戦略とは、本当に大事なことに資源を集中するために、他のことを泣く泣くやめる、あるいは後回しにすることです。慶應義塾大学大学院の清水勝彦教授は、これを「肉を切らせて骨を断つ」と表現し、人的資本経営もまた人事部の問題ではなく、トップが担う「経営」そのものだと指摘します。
2023年3月期から上場企業に人的資本の情報開示が求められるようになり、人事部が人的資本経営で主導的な役割を担うべきだという論調も多く見られます。これに対し、経営戦略と組織マネジメントを研究する清水教授は、「人的資本経営は人事部の問題ではない、経営の問題だ」と語ります。
本記事では、清水教授へのインタビューをもとに、人的資本が重要になった背景、人的資本開示の限界、戦略と計画の違い、「良い企業」の条件、そして「戦略が決まってから人事を考える」という発想を変えるべき理由について解説します。
この記事でわかること
・社員の力を使い切れている会社はどれだけあるのか
・人的資本の開示が「意識づけ」にとどまる理由
・戦略と計画の違い――戦略の本質は「トレードオフ」
・自分たちの基準を持つ「良い企業」の条件
・「戦略が先、人事が後」という発想から脱却すべき理由
取材協力:清水 勝彦(しみず かつひこ)氏
慶應義塾大学大学院 経営管理研究科 教授(取材時)。東京大学法学部卒業。ダートマス大学エイモス・タック・スクールでMBAを取得し、コーポレイトディレクション(CDI)を経て、2000年テキサスA&M大学でPh.D.(経営学)を取得。同年テキサス大学サンアントニオ校助教授、2006年准教授(テニュア取得)。2010年より慶應義塾大学大学院経営管理研究科教授。Strategic Management Journal、Journal of Management Studiesなどの編集委員。株式会社ドリコム取締役 監査等委員。著書に『機会損失』(東洋経済新報社)、『リーダーの基準:見えない経営の「あたりまえ」』『あなたの会社が理不尽な理由』(以上、日経BP社)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
社員の力を100%使い切れている会社はどれだけあるか
清水教授は、人的資本経営への注目そのものはよいことだと言います。人が重要であることは間違いないからです。清水教授が紹介するのは、ロンドン・ビジネススクール客員教授のゲイリー・ハメル氏の共著『ヒューマノクラシー――「人」が中心の組織をつくる』(英治出版)が投げかける、「社員の力を100%使っている会社がどれだけあるのか」という問いです。
米ギャラップ社の調査によると、仕事に熱意を持って取り組む従業員の割合は、世界平均で20%、日本では8%にとどまっています。会社として優秀な人を数多く採用しても、その力を使いきれていないのではないか――ということです。
| 国・地域 | 熱意を持って働く従業員の割合 |
|---|---|
| 世界平均 | 20% |
| 日本 | 8% |
出典:Gallup「State of the Global Workplace: 2026 Report」(2025年1〜12月調査)
ハメル氏は、一部の人がつくった戦略を実行しようとしても世の中はどんどん変わっていくため、生の情報を持ち、顧客や競争をよく知る現場の人たちの発想を取り入れる必要があると強調しています。清水教授も同じ考えで、戦略は「つくってから実行する」のではなく、「つくりながら実行し、実行しながら刷新していく」ものだと言います。
人的資本が重要になった背景
人的資本への注目は日本だけのものではなく、20年以上前からの世界的な流れです。規模の経済や大量生産では中国などの海外企業が圧倒的に強くなり、先進国が勝負できるのは知的資産、つまり人という無形資産しかなくなりました。わかっていた人はずっとわかっていたことが、ようやく表に出てきたのだと清水教授は見ています。
人的資本の開示は「意識づけ」にすぎない
経済産業省が旗を振る人的資本経営について、清水教授は重要だとしつつも、微妙な面があると指摘します。例えば教育費の開示でも、純粋に教育に使った費用を開示する会社もあれば、教育を受けている間に得られたはずの売上(機会損失)まで含める会社もあります。OJTとなると、さらに測るのが難しくなります。
人的資本経営と企業価値の向上を結びつけるにも、影響する変数は山のようにあり、教育費をつぎ込めば企業価値が急に上がるということはありません。清水教授は、人的資本経営はあくまでも「経営」であり、経営の仕事は企業価値を上げることなのだから、新しいことを言っているわけではないと語ります。
戦略とは何か?――計画との違いは「トレードオフ」
コンサルティングファームでの経験も持つ清水教授は、悪いコンサルタントほど「これもやりましょう」「あれもやりましょう」と、やるべきことのリストを並べると言います。
清水教授は、東日本大震災の後によく使われた「復興戦略」という言葉を例に挙げます。やりたいこと、やらなければならないことが数多く並び、優先順位がついていなければ、それは戦略ではなく計画にすぎないというのです。何年たっても「まだ30%しかできていない」という話になってしまいます。
| 計画 | 戦略 | |
|---|---|---|
| 中身 | やりたいこと、やるべきことを並べる | 本当に大事なことに資源を集中する |
| 優先順位 | ついていないことが多い | 明確。何をやめるか、後回しにするかを決める |
| 特徴 | よい話ばかりが並びがち | 「肉を切らせて骨を断つ」覚悟を伴う |
「本当はやりたいもののもっと大事なことがあるので、そちらに資源を投入するために、こちらは泣く泣く辞める、あるいは後回しにする。それが戦略だと思います。」
――清水教授
なお清水教授は、日本企業と米国企業を分けて論じるのは好まないと言います。米国にも戦略をわかっていない企業はたくさんあり、日本にも頑張っている企業がある。あるのは「良い企業」と「悪い企業」の違いだけだという立場です。
「良い企業」の条件――自分たちの基準を持っているか
清水教授が「良い企業」として挙げる企業には、共通点があります。それは、世の中の風潮や他社の動きに流されず、自分たちの基準を持っていることです。
| 企業 | 清水教授が評価する点 |
|---|---|
| コマツ | トップが「ここは負けてもいい」と明言している。戦略のトレードオフを示す姿勢として、非常にレベルが高い |
| アイリスオーヤマ | 企業理念に「利益の出せる仕組みを確立する」と掲げ、利益へのコミットを堂々と示している |
| 東京エレクトロン | 経営理念に利益の追求と企業価値の向上を掲げている |
| ダイキン工業 | 経営陣の平均年齢は高いが、空調で世界一の競争力を持つ。世の中の風潮に流されず、自分たちの信念を貫いている |
出典:清水教授への取材より(企業の評価は清水教授の見解)
社会貢献など格好のよい言葉が並ぶ理念が多い中で、存続のために利益を上げるという考えを堂々と掲げる会社は珍しいと清水教授は言います。「負けてもいい」と言える会社も、利益を上げると言える会社も、良い企業です。一つの正解があるわけではないのです。
「他社がやっているから、うちもやろう」ではなく、自社の基準で人と組織のあり方を考えることが、人的資本経営でも出発点になります。
自社の基準で、経営と人事を一体に設計する
他社の流行に合わせるのではなく、自社の戦略と人材を一体で考え、それを評価・育成・配置の仕組みに落とし込むことが大切です。DEFiDEの「JOB Scope」は、人事コンサルティングと人事クラウドの2軸で、経営に直結する戦略人事の制度設計から組織への定着までを支援する人事制度改革プラットフォームです。
「戦略が先、人事が後」という発想から脱却を
「人事に戦略的なマインドが欠けている」という指摘について、清水教授は「それは無理」だと言います。野球をしていた人にサッカーをやれと言うようなものだからです。人事部は残業管理や福利厚生などに一生懸命取り組む必要があり、戦略は経営企画が担えばよい。人的資本「経営」なのに、なぜ人事ばかりがやらなければならないのか、というのが清水教授の問題意識です。
「この人がいるから、この戦略で行く」
清水教授は、そもそも経営戦略と人事戦略が分かれていること自体がおかしいと言います。「人材版伊藤レポート」などでは、まず戦略があり、それに合わせて必要な人を登用するという考え方が示されています。しかし実際には、そううまくはいきません。
| 「戦略が先、人事が後」の発想 | 清水教授が示す発想 | |
|---|---|---|
| 考える順番 | まず戦略をつくり、それに合わせて人をそろえる | 「こういう人がいるから、こういう戦略で行く」と、人と戦略を一体で考える |
| 起こりがちな問題 | 戦略を実行しようとしたら人がいない。人がいても環境が変わり、戦略が合わなくなる | 足りない部分は外部から採用して補う |
清水教授によると、人的資本を戦略と連動させる「戦略的HR」の論文は、世界的に見ても戦略の研究者が書いたものはほとんどなく、人事の研究者が戦略の視点を入れて書いたものが中心だといいます。人の中でのトレードオフや、経営全体から見たトレードオフに基づく研究は非常に少ない。あくまでも経営の問題なのだから、戦略の研究者も研究すべきだと清水教授は考えています(人事の立場から見た戦略人事の考え方は、守島基博教授の解説記事でも紹介しています)。
「あくまでも経営なのです。ということは、CEOを含めて経営幹部のマターなのです。」
――清水教授
CHROの役割は「事業担当役員に説くこと」
CHRO(最高人事責任者)の役割について、清水教授は、米コーネル大学が2010年に行った調査を紹介します。CHROが何をしているかといえば、他の事業担当役員に「人を育て、活躍させるのはあなたたちの仕事だ」「自分こそが人の責任者だという自覚を持ってほしい」と説いていたというのです。CHROが人的資本経営のすべてを担うのではなく、実践するのは経営だということです(日本企業のCHROについては、小杉俊哉氏の解説記事でも紹介しています)。
よくある質問(FAQ)
Q. 戦略とは何ですか?
A. 清水教授は、戦略とは、本当に大事なことに資源を集中するために、やりたいことでも泣く泣くやめる、あるいは後回しにすることだと述べています。「肉を切らせて骨を断つ」ことであり、やりたいことを並べるだけでは戦略とはいえないとしています。
Q. 戦略と計画の違いは何ですか?
A. 計画は、やりたいことややるべきことを並べたもので、優先順位がついていないことが多いものです。戦略は、何に資源を集中し、何をやめるか、後回しにするかという優先順位とトレードオフを伴います。清水教授は、優先順位のない「復興戦略」は戦略ではなく計画にすぎないと指摘しています。
Q. 「良い企業」の条件は何ですか?
A. 清水教授は、世の中の風潮や他社の動きに流されず、自分たちの基準を持っていることを挙げています。例えば、トップが「ここは負けてもいい」と明言するコマツや、利益へのコミットを理念に堂々と掲げるアイリスオーヤマ、東京エレクトロンなどを良い企業として紹介しています。
Q. 人的資本経営は人事部が担うべきですか?
A. 清水教授は、人的資本経営は人事部の問題ではなく経営の問題であり、CEOを含めた経営幹部が担うべきだと述べています。人事部は残業管理や福利厚生などの業務に取り組み、戦略に関わる部分は経営企画などが担えばよいとしています。
Q. 戦略を先に決めてから人事を考えるべきではないのですか?
A. 清水教授は、戦略を先に決めてそれに合わせて人をそろえる発想は、実際にはうまくいかないことが多いと指摘しています。戦略を実行しようとしても人がいなかったり、環境が変わったりするためです。「こういう人がいるから、こういう戦略で行く」と、人と戦略を一体で考えることが普通だとしています。
まとめ:戦略とはトレードオフ。人的資本経営は「経営」そのもの
- 社員の力を使い切れている会社は少ない。戦略は現場の発想を取り入れ、つくりながら実行し、刷新していくもの
- 人的資本の開示は、測り方もばらばらで、現時点では「意識づけ」の段階
- 戦略とは、大事なことに資源を集中するために、他を泣く泣くやめる「トレードオフ」。優先順位のないものは計画にすぎない
- 「良い企業」は、世の中の風潮に流されず、自分たちの基準を持っている
- 人的資本経営は人事部任せではなく経営幹部のマター。「この人がいるから、この戦略」と人と戦略を一体で考える
後編では、「本社が重い」日本企業の課題、単純なジョブ型雇用に反対する理由、戦略の核心である「差別化」、人的資本経営で社長がすべきこと、そして人事責任者に求められる役割について解説します。
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