昨今、日本企業も中長期的な企業価値向上を意図して、人材を資本と捉える経営手法に注目している。人的資本経営に対する関心度の高まりは、まさにその象徴的な流れと言えそうだ。だが、現状においてはその重要な資本をどこまで大切にできているかというと疑問を抱かざるを得ない。ワーク・ライフ・バランスにしても、ジェンダー平等にしても他の先進国と比べて大きく遅れを取っている。何をどう着手していけば良いのか。その分野の第一人者である同志社大学政策学部政策学科 教授の川口 章氏に、アドバイスを求めました。前編では、人的資本の情報開示がもたらす意義やこれからの人事制度の在り方などについて語っていただきました。

01人的資本の重要度が
年々増している

日本においては、人的資本経営がバズワード化しつつあります。この状況をどう捉えておられますか。

多くの方々は人的資本経営という言葉を新聞などでご覧になられていると思います。ただ、私自身は特に流行っているというイメージは持っていませんでした。と言いますのは、人的資本は結構古い言葉でして、経済学では1950年代・60年代にこの概念が確立されていました。かつては、資本というと機械や土地、建物などを指しました。それらにお金をつぎ込むことを投資といいますが、人にお金をつぎ込むのも一種の投資だと言い出したのが、米国の経済学者であるジェイコブ・ミンサーやセオドア・シュルツ、ゲーリー・ベッカーなどです。特にベッカーは、文字通り『ヒューマンキャピタル』というタイトルの本を出版しました。これが世界中で売れ、日本でも訳されて『人的資本』というタイトルで1976年に東洋経済新報社から出版されています。

なので、もう経済学では普通に人的資本という言葉が使われていたのです。特に私は、労働経済学が専門でしたから、普通の言葉でした。だから、近年急に人的資本経営という言葉が出て来ても、それほど驚きもしませんでした。むしろ、あまりにも当たり前すぎて気づかなかったと言っても良いほどでした。

本当に新しい言葉なのかなと、日本経済新聞の記事に人的資本経営という言葉がどれぐらい出てくるのかを調べてみました。その結果を見ると、2021年以前は1件もありませんでした。それが2022年に32件、2023に63件。2024年に入ってからは、1カ月半で9件もありました。このペースでいくと、今年も昨年と同じぐらいになるのではと推測しています。ですから、ここ二、三年の言葉なのです。

どうして使われ出したのかと考えてみると、幾つかの要因が挙げられます。一つは有価証券報告書において、人的資本に関する報告が義務付けされたことがあります。特に上場企業にとっては、そうした情報開示をもっとしないといけなくなったことが大きいと思います。それから、2018年にISO(International Organization for Standardization:国際標準化機構)の基準の一つとして人的資本情報開示のガイドラインが定められたことも大きな要因となりました。いわゆる、ISO30414(アイエスオーサンゼロヨンイチヨン)です。また、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資の中でも人的資本が重視されているということで、投資の面からもかなり人的資本経営が注目され始めたということが非常に大きいと思います。

それらに加えて、政府も経済産業省や金融庁が人的資本経営のコンソーシアムを支援するという動きもあって、企業からすると投資家対策の一環として重視されるようになって来ています。かつては、どちらかというと金融資産やポートフォリオの問題、いわゆる財務関係の指標を重視していたのですが、人的資本の重要度が年々増してきたところに人的資本経営という言葉ができて、非常にうまくマッチし流行り出した。そんな印象を持っています。

これについて、私自身は非常に良いことだと思っています。元々労働経済を専門としていて、今は人的資源管理の授業を担当していますので、人材は企業の資産・資本として非常に重要な位置を占めるものだという想いが強いからです。そこを重視する企業、言い換えると働きやすい企業を投資家が評価してくれる、人を大切にする企業が発展する土壌ができつつあるということで、私も高く評価しています。そんな良い方向に社会が向かっているという印象を持っています。

日本では、「ものづくりは人づくり」という言葉が良く聞かれました。果たして人づくりができていたのでしょうか。

一般論で言いますと、日本的経営と言われているシステムができたのは、1950年代後半から70年代前半にかけての高度経済成長期です。その後、バブル期ぐらいまでは上手く機能していたものの、段々と変わってきました。日本経済が上手くいかなくなったのもその日本的な経営システムが時代に合わなくなってきたからではないかという議論がされています。

その人づくりと日本的経営の関連で言いますと、日本的経営は新卒者を採用して、終身雇用を前提として企業内で人材を育成するという経営スタイルです。海外の企業と比べると、企業内で人材を育成することに非常に力を入れて来た歴史があると思います。ヨーロッパにしても米国にしても、即戦力を採用するのが一般的ですので、学生時代にインターンシップをしたり、実際に働いたりして戦力になれるという証明ができないと、なかなか企業が雇ってくれません。

それと比べると、日本の場合は企業が独自で人材育成をする傾向が強かったです。特に、大企業では顕著でした。今でも、正社員に関してはそういうところがかなり強く残っています。例えば、大学生はほとんど仕事をしたことがありません。アルバイトぐらいです。インターンシップに行っても1日とか、長くても1週間程度。そういう状況で、大企業が新卒者をどんどん雇うというのは、海外ではなかなかないことです。正社員については企業が独自の人材を養成するスタンスが、今でも続いているというのが私の認識です。

02現状の情報開示は、
投資家に対する
色合いが強い

2023年度から上場企業では人的資本の情報開示が義務化されました。初年度の開示状況をどう分析されますか。

実は、私は有価証券報告書をこれまで読んだことがありませんでした。今回のインタビューをきっかけに読んでみたのですが勉強になりました。それと同時に、「これほど読みにくいものなのか」という驚きもありました。確かに情報開示をしているのですが、それを探すのが結構大変でした。もっとわかりやすく情報開示してほしいというのが第一印象でしたね。

私が知る限りでは、最初に人的資本に関連する情報開示を企業に要求した法律は、2003年7月に施行された次世代育成支援対策推進法(次世代法)でした。くるみんマークをご存知の方が多いと思いますが、子育て支援をしている会社で一定の条件を満たすと、このマークを使うことができるようになっています。例えば、名刺や商品、さらには求人票などに印刷できます。くるみん認定は2007年からスタートしています。くるみんは、子育て支援やワーク・ライフ・バランスに関連する項目を積極的に発信していこうという取り組みの始まりであったと言って良いでしょう。

その後、2015年に安倍内閣の女性活躍政策の一環として、女性活躍推進法という法律が成立しました。ここでは、幾つかの項目の中から1項目を選んで、女性活躍に関する項目を公表しないといけないと義務付けています。対象は301人以上の企業です。さらにこの法律は2022年に改正されました。以来、男女の賃金の差異、すなわち男性を100として女性がいくらなのかを公表することが義務化されています。なので、今回の有価証券報告書での開示に先立って、男女の賃金格差については公表が義務化されていたわけです。そうした歴史があって、今回の有価証券報告書での情報開示があるのだと思います。

ただ、今回の場合は投資家に対するサービスといいますか、投資家に対して情報提供するという意味合いが強いと思っています。これまでの次世代法や女性活躍推進法は、どちらかと言えば、労働者に対する情報提供という意味合いが強かったと思います。今回は投資家に対する情報開示がメインなので、かなり意味合いが違ってきます。

それを踏まえて、初年度の情報開示の状況を見てみますと「もっと多くの項目を公表してほしかった」という気がしてなりません。色々な情報を開示していると思っていたものの、共通して情報開示しているのが、管理職に占める女性の割合と男性労働者の育児休業取得率、それから男女の賃金の差異でした。この三つは、ほとんどの企業が公表していまいました。実際、今回公益財団法人・日本生産性本部「人的資本経営の測定・開示ワーキンググループ」が取りまとめた「有価証券報告書における人的資本開示状況」を見ても、かなり多くの企業が義務化されたことを機に報告したことがわかります。

ただ、「どうしてこの三つだけなのか」が疑問です。労働を専門とする研究者からすると、残業時間や有給休暇取得率なども必要なのではないかと思ってしまいました。

0316年を掛けて日本が
ようやく追いついてきた

今後、人的資本の情報開示は企業にどのような影響をもたらしていくのでしょうか。

たとえ、三つにしても、すべての上場企業が全部開示しなければならないとなると結構変わると思います。私が期待しているのは、さらに年々増やしていくとか、何年かしたらもう少し増やすとかして、もっと開示することですね。実は、この人的資本の情報開示は、私が2008年に執筆した『ジェンダー経済格差:なぜ格差が生まれるのか、克服の手がかりはどこにあるのか』(勁草書房)という本の最後の数ページで、非常に強調した点です。そこでは、ワーク・ライフ・バランスに関連する育児休業取得率や有給休暇取得率などの情報開示を義務化すべきだということを強く主張しました。

その理由は、まずこの政策は働きやすい企業がより有利になる政策だからです。情報開示をすると、求職者は働きやすい企業を選んで、エントリーシートを出し、面接を受けることになります。なので、良い人材が働きやすい企業に集まり、働きやすい企業がどんどん発展していくという、市場の競争メカニズムが働きます。市場メカニズムをより上手く機能させるためには、情報を隠していてはいけないのです。だから、市場メカニズムを利用して、働きやすい企業が発展するように情報開示を義務化しようというのが一つの理由です。

もう一つの理由は、お金がほとんどかからない政策だということです。例えば、保育園を作るとなると、自治体には億単位のお金が掛かります。企業が自社内で保育所を作る場合も、同じくお金が掛かります。それと比べると、情報開示は非常に安いものです。政府にとっては情報を開示するためのホームページさえ作っておけば良いのです。税金をほとんど使わないで済みますし、働きやすい企業が発展する政策といえるので提案しました。今から16年も前の話です。

そういう意味では、川口先生の提案は、時代を大きく先取りしていたということですね。今ようやく日本がそこに追いついてきたわけですか。

そうですね。もう少し色々な情報を開示してほしいのですがね。それでも、始まりとしては、非常に良いのではないかと思います。

04日本もヨーロッパ諸国並み
に労働時間を短縮すべき

企業組織の中で従業員が効率良く働くために、どのような人事制度が求められるのでしょうか。

一番大事なのは、労働時間の短縮だと思います。日本は他の先進国と比べて、かなり長時間労働だと言えます。日本とあまり変わらないのは米国と韓国ぐらいです。それ以外、特にヨーロッパは労働時間が非常に短くて働きやすいです。しかも、それが生産性の向上に繋がっています。なので、企業が率先して労働時間を短縮していますし、政府も労働時間を規制しています。ヨーロッパは、残業時間を入れても週48時間が上限です。日本も、それぐらい厳しい規制をしないといけないのではないかという気がします。

例えば、ドイツでは残業をすると収入が増えるのではなく、別の日に休む「労働時間口座」制度が広く普及しています。総労働量を変えない方向で調整しているのです。そこまで努力しています。

実は以前、ノルウェーで働く人にインタビューをしたことがあります。そのなかに、日本人の方がいらしたので聞いてみたら、「この会社では残業をすると上司に怒られてしまう」と言っていました。それで、その人は日曜日に休日出勤をして仕事をしたというのです。それも見つかって余計に怒られてしまったそうです。結局その人は、数年後に会社を辞めたのですが、やはりヨーロッパ、特に北欧では決められた時間で仕事ができない人は評価されないようです。そういう評価の仕方になっています。

日本の企業も、残業しない人を高く評価するよう評価の仕方を変更して、人件費を減らす努力をすべきです。健康にも良いですから。とにかく、日本は働きすぎです。職場にもよると思いますが、夜の8時、9時は珍しくなかったりします。最近はホワイトな会社も増えているとは言え、正社員であれば2、3時間は残業して当たり前という会社がまだ多いのではないでしょうか。それでは夫婦が正社員として働きながら子育てをするのは、無理です。

実は、韓国も長時間労働の国です。日本以上です。それなのに、韓国は最近日本よりも女性の管理職が多くなっています。事実、世界経済フォーラムが毎年発表している「ジェンダーギャップ指数」(世界各国の男女平等の度合いを数値化したランキング)では、数年前に日本は韓国に追い越されました。今では、どんどん離されています。ちなみに、2023年ジェンダー平等ランキングは、日本が146カ国のうち125位、韓国は105位です。主要先進国(G7)のなかで日本は最下位です。

一方、韓国は女性活躍に力を入れていますが、相変わらず労働時間が非常に長いです。その結果、何が起こったかというと、女性は仕事を優先してしまい、結婚しなくなったり、結婚をしても子供を産まなかったりしています。そのために、2023年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子供の数の推定値)は0.72で過去最低でしたし、OECD加盟国の中でも最下位でした。ちなみに、日本の合計特殊出生率は2022年で1.26です。これが、過去最低であったと騒がれていますが、韓国は1を下回っているのですからより深刻です。女性が活躍するようになっているものの、仕事と子育てとの両立ができないので「子供は産まない」という人が増えているというわけです。労働時間の短縮は、少子化対策としても重要だと言えます。



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川口 章

同志社大学

政策学部政策学科 教授

1958年香川県生まれ。1982年京都大学経済学部卒業。1984年京都大学大学院経済学研究科修士課程修了。1991年オーストラリア国立大学Ph.D.(経済学)。メルボルン大学経済商学部講師、追手門学院大学経済学部教授などを経て、2004年より同志社大学政策学部教授。ジェンダー経済格差を生み出す社会構造の分析について研究している。主な著書に『ジェンダー経済格差』(勁草書房)、『日本のジェンダーを考える』(有斐閣)。

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