経営環境がダイナミックに変わりゆく中、「人材」への注目度がますます高まっている。その流れに合わせて、人事の領域では心理的安全性やエンゲージメント、キャリア自律、ジョブ型雇用、人的資本経営などさまざまな概念がトレンドとして取り上げられている。人事が流行に従う面もあるのは否定できないが、それに左右されてしまい本質を見失ってしまっては意味がない。そうならないために、どうしたら良いのか。和歌山大学経済学部の厨子直之教授は、データに基づいた意思決定の重要性を強調するインタビューの前編では、人的資本経営の課題と組織のクリエイティビティ向上へのヒントを伺った。

 

01人的資本経営を巡っては3つの課題がある

まず、最初に日本企業における人的資本経営の浸透ぶりをどうご覧になられていますか。


人的資本経営で指摘されているのは、従業員の成長を通じて企業の長期的な価値向上を目指していき、そして企業が持続的に発展することです。まさに、複数の研究を定量的な手法で統合したメタ分析による研究を見ても、人的資本経営が企業のパフォーマンスに繋がることはわかっています。

内閣官房の人的資本可視化指針(特に人的資本に関する資本市場への情報開示の在り方に焦点を当てて、既存の基準やガイドラインの活用方法を含めた対応の方向性について包括的に整理した手引きとして編纂された指針)や人材版伊藤レポート(経済産業省が主催した「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」の報告書)では、ご存知の通り人的資本情報の開示と測定、人材の働きがい、この二軸が大きく強調されています。ただし、私は、人的資本経営には三つほど課題があるのではないかと考えています。

一つ目は、働きがいへの着目がまだ十分ではないという課題です。これに関しては、共同研究者が行った研究から示唆されます(堂西晴香[2024]「人的資本経営の現状と課題――新聞記事を用いた計量テキスト分析――」『日本経営学会第98回大会報告要旨集』)。2021年11月2日から約2年分の日本経済新聞関連の記事データを計量テキスト分析したものです(詳細は、『経験から学ぶ人的資源管理〔第3版〕』第5章「コーヒーブレイク 日本における人的資本経営を科学する!」をご参照ください)。人的資本経営というキーワードの中で何が語られているのかを調べています。その結果によると、5つに分類されます。

一つ目が、伊藤レポートでも言われているように、経営戦略と人事戦略、および人事評価制度との連動です。二つ目が、人的資本投資や情報開示をテーマにした記事です。三つ目は、人的資本の数値化や定量化に関わる話題。四つ目が、女性活躍と賃金格差をどう是正するかということ。最後の五つ目が、キャリア開発です。働きがいに関わるものとしては、唯一キャリア開発ぐらいしかありません。その意味では、まだまだ世間では言われているほど人的資本経営が進んでいるとはいえない状況にあります。

特に働きがいにまつわる施策だと、エンゲージメントサーベイに留まってしまっています。本格的に働きがいというところまでには、着目が至っていないことがわかります。ここが、まず一つ目の課題です。

二つ目の課題は、現場が疲弊していることです。実は、公益財団法人関西生産性本部で人事担当者向けに研修会を行ったときに、人的資本経営をテーマとしてディスカッションさせていただきました。その中で上がってきた声の一つに、「人的資本経営の測定と言われているものの、測定にまつわる人事や管理職の負担が結構多く、増大している」という話がありました。

米国カトリック大学歴史学部教授のジェリー・Z・ミュラー氏が執筆した「測りすぎ―なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?」(発行:みすず書房)が出版されたのも、2019年でした。やはり、人的資本経営の中でも人的資本の測定に重きが置かれていて、現場が疲弊し切ってしまっています。ここも課題です。本来は、働きがいや企業の価値向上が目的であるにも関わらず、ミュラー氏が指摘するように測定そのものが目的にすり替わってしまっています。恐らく、これが今後、人的資本経営が進む中で取り組むべき一つの課題だと感じています。

最後に三つ目ですが、これは人事担当者との非公式なコミュニケーションの場で話されていたことです。確かに情報開示は、あらゆるステークホルダーからの信頼という意味では大事であるのは良くわかります。ただ一方で、いわゆる人的資本経営に関する取り組みぶりを、有価証券報告書で文章と図や表でこと細かく書くようになったのですが、実はこれはある意味、競争優位につながる情報もどんどんさらけ出すことになってしまいます。ですので、「非常にジレンマを抱える」とおっしゃっていました。「どこまでを開示すれば良いのか」。信頼を得るためには、100%開示したら良いのですが、そのまま開示して他社に真似されてしまう可能性もあります。実は、情報開示を進める裏側でそのような悩みを人事担当者は抱えています。

ポイントは、働きがいと人的資本情報の測定、それから開示のジレンマですね。資本としての社員の能力や意欲を高めるための投資が成されているとお考えですか。

そうですね。投資自体は十分に進んでいないような気がします。人的資本の価値を測定するサーベイの仕方、あるいは職務満足で測るのか、コミットメントで測るのかという指標そのものの議論は進んでいるのですが、実際にどうやって高めるのかというところ、いわゆる投資に関しては、まだまだ課題が多いと考えています。

02越境学習は組織のクリエイティビティを高める

企業からすると、社員といっても様々な世代階層があったりする中で、どちらかというと若手に目が向きがちですが、管理職やリーダー、シニアであるとか、それぞれに課題、取り組むべきポイントがあるかと思います。厨子先生は、リーダーにとっての越境学習(自分が属する企業や組織を離れ、外部という新たな環境で学習すること)も研究をされてらっしゃるご様子です。どういう経緯で着手されたのか、そこから教えていただけますか。

昨今クリエイティビティをいかに高めるかが、あらゆる組織で強調されています。そうした中で、どうやったら創造性を高められるのかを考えていこうというところで始めた研究です。

その研究を通じて、厨子先生がどのような気づきを得られたのか。越境学習がどんな効果をもたらすという判断をされてらっしゃるのか。その辺りも併せてコメントいただけますか。

私が共同で携わった研究(阪本学・厨子直之[2024]「リーダーの越境学習が組織のクリエイティビティに与える影響に関する実証研究――オーセンティック・リーダーシップの媒介効果に着目して――」『経営行動科学』第 35 巻第 3 号、89-101ページ)では、兼業も副業も含めてですけれども、自社に留まらず、組織の境界を越えて活躍することは、リーダーのオーセンティック・リーダーシップを高め、組織全体の創造性が向上するということが定量的に明らかになりました。オーセンティック・リーダーシップとは、自分の強みや弱みを認識したり、あるいは倫理的・道徳的な視点を持ったり、バランスの取れた情報処理という考え方です。自分の独りよがりでなくて、多様なメンバーの意見を取り入れながら意思決定する。そういったフォロワーとの関係を透明にするようなリーダー行動のことを意味します。

実際に、越境学習には効果があるのでしょうか。

取り組みは、かなり増えて来ていると思います。さらに、本人だけではなくて、所属している組織に対しても効果的な影響があることが多くの研究で導き出されています。

具体的には、どんな取り組みが見られるのですか。

上でご紹介した研究の後、共著者の阪本学氏はどのようなリーダーの越境学習経験がオーセンティック・リーダーシップの向上につながり、組織のクリエイティビティに貢献しているかについて、組織を往還した越境経験を有するリーダーにインタビュー調査を行い、その結果を去年学会で発表しています(「オーセンティック・リーダーシップ発現のメカニズム――越境経験実務リーダーへのインタビューによる一考察――」『経営行動科学学会第27回年次大会発表論文集』)。その中の事例の一つに、自分が所属している企業の業界と全く異なる他社の経営層のメンバーとして参画された方がいます。企業風土も仕事のやり方も全く違う業界で仕事をしたときに、「戸惑いと気づきがありながらも、リーダーとしての自己認識の更新が促された」とインタビューで語っていたというデータがあります。

そのときに、越境先で自分を全然受け入れてもらえず、ミーティングの中ではとにかく多様なメンバーのアイディアや改善策を拾い上げることをされたといいます。「それが重要だ」という気づきを得ています。さらに、その学会発表の中で言われていたのが、上司である資産管理部長が、資産の売却いわゆるキャッシュ化のタイミングをいかに最適化するかという課題を長年に渡り抱えておられたのですけれども、従来は過去の慣習で行き当たりばったりで売却をしていたそうなのです。「それでは良くない」と越境学習された方が元の会社に戻られたときに、入社3年目のメンバーの意見も取り入れながら解決へと導いたというのです。どんな意見かというと、「機械資産ごとに賃貸収入推移と売却査定推移、償却推移を月次試算することによって最適なタイミングが算出できるのではないか」ということでした。それを受け入れた結果、機械賃貸収入の逸失や売却タイミングを逸することによる損失が大幅に改善されたという、そういう改善・工夫が生まれた事例が紹介されました。

まさに、売却のタイミングを組織のメンバーからアイディアを募ることによって、より良い改善策を生み出していったのです。これが、越境学習がリーダー自身の行動を変えて組織のクリエイティビティに繋がったという、一つの事例だと言えます。

リーダー層は職務が多忙なだけに、研修で1日どころか半日現場を離れるだけでも大変です。越境学習となると、もっと期間が長くなるだけに、「何のために行うのか」「それがどういう価値があるのか」、経営者がリーダーにしっかりと説明しないと、周囲も本人も納得しないかもしれませんね。

おっしゃる通りだと思います。特に本人がどう納得できるかということがあると思います。それでも、最近は兼業も副業も概ね当たり前になってきたので、本人たちは受け入れやすくなりつつあるのではないかと思います。

03働き方が多様化する中、人事担当者のストレスが高まる


従業員の方々の価値観が多様化しているということは、働き方も多様化しています。それに対応するためには、人事制度も多様化・複雑化していく流れになっていきますが、人事担当者にどんな影響がもたらされているとお考えですか。

まさに、指標化のところと同じ現象です。確かに、多様性に対処するのは非常に重要なテーマではあるのですが、個別管理がどんどん進むことになるので、人事担当者に負荷が掛かっています。私が2018年に執筆した論文、「人事制度の複雑化が人事担当者のストレスに及ぼす影響――経営陣のリーダーシップによる調整効果の検証――」(『経済理論』391号、97-110ページ)でも、実際に人事制度が複雑化すると人事担当者のストレスが高まるという結果が出ています。良い面だけではなく、複雑化やダイバーシティ、そういうネガティブな問題が出てきたというところにも目を向けないといけないと思います。

人事担当者にストレスが生じるということでいくと、そこをどういうふうに付き合っていけば良いのでしょうか。

最近、戦略人事(経営戦略と連動した人事戦略を策定・実行すること)ということで、「人事担当者が経営者のパートナーにならないといけない」と言われています。そのときに経営者が、このパートナーという言葉に表されている通り、経営戦略の策定プロセスで人事担当者による自主的なアイディアの提案や発言を促すよう人事担当者の主体性を尊重し、人事担当者との信頼関係により配慮した形で経営者とうまく連携していくことが、おそらく少しでも人事担当者のストレスを和らげることに繋がるのではないかと考えています。

HR領域では、キャリア自律(自分のキャリア構築に向けて主体的に取り組んでいる状態)という概念も非常に話題になっています。実際、キャリア自律への意識は高まって来ているとお考えですか。

高まっていると思います。古くは、90年代に一般社団法人日本経済団体連合会(日経連)が「エンプロイアビリティ(雇用される能力)」と言い出しました。2018年には、経済産業省が「キャリアオーナーシップ(個人が社内外の広い選択肢を視野に入れながら、自身がキャリア構築することが必要だという考え方)」、つまりキャリアは自分が所有しているとのマインドセットを浸透させました。ビジネスの現場もそうですし、大学の教育現場でも自律的なキャリアを学生に意識付けることがかなり強調されていて、意識が非常に高まっています。MBAの学生さんと話していても、転職や副業、兼業ももう当たり前なので、キャリア自律は年々高まっているように認識しています。特に最近、若手社員に特徴的なのが、「ゆるい職場」(古屋星斗[2023]『なぜ「若手を育てる」のは今、こんなに難しいのか――〝ゆるい職場〟時代の人材育成の科学――』日本経済新聞出版)現象です。成長実感が湧かない職場(ゆるい職場)から若手社員が離職することが増えているのです。厨子研究室が2024年に行った従業員規模1,000人以上の新卒1~3年目社員を対象とした質問紙調査では、「他企業・他業種と関わる機会が設けられている」、「今後の自分のキャリアに関するアドバイスを貰うことができる」など、若手がキャリアを自分ごとすることを促す支援を行うことで、職場のゆるさへの認知が低減し、ワークエンゲージメントが向上することが判明しています。

大学生もキャリアに対する意識が高まっているのですね。

そうですね。そういう授業もありますし、周りのビジネスパーソンを見ていても転職や副業・兼業する人が増えているので、自分もそういった意識を持ちながら企業を選択していかないといけないという意識は、高まっていると傍から見ていて感じます。


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厨子 直之

和歌山大学 経済学部

経済学科 教授 

2002年関西学院大学 商学部卒。2007年神戸大学大学院経営学研究科博士課程後期課程修了。博士(経営学)。専門は、「ポジティブ組織行動」「人的資源管理」。主な著書に『経験から学ぶ人的資源管理〔第3版〕』(有斐閣、2025年、共著)、『こころの資本――心理的資本とその展開――』(中央経済社、2020年、共訳)などがある。経営行動科学学会副編集委員長。民間企業および大学病院において定量的なデータ分析およびポジティブ心理学に基づく人材育成をテーマとする講演・研修を行う。



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