日本では近年、非財務情報が着目される中、「人的資本」という概念がかなりクローズアップされている。国も重視しており、2023年3月期からは上場企業などを中心に「人的資本の情報開示」が義務付けられている。今や、経営者や人事パーソンにとってもすっかり馴染みとなった「人的資本」であるが、実は経済学においては以前から重要な理論として位置づけられていた。ただ、それを理解している経営者は意外と少なかったりするのではないだろうか。

そこで、今回は改めて経済学の視点から「人的資本」や「人的資本投資」にアプローチするとともに、それが労働生産性にどのような関わりがあるのかを、学習院大学経済学部教授の滝澤 美帆氏に解き明かしていただく。前編では、経済学における「人的資本」の捉え方や日本の「人的資本投資」の現状を聞いた。

01ミクロデータを分析して
企業の生産性を研究する

滝澤先生のご専門はマクロ経済学です。特に、労働市場や労働生産性をご専門にされておられます。研究の概要を教えていただけますか。

私はマクロ経済学者ではあるものの、実際に行っているのはミクロデータを使った実証分析です。ミクロデータといっても色々あります。私の場合には、企業1社1社のデータを用いて今流行のビッグデータを活用した分析をしています。その中でも、特に企業の生産性に関する研究をしています。

どうしたら企業の生産性が上がるか、それがマクロ経済にどのような影響があるかとか…。マクロ経済へのインプリケーション(含意)を導き出したいと思っています。

具体的には、労働生産性に関連する研究を色々手掛けています。例えば、日本と米国を比較したり、日本とその他の先進国の労働生産性を比べてみてどれだけ差があるか、こうした分野で差があるのか、どうしてそれだけの差が生まれてくるのか…。そういった研究をしています。

最近では、資源配分に関する研究も取り組んでいます。簡単に言えば、非効率な資源配分が行われていないか、行われているとするとどの程度なのかを分析しています。世の中には生産性の低い企業があります。その一方では生産性の高い企業もあります。理想的には、生産性の低い企業から高い企業に人が移動することで経済全体が良くなります。そうしたメカニズムが日本でも働いているかといった研究をさせていただいています。

確かに、生産性の高い企業に人が移った方が日本全体としては良いわけですよね。

理論的に考えるとそうなります。幸い日本は失業率が相対的に低いですし、さらには人手不足もあって、今は人が移動しやすい環境になっています。だから、スムーズに人を再配分してあげる、専門用語としては「リアロケーション(Reallocation)」と言うのですが、再配分してあげることでマクロ経済に良い影響があると考えています。

ただ私自身、最近の研究内容は割とミクロ経済学とも近いですし、あるいは経営系の先生とも接点が増えています。経営系の先生はケースを良く取り扱われていますが、私も企業のアドバイザーをさせていただくことが多く、企業の細かなデータを見させてもらい、「もっとこうしたら生産性が上がるのではないですか」というご提案をする機会があります。

02人的資本は決して
新しい概念ではない

経済学においては、人的資本はどう捉えられているのですか。

人的資本という言葉は、経済学の世界ではものすごく昔から存在していました。1960年代には、人的資本の研究によりノーベル経済学賞を取った学者もいたほどです。なので、このところ人的資本経営が新聞などでかなり取り上げられているものの、経済学者としては今更感があるような気持ちも少しします。

人的資本は、英語では「Human Capital」という言葉を使います。Capitalという単語は、日本語では資本を意味します。資本とは、元々何かを生産するために投入されるものです。例えば、機械や建物、工場などは物的資本と言います。見える資本ですよね。

それと同様に、人的資本である人が持っている知識やスキルもそうした生産活動に貢献するものです。なので、資本の一種として扱いましょうという考えから、「Human Capital」(人的資本)という言葉が使われていると思います。だから、決して新しい概念ではないと言うことです。

それから、人的資本は生産活動にとって非常に重要なものであると経済学では捉えていますが、日本が先進国の仲間入りをする前、発展途上にあった段階で言うと、恐らく就業前の教育に注目が集まっていたと思います。もちろん、それは今でも非常に重要な人的資本だと思いますが、今はどちらかと言うと就業後、働いた後に蓄積される人的資本が注目されていると捉えています。

なので、人的資本と一言で言っても色々です。学校教育の期間中に蓄積される人的資本もありますし、働いてから蓄積されるものもあります。経済学ではその両方が大事だと思われているとは言え、やはり先進国、言い換えればある程度教育のシステムが整備されている国では、働いた後にトレーニングや研修を受けたりして蓄積される人的資本により注目が集まっていると思います。

人的資本経営や人的資本の情報開示への流れが加速しています。現状をどうご覧になられていますか。

良いことではないかと思っています。今の日本経済にとって非常に大事なものであるのは間違いありません。

「人的資本経営とは何か」。それについては色々な定義があります。なので、皆さんどう伝えたら良いかと悩まれている段階だと捉えています。上場企業では、開示をしないといけません。そういう流れの中で、「人的資本経営は果たして我が社にとって何なんだろうか」ということを色々試行錯誤しながら取り組まれている段階なのではないでしょうか。

ただ、先ほども申し上げましたが概念自体は非常に大事です。「何故、大事なのか」と改めて考えると、やはり日本は今どこでも人手不足が顕著になっていて、少子高齢化という視点で考えると、外国人労働者を活用するアイデアもありますけれども、人口をどんどん増やして豊かさや付加価値を生み出すのは難しい状況だと思います。

日本はそもそも資源が少ないですし、人口も増えなくてエネルギーも乏しい国です。なので、やはり経済を維持・拡大させていくためには一人ひとりがスキルを向上させたり、知識を身に付けて生産力を高めていかなければいけません。

「そのためには、どうしたら良いですか」と言えば、人に投資する、一人ひとりのスキルを向上させていく必要があります。それだけに、人的資本を大事にする経営が注目されていると思います。

ですから、この流れ自体は決して悪いものではありません。それぞれの企業に合ったやり方で人的資本経営を進める契機になると良いのではないかと言う気がしています。

人的資本経営が注目されている理由に関して補足がございますか。

日本が生き残る道として、少子化を食い止めるなど色々なやり方があります。ただ、やはり根本的には一人当たりのパワー、生産性を上げていくしかないと思います。

生産性を上げるためには、人に投資をしてトレーニングを積んでスキルを上げていく、新しいテクノロジーに対応していく。そういうやり方が必要です。だから、人的資本経営が注目されているのだと思います。

03日本は人への投資が
極端に少ない

人的資本を中心とした無形資産への投資は、日本と欧米を比較するとどうなのでしょうか。

各無形資産投資のGDPに対する比率

gdp-data

データの出所:JIP2021データベース、 EUKLEMS & INTANProd - Release 2021

これは、GDPに占める無形資産投資額の国際比較をする際に、私が良く使う表です。無形資産と言っても色々あります。例えば、ソフトウェアやデータベースなどのICT系投資、それから、R&D(研究開発)投資、今注目されている人的資本投資など…。それらを統計で見たものがこの表になります。

無形資産全体で言うと、日本は他の国と比べて極端に低いというわけではありません。GDPに対する無形資産投資全体の比率を見ても、ドイツやイタリアあたりと同じくらいというレベルです。

ただ、問題は内訳です。ソフトウェアと研究開発、人的資本それぞれを見た時に端的に申し上げると、人への投資だけ極端に少なくなっているというのが日本の特徴です。ソフトウェアや研究開発には他の国よりも多く投資しているものの、人への投資が思うように進んでいません。簡単に言ってしまうと、ICTを導入している割には、それを使いこなせていなかったり、研究開発に積極的であるもののその成果が出ていないということです。

何故だろうかと考えると、やはり人に上手く投資できていなかったからだと言えます。イタリアの半分以下ですからね。さらに言うと、近年にかけて人的資本投資の占める割合が減少している国は日本だけでした。人への投資が上手くいっていないというのも、日本が他の国と比べて元気がない理由の一つだと考えています。

他にも理由がありますか。

色々な理由があると思います。一つは、この期間において日本で非正規化が進んだということです。非正規の方の割合が今や40%に迫ろうとしています。「非正規で自由な働き方をしたい」という方もいるでしょうし、あるいは本当は正規になりたかったものの、ポストが非正規しかないという方もいると思います。

実際のところ、企業からすると非正規の方は雇用量を調整しやすいです。契約期間が完了したら辞めてもらいやすいですから。その意味でも、企業にとっては負担の少ない雇用形態であると考えられます。ですので、企業に元気がなかった中で何とか経営を維持していかなければならず、非正規の比率を増やしていったと考えられます。

非正規の方は正規の方と比べると教育訓練の機会がどうしても少なくなります。だから、人への投資が全体的に少なくなってきてしまっているというのが、一つの大きな理由として挙げられると思っています。

04画一的な教育トレーニングに終止符を

日本企業における人的資本投資への課題はどこにあるとお考えですか。

私は研究の一環で非正規の方と正規の方両方にアンケートを取ったことがあります。非正規の方のほうが、訓練の機会を受ける時間が短かったり、そもそもそうした機会がなかったという回答を得ています。

ですから、正規・非正規でもし同じ仕事をするのであれば、同じトレーニングを受けられる機会を平等にすることが必要です。不当な差別や区別をしないということが重要になってくると思います。

あとは、そもそも日本の企業では新入社員の研修を入社時の4月から5月あたりに2カ月間ほど行っているという印象です。しかも、内容はどの企業も結構均一と言うか、あまりカスタマイズされていなかったりするのではないでしょうか。

人材マネジメント論の第一人者と称される、学習院大学の守島 基博教授の著者や講演をお伺いした中に米国の西海岸で行ったインタビューのお話がありました。その結果によると、米国と比べて日本の企業は優秀な人材を獲得する貪欲さがないというのです。

「うちの会社に来たらこんなに素晴らしい教育トレーニングを受けられる」とアピールするわけでもなく、ただ単に何か画一的なトレーニングばかりをしている印象と聞きました。

課題のもう一つとして挙げられるとすれば、ここではないでしょうか。色々な人が働いているはずです。それだけに、「この人にはこういう教育を受けさせてあげたほうが良い」とか、もう少し色々なオプションがあっても良い気がします。教育訓練といっても、新入社員研修だけではなくて、多様なカリキュラムを企業が従業員に対して与えられるようにすることが大事になってくると思います。


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※記事の中でご紹介があった学習院大学の守島 基博教授については、以前別の記事でインタビューを伺っております。こちらも、併せてご覧ください。
「人的資本経営」を実現するJOB Scope
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滝澤 美帆

学習院大学 経済学部 教授

2008年一橋大学博士(経済学)。日本学術振興会特別研究員(PD)、東洋大学、ハーバード大学国際問題研究所日米関係プログラム研究員などを経て、2019年より学習院大学准教授。2020年より現職。現在は、中央省庁における複数の委員や東京大学エコノミックコンサルティングのアドバイザーを務めている。

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