2020年に経済産業省が「人材版伊藤レポート」を公表して以来、人的資本に関する議論がにわかに活発化している。さらに、拍車を掛けたのが2022年の「人材版伊藤レポート2.0」であり、2023年の「人的資本の情報開示義務化」だ。この期間、人的資本経営の実践に向けた取組が着実に広がって来ている。そして、今年2024年は「人的資本経営の成功事例が大きくクローズアップされる一年になる」と予測するのが、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任教授の岩本 隆氏だ。人的資本経営に造詣が深い同氏に、最新動向を聞いた。
 
インタビューの後半では、人的資本データの必要性やHRテクノロジーの活用、中小企業経営者への期待などについて語ってもらった。(前編はこちら another-window-icon

01人材のデータを
収集し、ファクトを
深掘ることが重要

人材に関する議論を進めるためにも、科学的な人事やタレントマネジメントの重要性を認識しなければいけないということですね。

そうです。データになっていないと、議論が発散してしまいます。主観で議論しても収束しません。まずは、データを見てその裏にあるファクトを深掘っていくことです。それをしないと共通の議論ができません。逆に、今データ活用をしている企業では、データ化したことで議論が深まっているとよく言われます。

といって、データを鵜呑みにするのも良くありません。その数字にはどんな意味があるのか。もっと言えば、数字の裏にある意味とかも探っていかないといけないのです。それもデータがあることによって初めて議論になります。

実際どういったデータを活用することが多いのですか。

人的資本経営における重要なKPI(Key Performance Indicator:重要業績評価指標)として何を設定するかというご質問ですね。ほぼ全ての企業で使われているのは、従業員エンゲージメントのスコアです。加えて、最近増えて来たのがやりがいや働きやすさを意味するCareer Well-being(キャリアウェルビーイング)です。キャリア充実度をサーベイして指数化したりしています。

あとは、ダイバーシティですね。しかも、ダイバーシティの中でも認知に関する多様性を指すコグニティブダイバーシティが多いです。例えば、思考特性やスキル、経験などに多様性が見られるかということです。これに関しては、ダイバーシティの活動から出て来たアウトプットをKPIにしていたりします。要は、イノベーションがどれだけ生まれているかということです。具体的には、チャレンジ指数やイノベーション指数、アイデアの数など各社によって違っています。そこはまだ各社とも工夫しながらやっている状況です。

従業員エンゲージメント調査は大手企業では盛んです。中小企業の経営者の中には、結果を見るのが怖いという方も少なくなかったりします。

昨今は、中小企業向けに従業員エンゲージメントの活用を促すセミナーも良く開催されています。私も2023年9月、中小企業大学で「人的資本経営の実践~社員エンゲージメントの高め方~」と題する講演を行いました。

確かに、「調査をしてみたらスコアがものすごく低くてショックを受けた」という経営者は少なくないようです。結局、従業員の本音が吸い上がっていないということです。10人、20人の企業であれば全員の顔がわかるでしょうが、数百人レベルになると従業員が何を考えているか全く把握していない企業が多いですからね。それだけに、サーベイを行ってファクトを知ることが重要になってきます。

やはり、経営者であるならば調査結果を見る怖さは乗り越えなければいけませんが、問題はそれだけに留まりません。経営幹部も従業員エンゲージメントの重要性を理解しないと、また詰まってしまいます。なので、社長が「やるぞ」と腹を決めたとしても、経営幹部の意識改革をやって、次に部長や課長クラスの意識改革もやらないといけません。結局、成果があがって定着するまでに5年、6年掛かることも珍しくなかったりします。

02横並びではなく、
個人にフィットした育成に
シフトすべき

「企業は人なり」といわれるものの、日本企業は人材育成で世界に後れを取っています。実際、人材育成への投資額はかなり低いです。この課題に今後、どう取り組んでいけば良いのでしょうか。

まず、「人材育成投資が少ない」というのは、ミスリードされています。日本企業の人材育成投資と言ったときに、内部のコストと外部へのコストがあります。外部に払っているお金は、研修会社への費用なのでわかりやすいです。しかし、内部のコストは日本では全く計算されていなかったりします。

これは、採用も育成などのコストも同様です。自社の従業員を使っている時点でコストが掛かってくるのですが、計算にはそれが入っていません。日本は特にOJTとかでかなりトレーニングをするので、そういったコストも加味して計算すれば、それほど低い数字ではなかったりします。一般的に世の中で出ているデータは、内部コストが加味されていません。それをそのまま鵜呑みにしないようにとまずは言いたいです。

その上で、人材育成投資の話ですが、今経済産業省ではデジタルスキル標準を作っていて、それを身に付けるためのトレーニングプログラムを各社が推進しています。なので、投資額はそれほど低くないと思います。どちらかといえば、問題なのは内容です。従業員一人ひとりが活躍して成長するための人材育成をしていかないといけないのにそうなっていません。依然として旧来からの年功序列で毎年年次によって同じ研修を受けていたりします。

テクノロジーなどを用いた育成プログラムにシフトしていくべきです。最近そうしたソリューションを提供する企業が増えて来ています。例えば、AIでレコメンドして各自が自律的にキャリアを形成できるようサポートしてくれる企業もあったりします。それらを上手く活用していったら良いと思います。

03スキル関連の
クラウドアプリを
活用するのも有益

具体的には、どのようなソリューションがあるのですか。

ソニーグローバルソリューションズの『TalentNetwork』は、その一例です。実は、同社は私が審査委員長を務めている「HRテクノロジー大賞」(主催:「HRテクノロジー大賞」実行委員会)で第7回の大賞に選出されました。これは、従業員が現在担当する業務や保有するスキル、目指すキャリアなどのデータを入力すると、今後どういうスキルを身に付けていけば良いかをAIが答えてくれる上に、裏にあるラーニングシステムと連動しているのでAIがお勧めのコンテンツをレコメンドしてくれるアプリです。今は、こうしたスキル関連のクラウドアプリがとても伸びていますよね。

他にも、最近だと生成AIを活用した取り組みも出て来ています。例えば、デンソーグループでは自社でのキャリアのデータを入れておくことで、「自分はこんなキャリアを歩んでいきたい」と投げかけると、「そのためにはどういう仕事に就いたら良いのか」「何を学んでいくべきか」を生成AIがレコメンドしてもらえます。テクノロジー的には難しい話ではないので、類するサービスがにわかに増えて来ています。

レコメンドの的確度はどうなのですか。

これは、データが溜まれば溜まるほど精度が上がってきます。他のAIの世界と同じです。なので、従業員一人ひとりにデータを入れてもらう必要があります。それを企業がやるのは大変です。だから、従業員一人ひとりが使って楽しいと思えるシステムにすることが重要になってきます。

従業員にとって楽しいシステムであれば使ってくれる、そしてまたデータが溜まる。その結果、レコメンドの精度も上がる。そのサイクルなのですね。わかりました。ところで、岩本先生の著書がまた発売となりました。どんな内容なのですか。

ありがとうございます。「人的資本経営 まるわかり」(PHPビジネス新書)というタイトルの本です。これは帯に「非上場企業こそおさえるべき最重要テーマ」と書かれている通り、人的資本の開示が進んでいる大手800社のためではなく、中小企業を含めた非上場企業の方々に人的資本経営を「なぜ、やるのか」「何からやるのか」などのエッセンスをわかりやすくまとめています。要は、誰であっても人的資本経営の全体像をシンプルに理解できる一冊になっています。人的資本経営を多くの方々に理解していただき、その裾野を広げたいと言う想いで書かせてもらいました。

04人的資本経営に
本気で取り組む経営者が
増えると見込む

2024年に向けた人的資本経営の潮流、展望をお聞かせください。

人的資本経営に関して、先行企業はかなり取り組みを進めています。成果が出始めていると言って良いでしょう。成果とは何かと言えば、企業が儲かることです。もともと、人的資本経営は人材の価値を最大限に引き出し、中長期的な企業価値の創造・向上につなげる経営手法ですからね。

私も株価を良く見ているのですが、近年業績が伸び続けている会社は10年、20年前から、「企業は人なり」と言って真面目にやってきた企業であったりします。そういう成功例が出て来ただけでなく、実際に「我が社はこれをやったことでこんなにも業績が上がりました」と開示する企業も増えて来ています。その内容を見て、「企業が儲かるのであればうちでもやろう」という話になって来ると思います。

2024年は、そうした成功事例がどんどん出て来ることでしょう。「人的資本経営を実践すれば企業が儲かる」。それがお題目ではなく、説得力がドーンと高まる一年になると思います。人的資本経営は経営なので、「ここは自分がしっかりと取り組まなければいけない」と思ってくれる経営者も増えていくのではないかと思っています。

今まで、人的資本経営を行う意義に疑問符を持っていた経営者の意識も変わってきそうです。

そうですね。実際のところは、「成長だ、活躍だ」という前に「従業員は企業が与えた仕事を愚直にやってくれれば良い」「上司のイエスマンとして働いてくれれば何も問題ない」と思っている経営者もまだまだいたりします。本当にそれで企業が成長するのかということです。今こそ、経営者の意識を変えるチャンスだと思っています。

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05中小・中堅企業こそ
人的資本経営に
取り組む価値がある

中小・中堅企業の魅力を活かした人的資本経営を進めるために、経営者や人事責任者にメッセージをお願いします。

私からは、三点をお伝えしたいです。一つ目は、ビジネスモデルの観点です。中小企業は社員数が少ないので、一人でも欠けると大変なことになってしまいます。それぐらい一人ひとりの重みがあるということです。また、下請けの仕事が減って来ているので、中小企業も自らプロダクトを作って売っていかないといけなくなりました。それだけに、ビジネスのトランスフォーメーション(変革)をしないといけない企業が多いのです。

そうしたときに、トップダウンだけの経営ではなかなか辛くなってきます。これからはボトムアップで皆がアイデアを出していく、従業員一人ひとりの個性や能力を活かしていくようにしないと、ビジネスに耐えられなくなっています。それが、まさに人的資本経営なのです。

二点目は採用の観点です。人手不足ですごく困っている企業が多い中、「うちの企業に来たらこんなにイキイキと働ける。こんなに成長できる」と示すことは、採用においてとても重要になってきます。

そして、三点目はファイナンスの観点です。現状では、中小企業には人的資本情報の開示義務はありません。ただ、それだからこそ逆に人的資本情報の開示にしっかりと取り組んでいると評価されやすくなります。事実、金融機関が人的資本経営の状況を見て融資をし始めています。人的資本に関するデータを収集・整理しておかないと融資が受けにくくなって来ているといっても良いほどです。

なので、ISO 30414の認証取得も実は中小企業の方が熱心だったりします。何が良いかと言うと、国際基準で計算方法はすべて決められているので、自分たちで考える必要がありません。それに則りデータ化していけば良いのです。それに、中小企業はすぐにでもデータを集めることができます。大企業は大変ですからね。人的資本報告書も中小企業の方が作成する社数が増えていると言えます。

中小企業こそ人的資本経営にスムーズに取り組んでいけそうな気がしてきました。

中小企業の方が入口のハードルが低いことは確かです。それに、色々なニーズもあったりします。

ファイナンス面でも人的資本経営に取り組む意味があるというのは驚きでした。

三井住友銀行が「人的資本経営評価融資」として2022年12月より取扱を開始し、2023年4月に商品名称の改定を実施しました。これは、人的資本投資に積極的に取り組んでいる法人企業が対象となる融資商品です。また、みずほ銀行でも「Mizuho人的資本経営インパクトファイナンス」の取扱を2023年5月にスタートさせています。いずれも、同じグループ内にあるシンクタンクと組んで人的資本経営の取組や情報開示の状況について分析・評価し、融資を判断しているのが特徴です。恐らく、今後は地方の銀行も似たような商品を作ってくると思います。

自治体も地元企業の人的経営導入支援活動をスタートさせています。そのトップバッターとなっているのが、広島県です。県内の企業等の経営者・人事責任者に向けて、人的資本経営導入支援サイト「HiRoshima HR LABO」を立ち上げています。他の自治体でも取り組むところが出て来ると思います。

支援活動も広がって来ているということですね。岩本先生、貴重なお話をいただきありがとうございました。

 

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岩本 隆

慶應義塾大学大学院政策・メディア
研究科特任教授

東京大学工学部金属工学科卒業、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院工学・応用科学研究科材料学・材料工学専攻Ph.D.。日本モトローラ(株)、日本ルーセント・テクノロジー(株)、ノキア・ジャパン(株)、(株)ドリームインキュベータを経て、2012年6月より2022年3月まで慶應義塾大学大学院経営管理研究科特任教授。2018年9月より山形大学学術研究院産学連携教授。2022年12月より慶應義塾大学大学院大学院政策・メディア研究科特任教授。著書に、「人的資本経営 まるわかり」「企業価値創造を実現する 人的資本経営」(共著)などあり。

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