情報開示とは「勇気と決断」であり、法律で求められているからするものではありません。一橋大学の円谷昭一教授は、自社にとって不都合な課題も隠さずに示し、何が重要な指標なのかを自分たちで考えて伝えることが、統合報告書や人的資本開示の本質だと語ります。
前編では、コーポレートガバナンス・コードの「人的資本」の目的が事業ポートフォリオの組み替えにあることを紹介しました。後編では、研究者としてだけでなく、教育者として学生と向き合う円谷教授の視点も交えながら、開示と人材確保の課題を考えます(発言はすべて円谷教授の私見です)。
本記事では、円谷教授へのインタビューをもとに、新卒採用で起きている3つの異変と人口減少、若者の「微分の発想」、課題を隠さず開示する意味、各国で異なる人的資本の開示、法定開示と任意開示のはざまで苦しむ開示の現場、統合報告書のあり方、そして社会全体でリスキリングに取り組む必要性について解説します。
この記事でわかること
・新卒採用で起きている3つの異変と、人口減少の現実
・人事は「積分の発想」、学生は「微分の発想」
・課題を隠さず開示する意味と、「活躍」の定義
・国によって異なる人的資本開示と、法定開示・任意開示の課題
・統合報告書のあり方と、シンガポールに学ぶ社会全体のリスキリング
取材協力:円谷 昭一(つむらや しょういち)氏
一橋大学大学院 経営管理研究科 教授(取材時)。2001年一橋大学商学部卒業。2006年一橋大学大学院商学研究科博士後期課程修了、博士(商学)。埼玉大学経済学部専任講師・准教授を経て、2011年より一橋大学商学部、2021年より同大学院経営管理研究科教授。2007年より日本IR協議会客員研究員。2020年より金融庁「スチュワードシップ・コード及びコーポレートガバナンス・コードのフォローアップ会議」委員。専門は財務会計、ディスクロージャー、コーポレートガバナンス。著書に『政策保有株式の実証分析:失われる株式持合いの経済的効果』(日本経済新聞出版)、『コーポレート・ガバナンス「本当にそうなのか?」2―大量データからみる真実―』(同文舘出版)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
新卒採用で起きている3つの異変と人口減少
円谷教授のもとには、多くの企業から新卒採用に関する相談が寄せられています。企業が口をそろえるのは、次の3つの数字が悪化しているということです。
- 応募者数が激減している
- 内々定の辞退率が大きく上昇している
- 入社後すぐに辞める人の割合が上がっている
背景には人口減少があります。取材時点の大学4年生が生まれた2003年の出生数は約112万人でしたが、2025年の出生数は67万1,270人と、10年連続で過去最少を更新しています。
| 年 | 出生数 |
|---|---|
| 2003年(取材時点の大学4年生が生まれた年) | 約112万人 |
| 2025年 | 67万1,270人(過去最少) |
出典:厚生労働省「人口動態統計」(2025年は確定数、2026年9月公表)
円谷教授は、出生数の減少が続けば、日本の人口は数十年後に今の半分近くになりうると指摘します。それは国内の売上が半減しうるということです。その中で本当に生き残れるかを経営陣は考えているのか――円谷教授はそう問いかけます。
人事は「積分の発想」、学生は「微分の発想」
一橋大学商学部の卒業生の就職先を見ると、コンサルティング会社と資産運用会社が上位を占め、数年前まで上位だった大手金融機関はトップ10から外れているといいます。学生の意識は大きく変わっています。
| 積分の発想(従来の人事) | 微分の発想(今の学生) | |
|---|---|---|
| 重視すること | 新卒入社から定年退職までの全期間で、従業員の幸せの「面積」を最大化する | 20代のうちに、どれだけスキルを高められるかという成長の「傾き」 |
| 典型的な人の使い方 | 「最初の3年は地方の支店」など、長期で育てる | 配属リスクが少なく、早く成長できる環境を選ぶ |
出典:円谷教授への取材をもとに編集部作成
学生が最も重視しているのは、配属リスクが少ないことです。いわゆる「配属ガチャ」を強く気にしており、事前の説明なく「最初の3年はこの工場で」と決められることを大きなリスクだと感じています。一方で、最も気にしないのはワーク・ライフ・バランスで、20代のうちは思い切り仕事をしたいという学生も少なくないといいます。「今までそうだったから」はもう通用しないと円谷教授は語ります(学生の就職先選択の変化は、亀野淳教授の解説記事でも紹介しています)。
課題を隠さず、あえて開示して解決を図る
円谷教授は、ある大手食品メーカーの統合報告書2023を例に挙げます。多くの企業が「女性活躍」を掲げて女性管理職比率を開示していますが、「女性活躍の定義は何か」を考えている会社は意外と少ないといいます。管理職比率は法定開示の項目なので開示しているだけ、ということもあります。
女性が管理職になることは女性活躍の一部ですが、それだけではありません。管理職に男性が多いからといって、男性が活躍しているとは言えないのと同じです。この食品メーカーは、中核人材の多様性を打ち出し、2050年の目標として男女が「ともに」活躍することを掲げています。「活躍」の定義の曖昧さを理解しているからです。
35歳を境に二極化するエンゲージメント
同社は従業員エンゲージメントのスコアも開示しています。それを見ると、35歳以下と36歳以上で仕事への満足度がまったく違い、若い層ほど低く二極化していることがわかります。円谷教授が多くの会社に尋ねると、年齢の区切り方に違いはあっても、ほぼ同じ傾向が見られるといいます。放置すれば、優秀な人から抜けていくリスクがあります。
それでもこの会社は数字をオープンにしています。「これは現実なので仕方がない。問題はこれをどう変えるかであり、それが我々の課題だから開示する」と話していたそうです。教育者の目線で見ると、こうした姿勢が今後の開示のポイントになると円谷教授は語ります。
年代によって異なる社員の意識を把握することが、課題を見つけ、解決につなげる出発点になります。
年代ごとのエンゲージメントの差を、データで把握する
若手と中堅以上で仕事への満足度が二極化していないか。その実態を把握することが、優秀な人材の流出を防ぐ第一歩です。DEFiDEの「生成AIワークバリュー・スコア分析」は、生成AIで従業員の属性や組織の特性に合わせた質問を作成し、組織の状態を迅速にきめ細かく可視化します。
人的資本開示は国によって違う――自社にとって重要な指標を
何を開示すべきかは、各社各様、さらには各国各様だと円谷教授は言います。
| 国・地域 | 特徴的な開示 |
|---|---|
| 米国 | ペイ・エクイティ(賃金の公平性。円谷教授は「同一労働同一賃金」と説明)の達成状況を開示し、グローバルでの達成目標を示す企業がある |
| 中国 | 採用担当者の人件費、退職金の拠出額、ストックオプション、研修費、給与・賞与、福利厚生など、人にかけた費用をすべて可視化する(法令で開示が求められているとされる) |
| 欧米 | 従業員エンゲージメントのスコアを他社と比較し、どれだけ優れているかを開示する企業もある |
出典:円谷教授への取材をもとに編集部作成
日本企業に「同一労働同一賃金の達成率は何%か」「人にかける費用の総額はいくらか」と聞いても、答えられない会社が多いだろうと円谷教授は言います。そもそも日本にはそうした会計の仕組みがないからです。各社が知恵を絞り、自社にとって重要な指標を開示してほしい――ただしそのためには、「活躍」の定義や10年後の事業ポートフォリオをどうするかを先に検討しておく必要があります。それは人事担当者ではなく、経営陣の話です(自社の独自指標を考える意義は、庭本佳子准教授の解説記事でも紹介しています)。
情報開示は「勇気と決断」――法定開示と任意開示のはざまで
日本では、有価証券報告書などで、法令に従って誤りなくフォーマットどおりに書くことが重要とされてきました。その意識が残る中で、「法令で求められないことは書く必要がない」「自社にとってよくない情報は出す必要がない」と考える会社がほとんどだと円谷教授は言います。だからこそ、不都合な情報でも出していくことが「勇気と決断」なのです。
一方、欧米企業は形式に流し込む開示を基本的にはせず、自社に何が必要な開示かを考える姿勢で取り組んでいます。日本では、女性活躍を開示しようとすると自動的に女性管理職比率になり、男性の育休取得率もそのまま出せば終わり、と考える会社も見られます。ただし、それは当局が求めてきた歴史によるもので、日本固有の開示制度の影響を考えると、日本企業だけを責めるのは酷だと円谷教授は言います。
「監督に従え」と「自分で判断しろ」を同時に求められる現場
有価証券報告書でサステナビリティ情報の開示が義務化され、開示の現場は限界に近づいていると円谷教授は指摘します。
| 法定開示(形式開示) | サステナビリティ開示 | |
|---|---|---|
| 求められること | 形式に則って誤りなく書く | 自分で考え、自分の言葉で書く |
| 頭の使い方 | 決められた型に従う | 自ら判断する |
出典:円谷教授への取材をもとに編集部作成
違う頭の回路が必要な2つの開示を同時に求められ、量も倍増しています。スポーツにたとえれば、「監督に従え」と言いながら「自分で判断しろ」とも言うようなものです。その結果、「とりあえず求められたことを作文しておけばよい」という開示が増えていると円谷教授は言います。国として、作らなければならない開示資料のスクラップ・アンド・ビルドが必要だというのが円谷教授の考えです。
統合報告書で何を伝えるのか――「集合報告書」になっていないか
統合報告書とは、財務情報と非財務情報を統合し、企業がどのように長期的な価値を生み出すかを伝える報告書です。円谷教授によると、日本では上場企業約4,000社のうち1,000社近くが統合報告書を作成しているとされ、これほど多い国は世界で日本だけだといいます。NYダウを構成する米国のトップ30社でも、統合報告書を作っているのは数社程度です。
| 欧米の統合報告書 | 多くの日本の統合報告書 | |
|---|---|---|
| 作る理由 | 既存の開示資料では書けない重要な情報を伝えるため | 「他社が作っているから」 |
| 中身 | 伝えたいメッセージが明確 | 散らばった情報を一つにまとめた「集合報告書」になりがち |
| メッセージ力 | 強い | 弱い |
出典:円谷教授への取材をもとに編集部作成
経営者のメンタリティは「最初にはなりたくないが、最後にもなりたくない」。そこで「予算をつけるから統合報告書を作れ」と指示し、開示部門は支援会社の企画に微修正を加える――結局、会社として何を伝えたいのかが見えない「負のサイクル」に陥っていると円谷教授は言います。
一方で、統合報告書の意義に気づき、「これを伝えたい」という思いがある会社の報告書は精度が非常に高く、日経統合報告書アワードの2次審査に残る上位50社ほどは進化が目覚ましいといいます。就職活動で統合報告書を読む学生も増えており、円谷教授のゼミでは「学生による統合報告書感想プロジェクト」として、学生が企業の統合報告書を読んだ感想を発表しています。
社会全体でリスキリングの枠組みを――シンガポールの「スキルズフューチャー」
円谷教授は、リスキリングは一企業の枠を超えて、社会全体で枠組みを構築すべきだと考えています。例えばエンジン技術者の再配置は、一つの自動車メーカーだけの問題ではなく、業界共通の課題です。1社ずつ取り組むのは非効率であり、国がまとめて取り組んだほうがよいというのです。
その参考になるのが、シンガポールの国民向け生涯職業能力開発プログラム「スキルズフューチャー(SkillsFuture)」です。
| 特徴 | 内容 |
|---|---|
| スキルの見える化 | スキルの汎用性、将来の需要、求人数を国が見える化している |
| キャリアとの接続 | ある職業に就くために必要なスキル、その習得場所、費用がわかる |
| スキルズフューチャー・クレジット | 国民に一定額のクレジットが支給され、スキル習得に使える(円谷教授によると25歳と40歳で支給) |
出典:円谷教授への取材をもとに編集部作成。制度の詳細は変更される場合があるため、最新情報の確認が必要
リスキリングの分野によっては、一社が単独で取り組むより社会的な効率が高いものもあります。日本でも、国として枠組みを構築することを検討してよいのではないかと円谷教授は語ります。
よくある質問(FAQ)
Q. 統合報告書で何を伝えるべきですか?
A. 円谷教授は、既存の開示資料では書けない、自社が本当に伝えたい重要な情報を伝えるべきだとしています。日本では「他社が作っているから」という理由で作られ、散らばった情報をまとめた「集合報告書」になりがちですが、伝えたい思いのある会社の統合報告書は精度が高いと述べています。
Q. 人的資本開示で大切なことは何ですか?
A. 円谷教授は、情報開示とは「勇気と決断」であり、法律で求められているからではなく、自社にとって不都合な課題も隠さずに示すことが大切だとしています。また、各社各様に自社にとって重要な指標を考えて開示すべきで、そのためには「活躍」の定義や事業ポートフォリオの方向性を経営陣が検討しておく必要があります。
Q. 今の学生は就職先選びで何を重視していますか?
A. 円谷教授によると、学生は20代のうちにどれだけスキルを高められるかという「微分の発想」で就職先を選んでおり、配属ガチャなど配属リスクの少なさを最も重視しています。一方、20代のうちは思い切り働きたいという学生も多く、ワーク・ライフ・バランスはあまり気にしない傾向があるといいます。
Q. なぜ開示の現場は苦しいのですか?
A. 円谷教授は、形式に則って書く法定開示と、自分で考えて書くサステナビリティ開示という、頭の使い方が異なる2つの開示を同時に求められ、量も倍増しているためだとしています。国として開示資料のスクラップ・アンド・ビルドが必要だと述べています。
Q. シンガポールのスキルズフューチャーとは何ですか?
A. シンガポールの国民向け生涯職業能力開発プログラムです。スキルの汎用性や将来の需要、求人数を国が見える化し、国民に支給されるクレジットでスキルを習得できます。円谷教授は、リスキリングを一企業ではなく社会全体で行う枠組みとして、日本の参考になるとしています。
まとめ:開示は「勇気と決断」。伝えたいことを自分の言葉で
- 新卒採用では応募者減・内々定辞退・早期離職が進み、2025年の出生数は67万人と過去最少。生き残りを経営陣が考える必要がある
- 今の学生は20代の成長の「傾き」を重視する「微分の発想」。配属リスクを最も嫌う
- 課題を隠さず開示し、「活躍」の定義や年代別のエンゲージメントの差に向き合うことが大切
- 何を開示すべきかは各国各様・各社各様。自社にとって重要な指標を経営陣が考える
- 統合報告書は「集合報告書」ではなく、伝えたいことを伝える媒体に。リスキリングは社会全体の枠組みも検討を
人的資本の開示は、法令への対応ではなく、自社の現実と未来を自分の言葉で語る機会です。課題を隠さず示す勇気と、それを変えていく決断が、投資家にも将来の従業員にも届くメッセージになります。
自社にとって重要な人的資本の指標を可視化・開示する
各社各様に重要な指標を選び、課題も含めて開示するには、人的資本のデータを体系的に整理し、可視化できる仕組みが欠かせません。DEFiDEの「HRキャピタルダッシュボード」は、人的資本報告の国際規格ISO 30414に基づき、11領域58指標のデータを企業規模に応じて可視化・レポートできるクラウドサービスです。オリジナルの指標も追加でき、自社らしい開示を支援します。
▶ 前編:人的資本マネジメントの目的は事業ポートフォリオの組み替え?コーポレートガバナンス・コードの「人的資本」とスキルの見える化(内部リンク)
▶ インタビュー全文:人的資本マネジメントの目的は、事業ポートフォリオの再構築にある(後編)(JOB Scopeマガジン)