近年、従業員一人ひとりの能力を資本として捉える人的資本の概念がクローズアップされている。2023年3月期決算からは、「人的資本の情報開示」が義務化された。「それは、上場企業などが対象。中小・中堅企業にとってはまだまだ先の話だ」と捉える経営者が多いかもしれないが、事業創造大学院大学 事業創造研究科 教授の一守 靖氏はすべての企業経営者に人的資本経営や人的資本経営のストーリーを作成する意義を認識してほしいとアピールする。その真意を聞いた。

インタビューの前編では、人的資本の重要性が高まる背景や人的資本経営の現状、課題などを語ってもらった。

01資本市場からの視点で
人的資本が
注目される時代に

戦略人事や人的資本経営がバズワード的に取り上げられています。どうご覧になられていますか。

経営において、人への関心が高まっているのは非常に好ましいことだと思っています。バズワードにまでなっているかは疑問です。まだまだ足りないのではないでしょうか。ただ、バズワードと言ってしまうと、一時の流行で終わってしまいそうなので、そうではなく、人への関心はこれからも消したくないと思います。

戦略人事自体は、実は1980年ぐらいから1990年代に、今の人的資本経営と同じようにもてはやされました。もう、かれこれ40年も前の話です。その頃のバズワードだったのかもしれません。

人的資本の重要性が高まっている背景をどう分析されますか。

人的資本という概念自体は、もともと労働市場を対象とした労働経済学の概念です。日本型雇用慣行の特徴である年功賃金や企業内教育も、この理論をベースに説明されてきました。

今、人的資本経営が着目されているのは、労働市場を対象とした概念に資本市場を対象とした概念が加わった点が大きいと思います。つまり、企業価値や企業業績の向上の原動力は人であると、投資家の方々が評価するようになってきました。このように、この領域への参加者の変化が、今の人的資本経営の議論の高まりにつながっているといえます。

もちろん、日本企業の閉塞感もその背景にあると思います。元々日本型雇用慣行は、新規学卒者を長期に渡って企業内で教育する点が大きな特徴です。このように、人に対しては長期に投資をしていたはずなのですが、長引いた業績の低迷のせいか、成果主義を勘違いしてしまったせいか、企業が人材投資から少し手を引いてしまったのです。それを、もう一度人的資本経営というキーワードで修正をする時期だと思っています。

今の人的資本経営と昔から言われている戦略的人的資源管理(Strategic Human Resource Management;SHRM)の違いは、人的資本情報の開示にあると捉えています。これまでは、企業内の人材マネジメントの内容や目指す姿については、ある程度企業内部に対しては説明されてきたものの、社外に対してはそれほど伝えられていませんでした。そのために、会社の人事をある程度理解している人がわかるように説明すれば良かったのです。しかし今、投資家をはじめとした社外の人々が、企業の人材マネジメントに注目するようになったため、会社の取り組みをよりわかりやすく説明しなければいけないフェーズになってきました。そこが、SHRMとの違いだと思います。

02経営戦略と
人材マネジメントは
もっと連動すべき

先生は、2022年10月に「人的資本経営のマネジメント: 人と組織の見える化とその開示」を出版されました。この本はどのような問題意識から執筆されたのですか。

この書籍を執筆した背景には三つの想いがありました。

第一に、私は、元々戦略人事への想いが非常に強かったのです。昔から、そうあるべきだと思っていました。また、慶應のビジネススクールにてアメリカから帰国された守島先生(現 学習院大学教授)から、戦略人事の考えを教えていただいた際にその想いは強くなりました。日本で「戦略と人材マネジメントをもっと連動させるべきだ」と、かなり前から言われているものの、なかなか実現されていないのが現状のため、それをもっと後押ししたいという想いもありました。

第二に、これも近年言われていますが、私は「日本企業はデータに基づく人材マネジメントをもっと行うべきだ」という考えも持っていました。それは私が長くキャリアを積んできた外資系企業では、ごく普通の考えでした。そこで、そうした考え方をもう少し広く知ってもらいたいという気持ちもありました。

第三は、人事部門自体が私の研究対象ということもあって、人事のプロフェショナルを育てたいという想いもありました。

こうした三つの想いがあったので出版をしたいと考えていたときに、人的資本経営が注目されたものですから、それらをまとめて書いたというのが経緯です。

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『人的資本経営のマネジメント: 人と組織の見える化とその開示』
詳細はこちら another-window-icon

人的資本経営の研究や講演、企業への導入指導をされている先生からご覧になられて、現状と課題をどのように捉えておられますか。

これは、「人材版伊藤レポート2.0」でも指摘されていることですが、ストーリー性という意味ではまだ改善の余地があると思っています。いわゆる、経営戦略から人事戦略・人事施策・人的資本指標の測定と開示までの一貫した流れですね。この点はもっともっと良くできるはずです。

もちろん、すごく熱心に人的資本経営に取り組まれている企業もあります。ただし、それらは大都市の大企業に集中している印象です。人的資本経営という言葉をバズワードで終わらせないためにも、人的資本経営という取り組みがあたり前だと思われるくらいに定着させていくべきだと思っています。現状を見る限り、中小・中堅企業や地方企業への広がりがまだまだ足りないところが大きな問題点だと感じています。

03地域や企業規模による
人的資本経営への
温度差を痛感

先生は新潟、東京に拠点を構えて多くの企業と接点を持たれています。地域や企業規模で人的資本経営に対する温度差を痛感されますか。

温度差は、かなりありますね。私が勤務している大学院がある新潟でも経営者や人事部門の方々を集めて勉強会を開催しているのですが、ジョブ型雇用ですとか人的資本経営といった議論はまだ先の話、という雰囲気があります。やはり、地域や企業規模の違いによる人材マネジメントに対する着眼点は、種類が違うのかもしれません。

それは、どのような意味あいですか。

例えばジョブ型雇用を導入する1つの大きな理由は、外部の労働市場に目を向ける必要性の高まりがあります。首都圏など採用市場が大きな地域では採用上の競合企業が多いため、他企業の人材マネジメント施策を強く意識する必要があります。そのため、例えば自社の社員の報酬水準を決める際には、同じような仕事をしている他社の社員と比べてどうか、という点が気になります。そこで、ジョブをベースにした制度設計にして、比較可能な状態にするのです。

これに対して採用市場がさほど大きくない地域は、他社動向を気にする必要性があまり大きくないため、例えば報酬マネジメントでより重要になるのは、社内の公平性になります。ジョブ型雇用における等級制度は、社員の仕事の専門性を高めて「自立した社員」を創り、担当ジョブの大きさで社内の階級を上っていく仕組みです。年齢や勤続年数のように、社内の誰にとっても“わかりやすい”基準ではないため、不公平感を感じる社員も出てきます。従って、ジョブ型雇用はそぐわない、という考えになりがちです。

人的資本経営についても同様に、大都市にある大企業の取り組み、と捉えられている感じがします。この点は、まだまだ説明不足によるものだと思っています。ジョブ型にせよ、メンバーシップ型にせよ、それぞれのしくみの中で人を成長させるやり方があるわけで、中小・中堅企業や地方の企業も人的資本経営ストーリーを考え、人の成長を通して企業の成長を図る余地がもっとあるのではないかと思っています。

04人を活かす企業には
共通項がある

先生は、人的資本経営モデルを提唱されています。それはどのような考え方なのですか。また、なぜ大切なのでしょうか。

人的資本経営モデルとは、まだまだ検証が必要ですが、基本的には「人を活かすことにより企業業績や企業価値を高めている企業に共通して見られる、経営戦略と連動した人材戦略をベースに人材マネジメントを展開し、人と組織の強化を“その企業らしく”推進する経営モデル」です。

“その企業らしく”というのは、例えば同じような経営戦略を採用している企業であっても、パーパス(企業の存在価値)であるとか、企業文化の違いによって人材マネジメントのあり方が異なってくる、という考えが前提にあります。

どのような経緯で、人的資本経営モデルを提示されたのですか。

さまざまな企業の事例研究をしていく中で、共通項があることに気づきました。それで、モデル化をしたわけです。何故それが良いのかという問いに答えるためには、もっと研究する必要があります。今の私の理解では、これは人の認知に訴えるモデルだからではないかと思っています。認知とは、個人がその感覚を通して得た印象を体系づけ、解釈して、自身の環境に意味を与える事です。情報の受け手は、出来事の順序や関係性に注目し、それが全体の流れや意味にどのように寄与するか理解しようとします。そのため、ストーリーには意味のある構造、一貫性が必要なのです。

人的資本経営の開示は誰のためかというと、投資家や社員、求職者などです。開示内容を読んでくれる人々に理解されないと、その取り組みを訴求することができません。わかりやすいストーリー立てをして説明することによってそれを理解してもらうと、投資に結びついたり、社員がやる気を高めたりして、業績の向上に繋がるのではないかというのが、このモデルの仮説です。それを今、研究者や経営者の方々と共に研究しているところです。

05日本企業は
人を大切にした経営に
シフトすべき

視点が違う質問をさせてください。日本企業は果たして人を大切にしてきたのかどうか。先生はどう判断されますか。

答えるのが難しいですね。「大切」という言葉をどう捉えるか。人に優しい経営をしてきたとは思いますが、人を大切にしてきたかと言うと必ずしもそうではないかもしれない気がします。

これは、ジョブ型雇用を例に出して説明してみます。私はジョブ型雇用の考え方をサポートしています。やはり、専門性を高めて自分が職業や職場を選択できるようにして、自分らしい生き方をするのが人にとって望ましいと考えているからです。その立場に立つと、日本企業は、人に優しくしているように見えて、実は人を大切にしていないという言い方ができるのかも知れません。

私も企業に長く勤めました。企業経営の視点からすると、優秀な人材に限りある資金をより多く投じてさらに活躍してもらいたいという考えになります。そうすると評価の上位層がより活躍できるような人材マネジメントになっていきます。この立場からいえば、普通の評価の人も含めて全体の8割を同じように扱う経営が人を大切にした経営かと聞かれれば、それは微妙だと考えてしまいます。

ですが、評価が上位の人だけに注力した経営を進めると、真ん中の層、すなわち普通に頑張っている人たちにとっては、あまり公平ではないやり方だと映ってしまいます。この観点から見れば、そうしたやり方は人を大切にしていない、と見えるでしょう。

世の中には、安定を重視する価値観もありますし、全社員の公平性を重視してきたのがこれまでの日本企業のやり方でもあります。どのような立場に立つかによって、人を大切にしてきた、大切にしてきていない、という答えが変わってくると思います。

人事の方々の集まりに参加すると、「2・6・2」という数字を良く耳にします。どの層までフォローするか悩んでいるようです。

私は今、経営大学院で教えています。約200人の学生のうち、半分が留学生なのですが、同様の議論をすると、留学生は「上位の2割に投資すべきだ」と答えます。一方、日本人学生は「真ん中の6割を大切にすべきだ」と発言します。

考え方に明確な違いがあるのは面白いですね。先生としては、日本企業は人を大切にした経営にシフトしていくべきであることには異論はないですね。

もちろん異論はありません。ただし、大切にする対象を明確にすべきだと思います。例えば、あまり成果が出ていない人、いわゆるローパフォーマーをどう扱うか。外資系企業の多くはそうした人に対してPIP(Performance Improvement Program)を実施して、パフォーマンス改善に取り組み、もしもパフォーマンスが改善しなければ社内の他の仕事を与えるか、あるいは社外で活躍できる道を探すべく本人と相談をします。日系企業でこのような取り組みを行っている企業はあまり多くはないと思います。これをどう見るかです。

社内で実力を発揮できていない人をそのままの状態にしておき、毎日つまらない状況で働かせておくのが誠実な対応かどうか。私は、それは誠実な対応ではないと思っています。改善の手を差し伸べ、それでもだめならば、本人が能力を発揮できる環境で溌剌と働けるように促した方が、より誠実な対応であると考えています。

こうした対応が「人を大切にする」対応であるという立場で私は今話をしていますが、「それは人を大切していない」という見方をする人もいるでしょう。見方によって変わってくるということです。

確かに、全然違ってきそうです。

そう思います。なので、企業は自分たちがどう人を扱っていくのか、会社ごとの価値観をきちんとストーリー立てして人にわかりやすく説明することが、人的資本経営においてやるべきだと考えています。

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一守 靖

事業創造大学院大学

事業創造研究科 教授

ヒューレット・パッカード、シンジェンタ、ティファニー、NCR等の外資系企業、ならびにbitFlyer等のベンチャー企業における人事部門の責任者としてジョブ型人事制度の導入、社員教育、組織文化の変革、人事部員の育成等を推進すると同時に、複数の大学院において教育・研究活動に従事。アカデミックの知見をビジネスの実践に活かす取り組みを行っている。ピープルマネジメントコンサルティング代表。慶應義塾大学博士(商学)。

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