日本では近年、非財務情報が着目される中、「人的資本」という概念がかなりクローズアップされている。国も重視しており、2023年3月期からは上場企業などを中心に「人的資本の情報開示」が義務付けられている。今や、経営者や人事パーソンにとってもすっかり馴染みとなった「人的資本」であるが、実は経済学においては以前から重要な理論として位置づけられていた。ただ、それを理解している経営者は意外と少なかったりするのではないだろうか。

そこで、今回は改めて経済学の視点から「人的資本」や「人的資本投資」にアプローチするとともに、それが労働生産性にどのような関わりがあるのかを、学習院大学経済学部教授の滝澤 美帆氏に解き明かしていただく。後編では、日本の労働生産性の現状や見通しなどを聞いた。(前編はこちら another-window-icon

01日本の労働生産性には
まだまだ伸び代がある

日本の労働生産性に関する現状をどう捉えておられますか。

日本企業と言っても本当に色々な企業があります。私どもの専門用語で言いますと「異質性」が高いという言葉を使います。英語では「Heterogeneity」という単語になります。

「異質性」が高いというのは、直感的には本当に生産性が高いところもあれば低いところもあるといったイメージです。それというのは、同じ産業・企業規模・従業員規模であっても、生産性が高いところがあれば低いところもあるということです。

なので、日本と米国を単純に平均で比較すると、米国の方が労働生産性が高いです。ただ、企業一社一社を細かく見て行くと非常に生産性が高いところもあるし、低いところもあるというのが現状です。

ですから、米国の良い企業と同じレベルで生産性が高い企業が日本にも存在しているということです。なので、平均値で見ると負けているけれど、良い企業もあるし、逆に言うと悪い企業もあるということです。

特に産業レベルの生産性をしばしば比較したりするのですが、米国とあまり差がない産業もあります。一方で、差がある産業もあったりします。実際、差がある産業がどこかというとサービス産業です。米国を100とした時に日本のサービス産業の労働生産性は、平均値で50ぐらいです。半分しかないということです。


日米の産業別生産性(1時間あたり付加価値)と付加価値シェア(2017年)
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出典)滝澤美帆(2020)「産業別労働生産性水準の国際比較 ~米国及び欧州各国との比較~」生産性レポートVol.13

これは、1時間当たりで生み出される付加価値を単純に米国と比較すると半分しかないということです。かなり差がありますよね。「こんなにも差があるのか」と悲観的に見ることもできます。でも、私は逆です。「まだまだ伸び代がある」と希望を持って捉えることができると思っています。

ですから、「余力は十分にある」というのが私の考えです。格差がある中でまだ伸び代がある。そういうふうに日本企業の労働生産性について、特にサービス業については捉えています。

生産性が上がれば一人当たりが生み出す付加価値も上がります。人口が増えなくてもGDPも計算上増えます。なので、そこをどうにかできるのではないかと思っています。

企業だけでなく、政府としても労働生産性を上げたいという想いが強いのではないでしょうか。

そうですね。私は、経済財政諮問会議や各省庁の審議会等にお声掛けいただきお話をする機会があります。特に最近は政府としても生産性に関してかなり注目しています。それに関連して「意見をお聞かせいただけますか」ということがあったりします。

骨太の方針等の中で人への投資が重要だと書かれていましたが、私もその考えに賛成で「継続して支援していく必要がある」と良く申し上げています。生産性をターゲットにしたり、KPIKey Performance Indicator:重要業績評価指標)にするということを経済産業省の審議会等でも議論していますが、私も賛同しています。また、特に大企業と格差の大きい中小企業の生産性を上げていくことが重要であることなどもお伝えしています。

02柔軟な働き方が労働生産性にプラスの影響をもたらす

近年の働き方改革やコロナ禍は、企業の労働生産性と利益率にどのような影響をもたらしたとお考えですか。

確かに、コロナによってドラスティックに働き方が変わりました。私自身が関わっている、主に大企業に関する調査に日経スマートワーク経営調査があります。ここでは、コロナ前から継続的に調査を行っているのですが、そのデータを見ますと、テレワークが制度としては一定程度の企業で導入されていました。

それがコロナとなって、皆さん自宅に待機しなければいけない状況になりました。それで、劇的にテレワークを利用するようになり、働き方も非常に変わったと思います。そうなってくると、経済学者としては働き方が変わったことで労働生産性にどのような影響があったのかを見てみたいという衝動に駆られました。実際に見てみると労働生産性は在宅勤務になってからも下がっていないのです。

当初は、「労働生産性に何か悪い影響があるのではないか」という見方がありました。でも、数値は下がっていません。むしろ、テレワークとか在宅勤務を活用できたことによって、労働生産性に良い影響がありました。さらには、利益率やROE(Return On Equity:自己資本利益率)などにも良い影響があったのです。そうした分析結果が得られています。

これは、上場企業に限った分析結果なので中小・中堅企業を入れるとどうであったかはわかりません。ただ、そういう多様で柔軟な働き方というのが労働生産性や利益率にプラスの影響をもたらすことが、私たちの持っているデータの分析結果で得られたのは事実です。

多様で柔軟な働き方は、労働生産性にプラスの影響をもたらすというわけですね。

コロナ禍で無理やりに働き方を変えられてしまい、労働生産性が悪くなるのではと懸念したいたものの、蓋を開けてみるとそんなことはありませんでした。

ただ最近、米国の大手IT企業は出社を推奨する傾向が顕著です。どこの企業も画一的な対応をしており「残念だな」と個人的には思っています。労働者の方々のエンゲージメントや働く際の気持ちは生産性にすごく影響します。裁量が与えられると気持ちも安定しますし、「この会社が魅力的だからもっと頑張ろう」とか「今働いている場所が良いからこのまま仕事を続けていこう」などと思うはすでず。それが、画一的に何かよくわからない印象論で「全員出社」となってきてしまっているのは残念な気がします。

日本の企業も最近はまた社員がオフィスに戻って来ています。

そうですよね。働いている方の声を聞いてみると、基本は出社になって来ているようです。「在宅勤務と職場で働くのはどうですか」といったことも聞いたりしています。「face to faceでやった方が早い時もあるけれど、少し集中しなければいけないとか、何かイノベ―ティブな仕事をするなら、落ち着ける場所の方が生産性が高いんですけれどね」という話を良く聞きます。

03有形・無形をバランス良く投資する姿勢が重要

労働生産性に関する今後の見通しをお聞かせください。

コロナで一番悪かった時と比べると人の行動が自由になっていますし、インバウンドも戻って来ました。そういう意味ではサービス業、特に小売業や飲食業、宿泊業などといったところの生産性、需要が戻ってきた感があります。悪かった時と比べると労働生産性は上がっていくのではと明るい見通しを持っています。

ただ、その時にやはりネックになるのが人手不足です。需要があるのに人がいないので適切なサービスを提供できないといった問題があります。なので、人手不足の問題を解決しないと労働生産性の向上に結びつかないと思います。

あともう一点としては、過去の30年を振り返ってみると日本企業は投資を積極的にして来ませんでした。人への投資ももちろんですけれども、有形の投資もです。例えば、建物や機械、工場です。機械であっても新しい技術が含まれている機械もあるわけです。ただ、日本企業はそういうものになかなか投資をしてこなかったと言われています。

労働生産性を上げるためには人をトレーニングすることが大事なのですが、最新の機械にも投資をしていくことも実は大切になってきます。そこが繋がるかで、労働生産性が上がるかどうかが決まってくると思っています。

滝澤先生は、生成AIが労働生産性にどんな影響をもたらすとお考えですか。

これは良く言われていることで脅威にもなりますし、すごく力にもなると思っています。両方あるということです。それは、別に生成AIに限った話ではありません。過去の長い歴史を紐解いてみても、職場に何か革新的な機械が導入されることによって人がいらなくなったりしてきました。そうしたことは、過去に何度も起きてきたわけです。

なので、生成AIの導入によって今いる人数は要らなくなる職場もあるでしょう。ただ、基本的にはどの会社も人手不足ですから、要らなくなった人を上手く再配置できれば全体としてはハッピーになると思っています。私は生成AIを特に脅威だとは捉えていません。むしろ、それを利用して生産性を上げていくべきだと思っています。

04継続的な投資が労働生産性の向上につながる

人的資本投資と労働生産性はどのような関係にあるのでしょうか。

会計上では人への投資、例えば教育訓練費や研修費は売上から引かれる費用として捉えられています。なので、利益を低めるもののようなイメージを持たれていると思います。ただ、我々経済学者は人的資本投資を費用ではなく投資と勘案します。そう捉えると幾らお金を掛けたかではなく、幾ら投資をしたかとカウントします。投資をしていくことで、資産が積み上がっていくと考えるのです。

実際に人的資本投資と労働生産性の関係を見てみると、全然マイナスに影響しなかったりします。むしろプラスの関係があると分析結果からわかっています。

どうしてそうなるのかと言うと、一つは人的資本投資により人の気持ちが変化するからです。エンゲージメントであったり、あるいはそもそもリテラシーや知識が上がり、生産性が上がったりとか、教育を受けさせてくれる企業であれば「一生懸命働こう、熱意を持って働こう」という気持ちになります。その結果として、主観的な生産性が上がったりといったインダイレクト(間接的)な効果もあると分析されています。

新しい機械を入れるのとは違い、生産性に寄与するまでには時間は掛かるかもしれませんが、可能性は十分にあります。ぐっと我慢して人への投資をし続けることが、実は労働生産性に繋がります。なので、継続して投資をしてほしいと思います。

最後に、中小・中堅の企業経営者や人事責任者にメッセージをいただけますか。

中小・中堅企業は長期の経済の低迷が続く中で、なかなか投資ができてこなかったと思います。裏を返せば、ICTDXの投資もまだまだできる余地があるということです。政府の補助金と言いますか、支援も中小・中堅企業向けには沢山あります。そうした支援も活用しながらDX化やICT化を進めていくとともに、それを十分に使いこなせる人材も育てていかないといけません。

それだけに、人への投資も同時に行う必要があります。人への投資は1回行ったら終わりではなく、毎年毎年投資を継続してやっていかないといけません。設備への投資同様に減耗していくからです。また、何か一つをやれば良いということもありません。ICTDXに投資したからといって、それだけで生産性が上がるわけではないのです。人への投資を同時に行う、組織もそれに合せて変えていく。あの手この手で生産性を上げる工夫に取り組んで頂ければと思います。

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滝澤 美帆

学習院大学 経済学部 教授

2008年一橋大学博士(経済学)。日本学術振興会特別研究員(PD)、東洋大学、ハーバード大学国際問題研究所日米関係プログラム研究員などを経て、2019年より学習院大学准教授。2020年より現職。現在は、中央省庁における複数の委員や東京大学エコノミックコンサルティングのアドバイザーを務めている。

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