コーポレートガバナンス・コードが打ち出す「人的資本」の目的は、事業ポートフォリオの組み替えです。一橋大学の円谷昭一教授は、各事業に張り付いた従業員のスキルを見える化して動かしやすくすることで、その土台にある事業を組み替えやすくするのが狙いだと語ります。
日本企業の最大の問題点は、事業ポートフォリオの組み替えが進まないこと――そう指摘するのが、金融庁の「スチュワードシップ・コード及びコーポレートガバナンス・コードのフォローアップ会議」の委員を務める円谷教授です。円谷教授は、「人的資本は人事の問題でも開示の問題でもない。あくまでも経営の問題である」と強調します。
本記事では、円谷教授へのインタビュー(発言はすべて円谷教授の私見であり、金融庁やフォローアップ会議の公式見解ではありません)をもとに、コーポレートガバナンス・コードにおける人的資本の位置づけ、人的資本マネジメントで実践すべき4つのこと、変革を阻む「心理の粘着性」、そして経営者が開示で意思を示す意味について解説します。
この記事でわかること
・コーポレートガバナンス・コードの「人的資本」と人材版伊藤レポートの違い
・人的資本は「主」ではなく「従」――目的は事業ポートフォリオの組み替え
・人的資本マネジメントで実践すべき4つのこと(カレントスキルとフューチャースキル)
・変革を阻む最大の壁「心理の粘着性」
・経営者が開示を通じて意思を示す意味
取材協力:円谷 昭一(つむらや しょういち)氏
一橋大学大学院 経営管理研究科 教授(取材時)。2001年一橋大学商学部卒業。2006年一橋大学大学院商学研究科博士後期課程修了、博士(商学)。埼玉大学経済学部専任講師・准教授を経て、2011年より一橋大学商学部、2021年より同大学院経営管理研究科教授。2007年より日本IR協議会客員研究員。2020年より金融庁「スチュワードシップ・コード及びコーポレートガバナンス・コードのフォローアップ会議」委員。専門は財務会計、ディスクロージャー、コーポレートガバナンス。著書に『政策保有株式の実証分析:失われる株式持合いの経済的効果』(日本経済新聞出版)、『コーポレート・ガバナンス「本当にそうなのか?」2―大量データからみる真実―』(同文舘出版)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
コーポレートガバナンス・コードの「人的資本」とは
コーポレートガバナンス・コードとは、上場企業に求められる企業統治(コーポレートガバナンス)の指針となる原則です。日本では2015年に制定され、3年に1回の改訂を基本として、2018年と2021年に改訂されました。2021年の改訂で、企業の持続的な成長を促すため、「人的資本」に関する項目が初めて盛り込まれました。経済産業省の「人材版伊藤レポート」の公表(2020年)と相前後するタイミングです。
人材版伊藤レポートとの違い
円谷教授は、同じ「人的資本」でも、両者の目的は異なると見ています。
| 人材版伊藤レポート(経済産業省) | コーポレートガバナンス・コード(金融庁・東京証券取引所) | |
|---|---|---|
| 主な目的(円谷教授の見方) | 人材の価値をいかに高めるか | 事業ポートフォリオの見直し・組み替え |
| 人的資本の位置づけ | 主役 | 事業ポートフォリオの組み替えのための「従」 |
出典:円谷教授への取材をもとに編集部作成(円谷教授の私見)
目的は事業ポートフォリオの組み替え
2021年の改訂版コーポレートガバナンス・コードでは、3つの項目に人的資本という言葉が盛り込まれました。狙いは、日本企業に事業ポートフォリオを組み替えてもらうことです。多角化して不採算事業を抱える会社が、その事業をより活躍できる企業に渡し、自社の強みのある分野は他社から事業を譲り受けて強化する。そうしたポートフォリオの再編で利益率を高めることが目的です。
2015年のコード策定時から再編は目指されていましたが、なかなか進みませんでした。各事業に従業員が張り付いて既得権益化し、動かせなかったからです。そこで、事業に張り付いた従業員のスキルを見える化し、浮かせてあげれば、その土台である事業を動かしやすくなる――そうした発想で人的資本という言葉が盛り込まれたのではないか、と円谷教授は考えています。
「あくまでも、人的資本は主ではなくて従です。目的は事業ポートフォリオの組み替えになるわけです。」
――円谷教授
人的資本マネジメントで実践すべき4つのこと
円谷教授は、ある会社がA事業とB事業を営んでいる例で説明します。n年後にA事業を縮小し、B事業を拡大し、新たにC事業に進出するとします。C事業で必要な価値を生み出すには、A・B事業の人材を再配置するか、リスキリングするか、外部から迎えなければなりません。これが、事業ポートフォリオの組み替えを目的とした人的資本マネジメントです。そのために実践すべきことは、次の4つに集約されます。
| ステップ | 内容 |
|---|---|
| ① カレントスキルの見える化 | 今手がけている事業で、自社が持つすべてのスキル(現在のスキル)を見える化する |
| ② フューチャースキルの明確化 | 将来の事業に必要なスキル(将来のスキル)を明確にする |
| ③ スキルの獲得(適材適所) | 足りないスキルを新たに身につける |
| ④ ポスト(ジョブ)とのマッチング(適所適材) | スキルを持つ人とポストを結びつける |
出典:円谷教授への取材をもとに編集部作成
リスキリング=フューチャースキル-カレントスキル
円谷教授によると、リスキリングは「フューチャースキル」から「カレントスキル」を引き算すればよいという単純な式で考えられます。ないものを身につけてもらう、ということです。リスキリングはよく「学び直し」と訳されますが、それでは今まで学んだことが駄目だという印象を与えてしまいます。そこで円谷教授は、「スキルや知識の追加取得」という訳を使っています。
事例:荏原製作所の「技術元素表」
円谷教授が副審査委員長を務めた「第3回日経統合報告書アワード」で優秀賞を受賞した荏原製作所の統合報告書2023には、「技術戦略と技術元素表」という特集があります。5つのカンパニーで必要となる64の技術を、元素記号のように、カンパニー固有のコア技術、複数カンパニーの共通技術、全社の横断技術に分けてマップ化したものです。
技術人材マップと技術元素表をつくることで、従業員がどんな技能や技術を持っているかがわかります。さらに「あなたにはこういう能力を期待している」ことも見える化でき、「このスキルはこの事業で必要なので移ってほしい」と促すこともできるのです。
カレントスキルとフューチャースキルを見える化し、ポストとマッチングするには、それを支える仕組みが欠かせません。
スキルとポストを見える化し、人を動かしやすくする
事業ポートフォリオの組み替えに向けて人を動かすには、社員のスキルや役割、ポストに求める要件を見える化し、マッチングできる仕組みが必要です。DEFiDEの「JOB Scope」は、人事コンサルティングと人事クラウドの2軸で、経営に直結する戦略人事の制度設計から組織への定着までを支援する人事制度改革プラットフォームです。
変革を阻む最大の壁は「心理の粘着性」
事業ポートフォリオの組み替えというと、すぐに不採算部門の売却を思い浮かべる人がいますが、そうではないと円谷教授は言います。例えば自動車業界がエンジンからモーターに転換するとき、最大の問題は、今エンジンに関わっている技術者をどうするかです。再配置するには、その技術者が持つカレントスキルを可視化しなければなりません。今の仕事で使っていなくても、「趣味でプログラミングをしている」「実は中国語が話せる」といったスキルまで見える化するのが理想です。
一橋大学名誉教授の伊丹敬之氏は、変革を阻む理由は既得権益、資源の固定性、心理の粘着性の3つに集約できると指摘しています。中でも最大の問題が、「昨日と変わらない今日を過ごしたい」「今日と変わらない明日を過ごしたい」という心理の粘着性です。
| 変革を阻む理由(伊丹敬之氏) | 内容 |
|---|---|
| 既得権益 | 事業に張り付いた人や組織の利害 |
| 資源の固定性 | 人や設備などの経営資源が特定の事業に固定されている |
| 心理の粘着性 | 昨日と変わらない今日、今日と変わらない明日を過ごしたいという思い。最大の阻害要因 |
出典:円谷教授への取材をもとに編集部作成
だからこそ、スキルを明確にして「あなたにはこういう能力があるから、この事業でも活躍できる」と伝えることが大切です。そうすれば「新しいことをやってみよう」という気持ちが生まれ、その人がいる土台の事業も動かしやすくなるのです。
開示を通じて、経営者の意思を示す
円谷教授は、ポートフォリオ戦略と人材戦略は、連動させるというより合致せざるを得ないものだと言います。ポートフォリオの組み替え戦略が上にあり、それを行うために、その下にいる人を動かすことが必然的に求められるからです。今も多くの大企業では、不採算事業に資源が投下され、人が配置されています。組み替えを行えば、必然的に「ここにいる人をどこに移すのか」という議論になるのです。
一方で、組み替えを考えず「人的資本はやろう」という会社は、働き方やダイバーシティの議論として人的資本を捉えていると円谷教授は言います。どちらがよい悪いではありませんが、両者は捉え方が違うのです。
事例:レゾナックとSWCC
円谷教授が積極的な開示の例として挙げるのが、レゾナック(旧昭和電工)の髙橋秀仁社長です。統合報告書「RESONAC REPORT 2023」で、ポートフォリオ戦略と人材戦略の合致、CEOとCHROが完全に足並みをそろえていること、10年後の姿を明確にイメージできていることを語っています。役員のスキルマトリックスにも、ポートフォリオ経営の実現に向けて役員がどんなスキルを持つべきかを示しています。経営陣がまず率先して変わるということです。
もう一つの例が、SWCC(2023年に昭和電線ホールディングスから社名変更)の長谷川隆代社長です。事業を組み替え、従業員を入れ替え、製造設備を撤去して新しい製品の製造に次々と着手しています。同僚が別の現場に異動する様子を目の当たりにすることで、「この社長は本気だ」というトップの意思が現場に明確に伝わるのです。
「情報開示とは勇気と決断です」
――円谷教授
開示とは、こうした経営者の意思を見せることでもあります。ただし、事業ポートフォリオの組み替えは1年や2年でできる話ではありません。主な対象は、多角化のデメリットが生じている大企業です。それでも、これをやらなければ組み替えは進まないと円谷教授は語ります。
よくある質問(FAQ)
Q. コーポレートガバナンス・コードの「人的資本」の目的は何ですか?
A. 円谷教授は、事業ポートフォリオの組み替えが目的だと考えています。各事業に張り付いた従業員のスキルを見える化して動かしやすくすることで、その土台にある事業を組み替えやすくするのが狙いであり、人的資本は「主」ではなく「従」だとしています(発言は円谷教授の私見)。
Q. 人的資本マネジメントで実践すべきことは何ですか?
A. 円谷教授は、①今あるスキル(カレントスキル)の見える化、②将来必要なスキル(フューチャースキル)の明確化、③足りないスキルの獲得(適材適所)、④ポスト(ジョブ)とのマッチング(適所適材)の4つに集約されるとしています。
Q. リスキリングとは何をすることですか?
A. 円谷教授は、リスキリングはフューチャースキルからカレントスキルを引き算し、足りないものを身につけてもらうことだとしています。「学び直し」という訳は今までの学びが駄目だという印象を与えるため、「スキルや知識の追加取得」という訳を使っています。
Q. 事業ポートフォリオの組み替えを阻む要因は何ですか?
A. 円谷教授は、伊丹敬之氏が挙げる既得権益、資源の固定性、心理の粘着性の3つのうち、「昨日と変わらない今日を過ごしたい」という心理の粘着性が最大の問題だとしています。スキルを明確にし、新しい事業でも活躍できると伝えることが、人を動かす鍵になります。
Q. 人材版伊藤レポートとコーポレートガバナンス・コードの人的資本は同じですか?
A. 円谷教授は、人材版伊藤レポートの目的は人材の価値をいかに高めるかにあるのに対し、コーポレートガバナンス・コードは事業ポートフォリオの見直しという目的のために人的資本のマネジメントを提唱していると見ており、目的が異なるとしています。
まとめ:人的資本は、事業ポートフォリオを動かすための経営課題
- コーポレートガバナンス・コードの人的資本は、事業ポートフォリオの組み替えのための「従」。人事や開示ではなく経営の問題
- 実践すべきは、カレントスキルの見える化、フューチャースキルの明確化、スキルの獲得、ポストとのマッチングの4つ
- リスキリングは「フューチャースキル-カレントスキル」。学び直しではなく「スキルや知識の追加取得」
- 変革の最大の壁は「心理の粘着性」。スキルを示し、新しい事業でも活躍できると伝える
- ポートフォリオ戦略と人材戦略は合致せざるを得ない。経営者は開示を通じて勇気と決断を示す
後編では、新卒採用で起きている3つの異変と若者の「微分の発想」、課題を隠さず開示する意味、各国で異なる人的資本の開示、統合報告書のあり方、そしてシンガポールに学ぶ社会全体のリスキリングについて解説します。
事業ポートフォリオに合わせた人材戦略を、プロと一緒に
事業の組み替えに合わせて人を動かすには、スキルや役割の定義から評価・育成・配置までを一貫して設計し直す必要があります。DEFiDEの「JOB Scope」は、人事コンサルティングと人事クラウドの2軸で、経営に直結する戦略人事の制度設計から組織への定着までを支援します。
▶ 後編:統合報告書で何を伝えるべきか?「勇気と決断」の人的資本開示と、「微分の発想」で就職先を選ぶ若者(内部リンク)
▶ インタビュー全文:人的資本マネジメントの目的は、事業ポートフォリオの再構築にある(前編)(JOB Scopeマガジン)