2023年3月決算から、金融商品取引法第24条で有価証券報告書を発行している大手企業4,000社で人的資本の情報開示が義務化された。これにより、人的資本経営は開示のフェーズへと移行した感がある。だが、1年や2年で定着するものではない。まだまだ多くの企業で試行錯誤が続いている。それでも、「日本企業の情報開示が着実に進んで来ている」と指摘するのが、企業情報と資本市場の関係に詳しい慶應義塾大学 商学部の浅野 敬志教授だ。インタビューの前編では、開示情報が担う役割や人的資本情報開示の現状などを語ってもらった。

01サステナビリティ情報が企業価値に及ぼす影響に着目

浅野先生のテーマは「企業情報と資本市場」です。現在はどのような論点に注目されておられますか。

私の専門は、財務会計と経営分析です。財務会計は、ステークホルダー、特に投資家に対して、財務情報を提供する仕組みです。その目的は、彼らが適切な意思決定を行えるように、必要な情報を提供することにあります。この情報提供は会計の主要な機能であり、私はこの機能に焦点を当てて研究を進めてきました。

これまでは主に財務情報に注目してきましたが、近年はサステナビリティ情報にも関心を広げています。この情報は、企業が環境問題や社会問題にどう対応し、それに伴うリスクや機会をどのように管理しているかを示すものです。具体的には、環境保全への取り組みを示す環境情報、労働環境や地域社会への貢献を反映する社会情報、そしてそれらを支える経営体制や内部統制に関するガバナンス情報が含まれます。

私の研究の核心は、サステナビリティ情報が企業価値に与える影響を解明することです。特に、中長期的な業績やリスクへの影響に注目しています。例えば、環境問題や社会問題に積極的に取り組み、その情報を開示する企業は、ステークホルダーからの信頼を獲得し、中長期的な業績向上やリスク低減を通じて、企業価値を高める可能性があります。

ただし、サステナビリティ情報と企業価値との関係については、まだ一貫した結論が出ていないのが現状です。ある研究では企業価値を高めるという結果が出ている一方で、別の研究ではその効果が限定的とされています。こうした相反する結果を踏まえ、引き続きエビデンスベースの研究を進め、企業価値との関連を多角的に探求しています。

02人的資本情報は、企業の将来的な成長力を測る指標

企業の開示情報は投資家やアナリスト、格付機関にどう活用されているのでしょうか。

投資家は企業価値の評価や企業との対話において、企業情報を活用しています。企業価値を評価する際には、キャッシュフロー割引モデル(DCF法)などの評価モデルが使われます。このモデルでは、企業が将来どれだけのキャッシュフローを生み出すかを予測し、その将来キャッシュフローを現在価値に割り引いて企業価値を算出します。その際に重要なのは、将来業績と割引率をどのように推定するかです。豊富で信頼性が高い企業情報は、正確な業績予測や割引率の推定に欠かせません。

アナリストも、企業情報をもとに市場分析や業績見通しを立て、投資家向けにレポートを作成します。情報開示の質や量が充実していると、より正確な分析が可能になり、投資家への推奨や市場予測がより信頼性の高いものとなります。アナリストにとっても、企業情報が豊富で信頼性が高いほど、より良い分析情報を提供できるというわけです。

また、格付機関は、企業情報をもとに信用リスクやESG評価を行います。サステナビリティ情報は、信頼性や比較可能性の面で課題があります。また、各指標が独立していて、利益のような数値に集約されないので、評価が難しいとされています。格付機関は、膨大で複雑な情報を集約・整理し、シンプルな格付やESGスコアといったものに変換して提供しています。

ここで、人的資本情報の活用についてアセットマネジメント業界の代表的な企業にインタビューした内容を紹介します。

ある企業の離職率が業界平均よりも極端に低かった場合、その背景について分析されているそうです。もし離職率が低い理由が、優れた労務管理や従業員定着の取り組みによるものであれば、これは企業にとって大きな強みとなるからです。定着した従業員は経験豊富で、高品質なサービスを提供できるため、顧客満足度が向上し、それが業績向上にもつながります。また、中長期的に見れば、人材採用や育成にかかるコストを抑えられ、従業員の生産性が向上することで、売上の持続的な成長が期待できます。

このように、人的資本情報は中長期的な業績予測に活用されています。企業価値評価において重要な指標だと言えるでしょう。

そもそも開示情報は、利用者の意思決定に有用なのでしょうか。いかがですか。

情報が有用かどうかは、人によって捉え方が異なります。会計の世界で言うと、情報が開示され、それによって企業の株価が変動するのであれば、その情報は「有用」と判断されます。株価が上がる情報は「グッド・ニュース」、逆に下がる情報は「バッド・ニュース」と呼ばれることもあります。

具体例を挙げましょう。決算発表で確定した利益が開示されるとします。その数値が、事前にアナリストが予測していたよりも高い場合、市場関係者はそれを「グッド・ニュース」として受け取り、株価が上昇します。短期的に誤った株価反応を示す場合もありますが、資本市場では多くの参加者が積極的に情報を収集し、大きな資金を投じて投資リターンを得ようとしていますので、その過程で、株価反応は正しい方向に修正されていきます。

一方、サステナビリティ情報は、会計情報とは違って、明確な測定基準がないという特徴があります。それでも企業は、どうにか情報を収集し、整理し、開示にまでつなげています。しかしその中で、見せかけだけのサステナビリティに取り組む企業、いわゆる「グリーンウォッシュ](環境に配慮した取り組みを行っているかのように見せかける行為)や「ESGウォッシュ」(ESG経営を行っているとアピールをしながらも実際には行っていない行為)の問題も指摘されています。これらの情報には信頼性や比較可能性に課題があるのも事実です。

ここで注意が必要なのは、投資家がこうした情報に誤導されると企業が思って、適当に情報開示をしてしまうことです。投資家をだまし続けることはできません。もし企業が「手を抜いた情報開示」を行うのであれば、その努力は無駄になってしまうということを、強く意識していただきたいと思います。情報開示の価値を高めるためには、誠実で透明性のある情報開示が不可欠です。

03ベネフィットとコストを考慮し、戦略的に情報開示すべき


浅野先生は、コストとベネフィットを踏まえた企業の情報開示選択に関しても興味をお持ちだと伺っています。

情報開示には、コストとベネフィットの両方があります。まず、ベネフィットについてですが、少し専門的な話になりますが、資本コスト(資金調達コスト)を抑えることができる点が挙げられます。投資家は、不透明でリスクの高い企業に投資することを避けたいと考えるので、リスクが高い企業には高いリターンを要求し、逆にリスクが低い企業には低いリターンしか求めません。このように、資本コストは企業のリスクに応じて決まります。

資本コストは、企業が将来の業績を現在の価値に割り引く際の「割引率」として使われます。この割引率が高いほど、企業の価値は低く評価されてしまうので、企業は資本コストを低く抑えたいと考えるわけです。

情報開示が進むと、企業の透明性が高まり、投資家にとってのリスクが低くなります。この透明性の向上が資本コストの低減につながります。逆に、情報開示が不十分だと、投資家はその企業を「不透明でリスクが高い」と判断し、結果として資本コストが上がってしまいます。

一方で、情報開示にはコストも伴います。情報を開示するためには、リソースが必要ですし、場合によっては競合他社に戦略的な情報が漏れるリスクもあります。ですから、情報開示にはコストがかかるのは当然のことです。

そのため、企業はベネフィットとコストを天秤にかけながら、戦略的に情報開示を行う必要があります。ベネフィットがコストを上回る場合に情報を開示する、という行動原理が企業の情報開示選択の中で見られます。私はその視点から、企業の情報開示選択について分析を行っています。

04人的資本情報の開示はまだ発展途上にある

浅野先生は、人的資本情報の開示に関する現状をどうご覧になられていますか。

さまざまな工夫を凝らして情報開示が進められていますが、まだ発展途上だと感じる部分もあります。特に「なぜ人的資本に関する情報を開示しなければならないのか」「その開示がどのような効果をもたらすのか」といったことが十分に意識されていない印象があります。

開示効果について言うと、先ほどお話ししたように、資本コストの低下に加えて、もう一つ「規律効果」という重要な側面もあります。これは、情報開示を通じて投資家や規制当局など外部からの目が強まることで、その監視を意識して行動するようになるという効果です。

情報開示には、ステークホルダーとの双方向の対話を促進するといった効果もあります。企業は対話を通じて、ステークホルダーからの期待や批判を知り、その声を経営の方向性や戦略に反映させることができます。こうした対話を通じて、企業の行動に自然と規律が生まれます。

つまり、情報開示は単なる報告義務ではなく、経営を規律付ける手段でもあります。企業の持続可能な成長を支えるために、情報開示が非常に重要な役割を果たすというのは、このような理由からです。

「人的資本情報の開示は数字の羅列ではなく、ストーリーで語る必要がある」との意見があります。浅野先生は、どう思われますか。

同感です。企業が直面する課題として、「財務情報と非財務情報の接続」があります。特に、企業の取り組みを一貫したストーリーとしてつなげることが重要だと感じています。

現状、多くの企業でサステナビリティへの取り組みが進められていますが、その中でもいくつか課題も見えてきています。例えば、重要課題(マテリアリティ)が社内で十分に共有されていないといった問題があります。また、重要課題自体は特定されているものの、それが経営に組み込まれず、開示活動が目的化しているといった批判もあります。さらに、計画や目標設定が重要課題や経営戦略と連動していないことや、取り組みの進捗状況が十分にモニタリングされていないこと、重要なESG指標が役員報酬と連動しておらず、経営陣の本気度が感じられないことも問題として指摘されています。

こうした取り組みがバラバラに行われると、企業としての一貫性が欠け、外部から見ると何を目指しているのかがわかりにくくなります。企業全体のビジョンや方向性がぼやけてしまうわけです。そのため、ESGへの取り組みの間には「コネクティビティ」、つまり、接続性が非常に重要になります。

例えば、パーパス(存在意義)やビジョンの設定をしっかり行い、ビジョンを実現するためのビジネスモデルや経営戦略を考えることが重要です。そして、重要課題を特定し、取り組みの進捗をKPI(業績評価指標)を通じてモニタリングしていくことが求められます。この一連のプロセスが一貫したストーリーとして描かれ、統合報告書などを通じてわかりやすく開示されることで、ステークホルダーに対して強いメッセージを送ることができます。

コネクティビティを実現するためには、企業内部でのコミュニケーションが非常に重要です。経営戦略を実行に移すのは、結局は「人」です。どんなに素晴らしい経営戦略があっても、それを実行に移せなければ「絵に描いた餅」です。経営戦略を実行できる人が社内にいるかどうか、また目指すべきビジョンやパーパスが従業員間でしっかり共有されているかを確認し、不足している場合には改善を加えることも重要です。

05TCFD提言のフレームワークが人的資本開示の進化の道筋を示す

人的資本開示は今後どのような方向に進むのでしょうか。

2023年3月期から有価証券報告書に「サステナビリティに関する考え方及び取組」の欄が新設され、サステナビリティ情報の開示が進んできました。さらに、従業員やコーポレートガバナンスに関する情報開示も充実しています。人的資本開示は、TCFD提言(気 候 関 連 財 務 情 報 開 示 タ ス ク フ ォ ー ス ( TC F D )がまとめた報告書)に基づき「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標及び目標」の4つの要素に分けて説明されています。現時点では、これらの記載内容が横並びで定型的になっている印象が強いです。今後これらの情報をどう改善していくかが非常に重要だと個人的には考えています。

まず、「ガバナンス」ですが、取締役会やサステナビリティ委員会などの機関が、人的資本経営にどのように関与しているかを具体的に示すことが求められます。改善策として、取締役会や委員会の関係図を示し、それぞれの役割や開催頻度、議論内容を開示することが挙げられます。また、監督体制と執行体制を明確に分け、各機関の責任範囲を具体的に説明することで、ガバナンス体制の透明性を向上させることが重要です。

次に、「戦略」についてですが、人的資本に関する取り組みが経営戦略と十分に連動していることを明確にする必要があります。具体的には、重要課題をSDGsと関連付けることで、取り組みの意義を伝えることが重要です。また、重要課題をリスクと機会の観点から整理することで、企業の長期的な成長戦略を明確に示すことができます。さらに、重要課題ごとに具体的な目標や取り組み内容を記載することで、ステークホルダーにとって分かりやすい開示を目指すことも重要です。

また、「リスク管理」については、リスク特定から対応策までのプロセスを開示する必要があります。例えば、離職率の急増や労働環境に関する課題について、具体的な対応策や従業員エンゲージメント施策を示すことで、リスク軽減への取り組みを明確にできます。また、従業員満足度などのデータを活用し、リスク管理の実効性を証明することも重要です。

最後に、「指標及び目標」については、時系列または企業間で統一されておらず、比較可能性が低いことが課題です。改善策として、年度ごとの進捗状況や目標達成度を継続的に明示し、取り組みの効果を一貫して示すことが求められます。また、業界全体で比較可能な指標の標準化を進めることで、企業間比較をより容易に行えるようにすることも重要です。

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浅野 敬志

慶應義塾大学

商学部 教授

横浜市立大学商学部卒業、慶應義塾大学商学研究科博士課程修了。博士(商学)。愛知淑徳大学講師・准教授、東京都立大学准教授・教授を経て、2023年4月より現職。日本銀行金融研究所客員研究員、カリフォルニア大学バークレー校客員研究員を歴任。主な著書に『会計情報と資本市場 変容の分析と影響』(単著)、『ESGカオスを超えて 新たな資本市場構築への道標』(共著)、『戦略的人的資本の開示 運用の実務』(共著)など。

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