コストや株価を意識した経営を要請したことは、コーポレートガバナンス・コード導入以来、最大のインパクトだったと評価しています。企業が資本市場を意識し始め、アクティビストやファンドがPBRの低い企業に働きかける動きも加速しています。
Q. 評価される統合報告書にはどんな特徴がありますか?
A. 三和教授は、読みやすさと情報量の両立、熱量のあるトップメッセージ、非財務情報と企業価値のつながりの説明、投資家との対話の開示、社外取締役が必要な理由の明確な説明などを挙げています。全般的に優れているだけでなく、「ここを頑張っている」と言い切るとがった部分がある報告書が評価されるとしています。
まとめ:人への投資を、企業価値につながるストーリーで語る
- マルチステークホルダー経営の流れの中で、従業員への報酬をコストではなく価値と捉える人的資本経営が出てきた
- 投資家が求めるのは施策の一覧ではなく、従業員の働きがいと企業価値のつながりを示すストーリー
- 従業員インパクト会計や柳モデルなど、人への投資を企業価値と結びつける手法が広がりつつある
- 東証のPBR改善要請は、コーポレートガバナンス・コード導入以来、最大のインパクトとなった
- 評価される統合報告書は、トップの熱量があり、企業価値とのつながりを示し、とがった部分を持つ
後編では、統合報告書を自社で試行錯誤しながらつくる価値、就職活動や中小企業にとっての情報開示の意味、「投資家資本主義」とインベストメントチェーン、そしてパーパスを重視するZ世代に向けた発信の大切さについて解説します。
従業員の働きがいとエンゲージメントを把握する
投資家が見たいのは、従業員が生き生きと働いていることと企業価値のつながりです。その出発点として、従業員の働きがいやエンゲージメントの状態を把握することが欠かせません。DEFiDEの「生成AIワークバリュー・スコア分析」は、生成AIで従業員の属性や組織の特性に合わせた質問を作成し、組織の状態を迅速にきめ細かく可視化します。
▶ 後編:統合報告書はどう作る?自社で試行錯誤する価値、就活生・アクティビストへの開示、「投資家資本主義」とZ世代(内部リンク)
▶ インタビュー全文:統合報告書は、あらゆるステークホルダーとの対話ツールと成り得る(前編)(JOB Scopeマガジン)