近年、従業員一人ひとりの能力を資本として捉える人的資本の概念がクローズアップされている。2023年3月期決算からは、「人的資本の情報開示」が義務化された。「それは、上場企業などが対象。中小・中堅企業にとってはまだまだ先の話だ」と捉える経営者が多いかもしれないが、事業創造大学院大学 事業創造研究科 教授の一守 靖氏はすべての企業経営者に人的資本経営や人的資本経営のストーリーを作成する意義を認識してほしいとアピールする。その真意を聞いた。インタビューの後編では、人的資本の情報開示の現状やジョブ型雇用に向けたポイントを語ってもらった。(前編はこちら another-window-icon

01人的資本の情報開示元年。
試行錯誤が続く

先生は、日本生産性本部「人的資本経営の測定・開示ワーキンググループ」の座長を務めておられます。2023年3月末決算企業の有価証券報告書「人的資本開示」状況をどうご覧になられますか。

まず、今回の開示のポイントは二点ありました。一つ目は、指標を数字として公表すること。具体的には、女性管理職比率、男性の育児休業取得率、男女の賃金格差です。開示された数値の水準自体は各社ともバラバラでしたけれども、政府が長年に渡り状況を改善しようと声掛けをしてきたものの、なかなか改善が進まなかったいくつかの取り組みの実態が公開されるようになったという意味で、今回の開示という取り組み自体は、今後の状況改善につながる第一歩になったのではと思っています。

二つ目は、皆さんが注目されている、また頭を悩まされた「サステナビリティに関する考え方及び取組」を記載する自由記述の部分です。ここについては、人的資本経営の取り組みについての説明が少し足りていない印象を持ちました。平均記述文字数は約2,000文字でした。もちろん、文字数がすべてではないものの、人的資本経営の取り組みについて十分に説明し切れていない印象があります。実際に企業の方にお話を聞いてみると、すごく色々な取り組みをされている企業があったりします。「もったいないな」という感じを受けています。

ストーリーで語られていたかという点はいかがですか。

そこも、初回ということもあって、どの企業も試行錯誤されていた感じです。もちろん、ストーリー性がある企業もありました。ただ、有価証券報告書自体が割と決まったテンプレートに基づいていて、多くの自由記述をすることが「お作法」ではないというイメージを抱いていた企業も少なくなく、初回は難しかった気がします。書きすぎてはいけないと遠慮されたのかもしれません。次回は、みなさんある程度の文字数でレポートされるのではないかと期待しています。

情報開示ありきの動きを危惧する声もあります。いかがお考えですか。

私は逆に、情報ありきにならないようにフリーハンドの説明スペースを、有価証券報告書の中に与えてくれているという理解をしています。企業によっては、先ほどの3指標に関して数値とその算出根拠に加え、現在そうなっている理由と今後の目標についても書いているケースもあります。要は、そうした内容についてきちんと説明することも、「サステナビリティに関する考え方及び取組」の記載欄を新設した狙いにあったのではないかと思います。

情報開示は始まったばかりです。暖かい目で見ていく必要がありそうですね。

私もそう思います。それと、全ての企業が三つの指標のすべてを他企業以上に高くすることまで求められているわけではないと考えています。企業が属する業界によっても当面の現実的な目標値には差が出るでしょうし、目標の絶対値以上に、各企業がどのようにそこまで到達するかの絵をきちんと描けるかの方が重要ではないかと思います。

もちろん企業は、ひとたび数値を公開すると、その数値を毎年右上がりにしなければならないというプレッシャーがあると思います。決してそうではないのです。例えば、社員のエンゲージメント調査のスコアを目標に掲げている会社に話を聞くと、「体温計みたいなものだ」と指摘されています。「ある一定の中に入っていれば良い状態にあるとみなす」というのです。多くの指標において、そうした考え方が適用できるのではないかと思います。ですから、少し工夫すれば、会社の考えや目指す方向をステークホルダーに訴えることができるのではないかと思います。

02人的資本の情報開示は、
企業価値の向上に繋がる

今後、人的資本の情報開示を推進していくために、企業は何をどう行っていけば良いのでしょうか。

繰り返しになりますが、自社のストーリーを明確に記載することが第一です。細かい点では、人的資本の指標を選択した理由も書いた方が良いかと思います。人的資本の指標には、大きく分けて、経営戦略と人事戦略の繋がりから選択されるものと、社会的責任を果たすために選択されるものの2種類があります。

例えば、ダイバーシティです。ダイバーシティそのものを経営戦略にしていたり、経営戦略を達成するために人事戦略の中に人材の多様化は欠かせないとしたりする会社もありますけれど、今の世の中ではそれに取り組まないと社会的責任を果たせないというスタンスの企業もあります。その点があいまいなので、経営戦略から人事戦略までのストーリー展開がクリアでも、指標のところになると、それまでに語られてこなかった女性管理職比率のような指標が唐突に現れたりしてストーリーの流れがとまってしまいます。せっかく流れるようなストーリーだったのにと、少し残念な気持ちになります。

人的資本の情報開示は企業価値の向上につながり得るものなのでしょうか。

人的資本経営そのものは、すごく広い構成概念です。従って、人的資本経営といっても会社ごとに色々なやり方があります。人的資本経営が企業業績の向上に繋がるかどうかという研究は欧米を中心として数多く行われています。企業業績との関連に関しては、まだまだ検証の余地があるのではないかというのが、私の正直な見解です。企業業績に影響を与える要因は数多くあり複雑ですし、また、何らかのアクションを打ってから成果が出るまでのタイムラグの問題もあります。

ただ、人的資本経営情報の開示をすることは業績向上に繋がるのではないかと思っています。何故なら、人的資本の情報開示をすることによって、それを認知した人々が動き出すからです。具体的には、人的資本情報をみた投資家が投資の配分を多くする、優秀な求職者が人への投資に熱心な会社を選択するようになる、そして社員が会社の取り組みや方向性を理解してやる気を高める。こうしたことの結果として、企業業績の向上に繋がるのです。

有価証券報告書等の提出義務がない会社も、自社のホームページや会社案内などを通して人的資本経営ストーリーを語ることはできるので、多くの企業にやっていただけたらと思います。

03ジョブ型は
決して万能ではない、
副作用もあり得る

ジョブ型雇用に関してはどのような見解をお持ちですか。

実はジョブ型雇用は、私の原点です。現在慶應義塾大学SFC研究所の上席所員をされている高橋俊介先生がワイアット(現ウイリス・タワーズワトソン)の社長をやっておられた時に「『自由と自己責任』のマネジメント―市場原理と大人の契約」(ダイヤモンド社)という本を出版されました。「とても良い考えだ」と共感したのがきっかけでした。人間らしい生き方だと思ったからです。

その後、私がヒューレット・パッカードに入社したところ、まさにその経営をしていて驚いてしまいました。人々が専門性を高めて、自分の意志で仕事を選択できるようになっていたのです。「人間らしくて素晴らしい」と思い、それで私はジョブ型が好きになったわけです。

とはいえ、すべての日本企業がジョブ型に移行すべきだとまでは言いません。前述の通り、例えば地方の会社は雇用の流動性や社内リソースの状況を踏まえるとジョブ型にシフトしにくい状況にあります。私自身も、ジョブ型は好きですけども、決して万能ではないと思っています。

例えば、ジョブ型の特性からすると理論的には退職者が増える方向にあります。ジョブ型によって専門性が高まれば市場価値が高まるからです。個人にとっては、そうなることは素敵です。ただし企業からすると専門性や市場価値が高まった社員を社内に留めるためにこれまで以上に企業としての魅力を高めなければなりません。このような、雇用する側と雇用される側がともに緊張感をもって、結果的にはその相互作用で両者とも強くなることを目指すべきなのですが、企業にとってはそう簡単な話ではありません。

他には、社内にサイロ(部署間の壁)ができやすいこともよく指摘されます。さらには、ジョブ型を運用するには、管理職のマネジメント力が鍵になってきます。管理職がしっかりしないと、社員の不満は高まります。ジョブ型に移行するならば、こうした副作用をあらかじめ理解して、それに対する打ち手を考えながら導入すべきだと思います。単なる形だけの導入では失敗する可能性があります。そこをきちんとやれる企業が出てくれれば良いと思います。

ジョブ型雇用の持つフィロソフィーを念頭において全体の整合性を図りながら、良い塩梅でマネージすることが必要だということです。ソニーはその好例だと思います。欧米企業のようなジョブ型の会社から見ると、やはり日本的なニオイが混じったジョブ型に見えるかも知れませんが、日本企業から見ると欧米と同じニオイのジョブ型に見えると思います。そのあたりがすごく良い塩梅をされているといつも思っています。

ジョブ型の副作用は、どう防いでいけば良いのでしょうか。

幾つか施策があります。例えば、管理職のマネジメント力を高めることです。ジョブ型になると、仕事の専門性をもとに人を束ねていく要素が強くなるので、同じ仕事で高い専門性を持った管理職がきちんと部下に相応の仕事を与え、育て、成長をサポートすると部下はモチベーションを高め、良い仕事をするようになります。

日本企業では、社員を育てるのは人事部やその研修部門の仕事であると捉えられがちですが、ジョブ型になるとその役割を主として担うのは管理職になります。そのため管理職自身のマネジメント力を高める教育が一つの大きな鍵になるのです。管理職にしっかりと投資をしてもらいたいと思います。

管理職のマネジメント能力を高めるためにはどうしたら良いとお考えですか。

部下一人ひとりをしっかり見れるようにすることです。昔は部下のその人となりをよく見て、その人と接する態度や指導の方法を決めましょう、と言っていました。今は違います。「その人がしている仕事を見なさい」と言っています。

例えば、Aさんという部下が主に五つの業務を担当しているとします。その中には、Aさんにとってもはや楽勝の仕事もあれば新たにチャレンジする仕事も混ざっているはずです。そこで、Aさんが担当する業務ごとにマネジメントの仕方を変える必要があります。簡単に言えば、楽勝な仕事は完全に本人に任せる、新たにチャレンジする仕事は新入社員のように指導してあげるということです。

これまでのように、“この人はもうベテランだから放っておく”とか、逆に“この人はまだ若手だから全部手取り足取り教えてあげる”という大雑把な取り扱いはしない。こういった視点で部下を見るようにしてあげることが管理職教育の第一歩なのだと思っています。

04ジョブ型に日本的な
味付けをする工夫を

「良い塩梅」とは、ジョブ型と日本型のメンバーシップ型の融合、良いとこ取りと捉えて良いですか。

その通りです。とはいえそれは、「日本式ジョブ型雇用」というような中庸というか、第3の選択肢的なものでもないと考えています。恐らく日本企業で働いている方々がイメージする外資系企業のジョブ型雇用やその下で運用されている制度は、一般的に理解されているほど厳密に運用されているわけではないというのが私の理解です。

よくジョブ型では、仕事が変わらないと給料があがらないと言われます。それは、制度上は確かなのですが、実際には、ある優秀な人をリテンションするためには、その人のためによりサイズの大きい仕事を用意し、それをやらせて昇給させたり、昇格させたりするのも珍しいことではありません。それは日本だけでなく、外国でも同様です。従って、日本のやり方の良いところを混ぜた形の、「良い塩梅」のジョブ型運用は十分にあると思います。

正直なところ、ジョブ型=成果主義と誤解されている経営者も多かったりします。

確かに、ジョブ型イコール成果主義、というか、結果主義、という誤解はあるかも知れません。実際には、ジョブ型が当たり前の欧米企業でも行動評価、すなわちプロセス評価は普通に行っています。あるべきジョブ型雇用や制度とはどういうものか、何を目的としているのか、どのようなことが達成できて、どのような点に気をつけなければならないのか。もっと多くの経営者にご理解していただけるようになれば良いと思っています。

ジョブ型雇用は今後日本に定着するとお考えですか。

そうですね。一番影響を与えるのは労働法制です。日本に拠点がある外資系企業を見ると、ジョブ型雇用のもとで運用される制度自体は、ほとんどが例えば米国本社と全く同じ制度なわけです。ただ、日本には例えば解雇の規制がありますので、米国と全く同じ運用はできません。なので、そこは日本的な事情を加味する必要があります。その味付けをどのぐらいするかによって、それぞれの企業に合った塩梅の運用ができると思っています。今の若い世代は、自分の専門性を高めたいという意識をこれまでの世代以上に持っています。それだけに、大きな方向としてはこれまでのメンバーシップ型よりも、ジョブ型をベースにしながら企業ごとに良い塩梅の制度設計と制度運用をしていくのが良いと思っています。

実際に私が勤めたことがあるNCRという米国に本社のある会社は、日本で100年以上ビジネスを行っている会社です。会社のカルチャーやそこに働く人もすごく日本的ですし、労働組合もありますが、古くからジョブ型になっています。ジョブ型が当たり前のように定着して運用されています。

05人は唯一
心を持った資本だと
認識してほしい

先生ご自身も、企業の人事経験が豊富です。不透明さが増す時代において、人事の役割がどう変わりつつあるとお考えですか。

色々な言い方がありますけれど、私は人事部門の役割を大別して、「アドミン人事」と「戦略パートナー人事」という呼び方をしています。前者は、さまざまな手続きや給与計算などを行うことを中心とする人事部門で、後者はビジネスを成功させるために部門の責任者やマネージャーを人事のプロとしてのスキルをベースに支えている人事部門です。

ここ数年、日本でも「HRBP(HRビジネスパートナー)」という役割が注目を集めるようになってきました。HRBPは、CoE(Center of Expertise)と呼ばれる人事制度設計チームや研修チーム、採用チームに属するそれぞれの分野の人事専門家の協力を得ながら担当ビジネスの戦略達成のために人事戦略を立案し、実行の手助けをする、「戦略パートナー人事」の要となる役割です。

しかしながら、実は世間で言われているほど、HRBP体制をはじめ、戦略パートナー人事体制に向けての人事部門のトランスフォーメーションが進んでいません。大手企業も、そちらに向かってはいるものの「まだまだ途中です」という会社が結構多いのが実状です。人事部門には、戦略パートナー人事に向けてのトランスフォーメーションすべき余地はまだまだたくさんあると思っています。

ただ、一つだけ誤解して欲しくない点があります。戦略パートナー人事はアドミン人事がしっかり運用されていて初めてできる話なので、入れ替えの問題ではなく足し算、比率の問題だと言うことです。アドミン人事が決して劣っているということではなくて、その体制をしっかりと安定させた上で、戦略パートナー人事を上乗せしていただきたいと思います。

最後に、中小・中堅企業の経営者や人事責任者へのメッセージをお願いいたします。

経営者の皆さんには、二点お伝えしたいことがあります。一点目は人的資本経営という名称に捉われず、人は唯一心を持った資本であるということを常に念頭に置いて扱ってほしいということです。著書にも書きましたが、人をマネージする上で、AMOが重要です。すなわち、社員が高いパフォーマンスを発揮するには、能力(Ability)、モチベーション(Motivation)、機会(Opportunity)が必要だということです。これらが鍵だと思うので、社員の能力を高め、やる気を引き出し、機会を与えることを常に意識していただきたいのです。二点目は、現場の管理職の育成が人材マネジメントすべての鍵になると言うことです。

人事責任者ならびに人事部門で働いている皆さんには、人的資本経営という概念が登場したことによって人のマネジメントに注目が高まっている今こそ、皆さんの人事プロフェッショナルとしての存在価値を高め、企業の成長に貢献するチャンスだと言いたいです。皆さんには、人的資本経営という言葉をバズワードで終わらせないようにする責任と義務があると思っています。大企業に限らず中小・中堅企業であっても、大都市の企業に限らず地方企業であっても、自社の人的資本経営に向けたストーリーをぜひ考えて発信してほしいというのが、私からのメッセージとなります。

もし、人的資本経営の導入や推進に関して何かお悩みごとがあれば、私も色々とご相談に応じます。共に、次代の人材が活躍する将来を見据えて、楽しみながら、前向きに取り組んでいきましょう。

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一守 靖

事業創造大学院大学

事業創造研究科 教授

ヒューレット・パッカード、シンジェンタ、ティファニー、NCR等の外資系企業、ならびにbitFlyer等のベンチャー企業における人事部門の責任者としてジョブ型人事制度の導入、社員教育、組織文化の変革、人事部員の育成等を推進すると同時に、複数の大学院において教育・研究活動に従事。アカデミックの知見をビジネスの実践に活かす取り組みを行っている。ピープルマネジメントコンサルティング代表。慶應義塾大学博士(商学)。

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