2020年に経済産業省が「人材版伊藤レポート」を公表して以来、人的資本に関する議論がにわかに活発化している。さらに、拍車を掛けたのが2022年の「人材版伊藤レポート2.0」であり、2023年の「人的資本の情報開示義務化」だ。この期間、人的資本経営の実践に向けた取組が着実に広がって来ている。そして、今年2024年は「人的資本経営の成功事例が大きくクローズアップされる一年になる」と予測するのが、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任教授の岩本 隆氏だ。人的資本経営に造詣が深い同氏に、最新動向を聞いた。

 

インタビューの前半では、金融資本主義から人的資本主義へのシフトや人的資本報告の国際標準化、人材の活躍・成長と企業の成長などについて語ってもらった。

012023年は人的資本の
開示元年。
日本でも人的資本主義が
ようやく定着

まずは、2023年における人的資本経営のトレンドを総括いただけますか。

有価証券報告書で開示義務ができたため、上場企業の皆さんがあたふたされたご様子でした。「2023年は人的資本経営準備元年だ」と言う人もいたりしましたが、取組が進んでいる企業では人的資本でISO 30414の認証を取る企業も増えています。そこまで行かなくても、人的資本だけで報告書を開示する企業も増えて来ているので、開示という観点では元年みたいな感じかもしれないですね。

岩本先生も人的資本経営の啓蒙や実現支援に向けて精力的に活動されています。
まずは、2022年11月に発行された「企業価値創造を実現する 人的資本経営」(日本経済新聞出版)では、金融資本主義(Financial Capitalism:財務諸表の数字に偏重した資本主義)から人的資本主義(Human Capitalism:人材に価値を置く資本主義)へのパラダイムシフトを強調されました。その流れの背景を改めてご説明いただけますでしょうか。

2008年6月にリーマン・ショックが起きました。そのとき、世界的に金融資本主義が批判されました。投資家からすると、今まで金融工学を駆使して財務情報を見ながら、投資をしてきたら、リーマン・ショックが起きて金融資本主義はダメだと叩かれたという話です。

21世紀に入ってからGAFAMを始め、ソフトウェアやデータを活用したビジネスが巨大化していきました。投資家サイドから見ると、そうしたソフトウェアビジネスは財務諸表だけを見ても投資判断がつきません。企業価値に占める無形資産の割合が高いため、非財務の情報をしっかりと開示されていないと正しい投資判断ができないからです。

非財務情報にも色々ありますが、最も重要なのは人材に関してです。それで、人材に関する開示をするための米国標準を作ろうという動きが2010年頃から起こったのです。その頃から「金融資本主義から人的資本主義へ」と言われるようになりました。なので、実はもう十数年前からのトレンドではあるのですが、日本では数年前からようやくその流れになったという感じです。

日本でも「金融資本主義から人的資本主義へ」と叫ばれるようになった背景には何があったのですか。

日本では、経済産業省が生産性を高める産業人材政策を2017年ぐらいから強化しました。その仕掛けが当たったという感じです。本当は、日本ももっと前から取り組むべきでした。ただ、企業もその重要性に気がついていませんし、役所も同様でした。「さすがに人材をやらないとまずい」みたいな話になって、経済産業省が政策を打ち出し、それがはまったということです。

02人的資本を含めて
ESGを開示する動きが進む

前述の書著「企業価値創造を実現する 人的資本経営」では、「人的資本重視と情報開示が世界の常識である」と指摘されました。人的資本報告の国際標準化も進んでいます。最新の動向をご説明いただけますか。

非財務の情報もサステナビリティレポート(持続可能な社会の実現に向けた企業の取り組みを開示する報告書)における開示が義務化される動きがあります。企業の環境(Environment)、社会(Social)、企業統治(Governance)など、要はESGを開示する義務が出て来ました。その中に人的資本も含まれています。

非財務情報開示を行う際の統一された国際基準を策定する機関となるISSB(International Sustainability Standards Board:国際サステナビリティ基準審議会)は、どの人的資本を開示するかはまだ決めていないのですが、サステナビリティの開示にあたり、最初のスタンダードとなるIFRS S1号「サステナビリティ関連財務情報の開示に関する全般的要求事項」及び IFRS S2号「気候関連開示」を2023年6月に公表しました。

それらをベースに上場企業は、2026年ぐらいにはサステナビリティレポートを全ての企業が開示しないといけなくなります。日本では、有価証券報告書にもサステナビリティ項目があるのですが、そこでの開示の項目を増やしていくというのが経済産業省と金融庁の考えです。その中に人的資本もあります。

一方、ISO(International Organization for Standardization:国際標準化機構)の方でもISO 30414(人的資本報告のガイドライン)があり、今バージョン2のワーキンググループが動いていて、ISOで人的資本の開示項目の国際規格をアップデート中です。ISSBとISOは連携しているので、グローバルで共通の開示項目を決めていこうというのが直近の動向です。この1、2年でガイドラインは出るのではないでしょうか。ただ、それを義務化するとなるまでには、まだ数年は掛かると見込んでいます。

日本では現状、サステナビリティを開示している企業はどのくらいあるのですか。

日本の上場企業では、統合報告書(財務情報と非財務情報を集約した資料)にまとめる企業が多いです。現状では、800社超が開示しています。上場企業が合計で4000社近くあるので、まだ2割超といったレベルです。基本的にはそのサステナビリティの中身を、国際規格に則ったものにするには若干の修正が必要となります。一方、統合報告書なりサステナビリティレポートなりを開示していない企業は、今後ゼロから作らないといけないという話になってきます。

03先進企業では
人的資本報告書を
公表する動きも

その辺りは、企業にとって負担と映るのか注目です。日本でも2023年3月決算から人的資本の情報開示が義務化されました。初年度の開示ぶりをどうご覧になられましたか。

大半の企業は、一応形式に則っただけという感じでした。今回義務化された項目は、元々、別の法律で上場企業に開示義務を課していたものなので、それをコピー&ペーストすれば済みます。例えば、女性従業員の比率や育児休暇の取得率などの数字はそうです。ただ、人材育成方針は、文章で書かなければいけないので注目していたのですが、進んでいる企業はかなり色々なことを書いていたものの、ほとんどの企業はわずかしか書いていませんでした。

ポジティブな面とすると、開示をしていくために企業の中にサステナビリティ推進室など、専門の部署を作っている企業が多くなったことです。せっかく、人を就けるのだから、しっかりと取り組もうという姿勢が先進企業では見られました。例えば、東京海上ホールディングスやエーザイなどは、人的資本報告書「Human Capital Report」を公表しています。

それを見て、「自社でも人的資本報告書を出したい」ということで、そのためのコンサルティングニーズがすごく高まっています。進んでいる企業は、本格的に人を活かして業績を高めるといった、経営としてのアクションを取り始めているので、まさに成功事例と言えます。要は、儲かる企業になっているということです。そういうものが成果として表れてくると、「真剣に取り組まないといけない」と考える企業が増えて来ると思っています。

サステナビリティ推進室を立ち上げた企業では、今後人的資本の情報開示に関しては、人事部とサステナビリティ推進室が連携して進めていく格好になるのでしょうか。

統合報告書を出している企業はIR部門にサステナビリティ推進室を置いたりしています。このケースは今かなり増えていますね。そこに人的資本のことも書かないといけないので、人事も巻き込んで進めていたりします。逆もあって、CHRO(Chief Human Resources Officer:最高人事責任者)が、リーダーシップを執って人的資本をとりまとめている会社もあります。どちらと言えば、「企業は人なり」を以前から熱心に行っていた会社は、CHROが中心で進めている印象です。

04じわりじわりと
裾野が広がりつつある
開示の流れ

上場企業では、人的資本経営の実現・人的資本の情報開示にまだ二の足を踏んでいる印象があります。どう感じておられますか。

二極化みたいな言い方をする人がいますが、私はむしろ砂が上から徐々に流れている感じに捉えています。先ほど、統合報告書でサステナビリティを開示している企業が800社超あるとお伝えしました。実は、この数字も毎年100社ほどのペースで増えています。なので、じわりじわりと裾野が広がっている印象です。二極化という感じではないですね。

気づき始めた企業から取り組みつつあるということです。

当然、まだやり始めていない企業は「消極的だ」という言い方になるのかもしれませんがね。どこを見るかです。上場企業約4000社と中小企業も入れると数百万社もあります。できてない企業を見る人は「消極的」と言うものの、できている企業からするとあまり意味のない議論と言えます。間違いなく、日本の企業は成功事例が出るとすぐ真似をするので、今後広がっていくはずです。

じわりじわり広がる。一気には行かない理由はどこにあるのでしょうか。

時間軸をどう取るかの問題です。数カ月の単位で見るとじわりじわりに見えるかもしれませんが、数年単位で見たときには一気に広がったという感じになりますよ。

その辺りは、少し中長期的なスパンで見ていった方が良さそうですね。ところで、岩本先生は、講演などで「開示義務への対応が本質ではない」と指摘されていますが、この意味合いを教えていただけますか。

人的資本報告は、内部への報告と外部への報告に分けられます。外部への報告が開示ということです。内部への報告としては、例えばISO 30414だと58の測定基準があります。このうちの一部を外部に開示すると国際規格では定めています。なので、重要なのは内部への報告なのです。それができていることが本質的なところです。外部に開示する項目だけをやっていても、実はそれは人的資本経営にならないのです。

開示の義務化という外圧を掛けた方が日本の企業が動くとというところもありますが、本来的には内部の人的資本報告が一番重要な話です。それができていれば、開示にあたってあたふたする必要はありません。内部でデータが揃っているわけですから。しかも、それを全部開示するということではなく、外部とコミュニケーションする目的に合わせて一部を戦略的に開示していけば良いのです。

まずは、内部への報告が重要であって、それができていれば開示義務にもスムーズに対応できるということですね。

データ活用が大事なのです。それができていれば何の問題もありません。外部にはその一部を開示するだけですから。ゼロからデータを集めるという大層な話ではないのです。

人的資本の情報開示は、まだスタートしたばかりです。今後、情報開示の精度を上げていくにはどうしたら良いとお考えですか。

精度というよりも、開示する項目の数を増やすことが大切です。今、開示が義務化されてる項目はものすごく少ないです。あまり意味がないと言っても良いかもしれません。重要なことは、人的資本経営について開示することです。外部の人は、「この企業が成長するかどうか」を見極めたいだけなのです。元々人を活かした経営をしていることが前提で、自社の人的資本経営について、外部が納得するようにデータも活用しながら開示をすることが本質です。

それこそ学生が見ても、「ここは良い企業だ」「成長しそうだ」とわかることが重要なのです。内閣官房がそうした観点で2022年8月に「人的資本可視化指針」を公表しました。ただ、これはガイドラインなので、従わなくても問題はありません。そのため、単なる参考になってしまっています。


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05従業員が活躍し
成長してこそ、
企業も成長できる

情報開示にあたってのアドバイスをいただけますか。

そもそも、日本の多くの経営者は「企業は人なり」と当たり前のように言っています。しかし、形骸化してしまっている企業がほとんどです。実はこの「企業は人なり」とはパソナニックの創業者である松下幸之助氏が言い出した言葉です。

同氏が執筆した「事業は人なり」(PHPビジネス新書)を読むと、「すべての人材には才能があって、その才能を引き出して活躍できるようにする」「活躍することによって人は成長し、企業も成長する」と言っています。これは、一見すると当たり前の話なのですが、「皆さんの企業で全ての従業員が活躍してますか。成長していますか」と聞くと、「いやそうでもないなあ」という話が結構あったりします。

「企業は人なり」と、どこの企業も言っているものの、雇用を守る意味で使っている企業が多い印象です。しかし、雇用を守ることは活躍することでも成長することでもありません。そういう意味では、皆さん原点に立ち返りませんかと言いたいです。

戦後の日本企業は、従業員を機械のように働かせ続けてきました。その結果、成長することができたと言っても過言ではないほどです。それこそ、多くの残業を強いていました。今は経済も大きくなったので、週休2日どころか企業によっては週休3日とか言っています。言い換えれば、生産性の高い仕事の仕方に急速にシフトしつつあるということです。若い人の価値観も大きく変わって来ています。色々な要素が絡み合って、取りあえず従業員一人ひとりが活躍、成長しないと、企業は成長しないという状況になってきました。しかし、これ自体は松下幸之助氏がもうずいぶん前から言っていた話なのです。

2023年5月に発行された「HR責任者のための人的資本経営完全ガイド」(PHP研究所)には、「本質的な人的資本経営の議論を」という岩本先生の講演内容も網羅されています。こちらは、どのような問題意識を伝えたかったのでしょうか。

私自身、色々な企業の役員会に呼ばれます。そこでいつも、「皆さんの企業の従業員は活躍していますか、成長していますか」と問いかけるようにしています。そうすると、どの役員も部下の顔が思い浮かぶわけです。「あいつ活躍してないなあ」とか「成長が止まっているなあ」など…。そういう観点で見ると、活躍・成長することが全然できていなかったりするわけです。

一方で企業理念とかを見ると、「企業は人なり」に類することが書いてあったりします。企業理念が本当に実行できているのかという話です。私の問いかけに対して多いのは、「8割ぐらいは活躍していない」という回答です。要は、企業が与えた仕事はしっかりとやる。でも、それは仕事をこなしているだけであって、一人ひとりが活躍しているわけではないといった感じの企業がとにかく多いです。当然ながら、個人が成長していないので、企業も成長していません。それを見直さないといけないという企業が結構多いですね。

だからこそ、統合報告書に人材のことが書かれていますが、活躍とか成長というキーワードがものすごく沢山出て来ます。

役員全員が「人材の活躍・成長」の重要性を再認識しないといけませんね。

役員同士で人材について議論すると30分ぐらいで答えが出てしまいます。「うちの課題はこれだ」と。そんなに簡単に答えが出るものを、どうして今まで全く議論してこなかったのか疑問でなりません。なぜ、人材の議論を役員会でしないのかというと、定性的な話ばかりなので、ディスカッションにならないからです。

ファイナンスの議論はデータがベースにあるので皆さん良くされます。しかし、人材に関するデータは持ち合わせていないので、次の後継者候補も割と秘密裡で決まってしまいがちです。何も議論されていないんだなと痛感します。


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岩本 隆

慶應義塾大学大学院政策・メディア

研究科特任教授

東京大学工学部金属工学科卒業、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院工学・応用科学研究科材料学・材料工学専攻Ph.D.。日本モトローラ(株)、日本ルーセント・テクノロジー(株)、ノキア・ジャパン(株)、(株)ドリームインキュベータを経て、2012年6月より2022年3月まで慶應義塾大学大学院経営管理研究科特任教授。2018年9月より山形大学学術研究院産学連携教授。2022年12月より慶應義塾大学大学院大学院政策・メディア研究科特任教授。著書に、「人的資本経営 まるわかり」「企業価値創造を実現する 人的資本経営」(共著)などあり。

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