初年度の人的資本開示は、多くの企業で、法律ですでに求められていたダイバーシティ関連の指標を中心とした「防御的」な内容にとどまりました。神戸大学大学院の庭本佳子准教授は、それでも開示をきっかけに、自社の強みや独自性を表す「独自指標」を考える企業が増えていくと期待しています。
人的資本経営への注目が高まる中、経営資源である「ヒト」をどう生かすかが、改めて企業に問われています。環境の変化とともに求められるマネジメントの水準は高くなり、追いつけていない企業も少なくありません。
本記事では、人的資源管理論を専門とし、神戸大学の人的資本経営研究教育センターにも参画する庭本准教授へのインタビューをもとに、人的資本経営の何が新しいのか、初年度の人的資本開示の特徴、開示が企業にもたらす変化と独自指標の意義、ジョブ型雇用の考え方、そして人事制度改革を阻む壁について解説します。
この記事でわかること
・学術的に見た人的資本経営の「新しい部分」と「新しくない部分」
・初年度の人的資本開示が「防御的」だった理由
・開示をきっかけに独自指標を考える意義
・ジョブ型雇用のメリットと、日々のモチベーションへの影響
・人事制度改革を阻む最大の壁
取材協力:庭本 佳子(にわもと よしこ)氏
神戸大学大学院 経営学研究科 准教授(取材時)。2008年京都大学法学部卒業。2010年京都大学大学院法学研究科法曹養成専攻修了。2015年神戸大学大学院経営学研究科博士課程後期課程修了。博士(経営学)。摂南大学経営学部講師を経て、2017年より現職。専門は人的資源管理論、経営管理論。神戸大学 人的資本経営研究教育センターのメンバー。主な論文・著書に「経営戦略論から見る知的熟練の意義」(『日本労務学会誌』第23巻1号、2022年)、『経営組織入門』(編著、文眞堂、2020年)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
人的資本経営の何が新しいのか――学術と実務の視点
庭本准教授は、人的資本経営という言葉は独り歩きしている印象があると言います。企業の競争優位を支える人的資本に関心が集まるのはよいことですが、人的資源管理論の知見からすれば、特段新しいものではないというのが率直な見方です。
| 新しくない部分 | 新しい部分 | |
|---|---|---|
| 考え方 | 人事戦略を立て、戦略と連動して人事管理を行い、適正な配置をする(戦略的人的資源管理、タレントマネジメントで言われてきたこと) | 人材の価値を数値化し、その意味を見いだして開示する |
| 人の捉え方 | 従業員は価値を生み出す存在になりうる(人事管理論で昔から言われてきた) | 投資家の目線を大切にし、エビデンスとともに社会に説明する |
出典:庭本准教授への取材をもとに編集部作成
日本企業は昔から、長期雇用の中で人を育て、一人前の組織人にしていく形で人を大切にしてきました。人を見て組織をつくる、メンバーシップ型の柔軟な管理です。それを見える化し、エビデンスとともに投資家や社会に説明できるようにすることに、今の人的資本経営は焦点を当てていると庭本准教授は見ています。
「人的資本」と「人的資源」の違いにこだわりすぎない
人的資本はもともと経済学の概念です。提唱者の一人であるゲーリー・ベッカーは、価値は従業員自身に帰属し、高めれば転職市場でも評価されるため、本人の投資意欲が高いと論じていました。会計上は「資本」ではなく「資産」として扱われることになり、厳密に紐解くと今の使われ方とは合わなくなる面もあります。
庭本准教授は、今の「人的資本」は経済学と経営学の「おいしいところ」を混ぜ合わせ、「人には価値がある」という意味で使われていると言います。研究者には厳密さが必要ですが、人事管理を実践する企業にとっては、概念の違いにこだわるより、人に価値を置く取り組みを進めることが大切です。
初年度の人的資本開示は「防御的」だった
2023年3月期の東証プライム上場企業の統合報告書を見た庭本准教授の感想は、「防御的だな」の一言でした。総じて差異化は図られておらず、まずは情報として出してみた、という印象だったといいます。
神戸大学の人的資本経営研究教育センターでは、上場企業の開示データを集めて分析しています。そこで目立ったのは、ダイバーシティ関連の指標に開示が集中していたことです。
| ダイバーシティ関連の指標が多かった理由 | 内容 |
|---|---|
| 法律ですでに開示が求められていた | 女性活躍推進法や育児・介護休業法で、女性管理職比率や男性の育児休業取得率などの開示が定められていた |
| 人事がデータを持っていた | 既存のデータを整理・加工すれば開示でき、手間がかからなかった |
| 法令対応として開示した | 「法律に従って開示している」と明記する企業も見られた |
出典:庭本准教授への取材をもとに編集部作成
義務化されたばかりで、各社が手探りなのは仕方のないことであり、悪いことではないと庭本准教授は言います。ただ、経済産業省が定義する「中長期的な企業価値の向上」という目的に照らせば、企業価値の向上というポジティブな印象には映らなかったというのが率直な評価です。
開示をきっかけに、自社の「独自指標」を考える
それでも庭本准教授は、開示の効果を前向きに捉えています。防御的・受動的な対応であっても、しっかり対応しなければという意識は生まれるからです。数字にこだわりすぎるのはよくないものの、女性管理職比率や男性の育児休業取得率といった数字の威力は大きく、改善しようという気持ちにつながります。
そうした数字に向き合う中で、人的な競争力を高めるために「自社の強みや独自性とは何か」を考え、独自の指標を設定する企業も増えていくと庭本准教授は見ています。独自指標を考えることは、自社の立ち位置や人的な強みを模索することにほかなりません。
| 防御的な開示 | 独自指標を生かした開示 | |
|---|---|---|
| 指標の選び方 | 法律で求められている指標や、人事がすでに持っているデータ | 自社の強みや独自性、戦略とのつながりから選ぶ |
| 開示の姿勢 | とりあえず守る、出してみる | 自社の立ち位置を示し、企業価値の向上につなげる |
| 社内への効果 | 数字の改善への意識が生まれる | 自社の人的な強みを模索し、共有できる |
出典:庭本准教授への取材をもとに編集部作成
人的資本経営の意義を否定する人はほとんどいません。ためらう企業が多いのは、情報を開示して自社の価値とリンクさせるには相当なスキルが必要で、それを担える人が社内にいなかったり、意識改革が進んでいなかったりするためだと庭本准教授は指摘します(開示のストーリーと指標の選び方は、一守靖教授の解説記事でも紹介しています)。
独自指標を考える第一歩は、自社の人的資本のデータを整理し、どこに強みがあるのかを見える化することです。
自社の強みを表す指標を、データで見つけて示す
独自指標を設定するには、人的資本のデータを幅広く整理し、自社の強みがどこにあるのかを見える化することが出発点です。DEFiDEの「HRキャピタルダッシュボード」は、人的資本報告の国際規格ISO 30414に基づき、11領域58指標のデータを可視化・レポートできるクラウドサービスです。オリジナルの指標を追加・編集でき、自社らしい開示を支援します。
ジョブ型雇用の考え方――メリットと「日々のモチベーション」
庭本准教授は、「○○型雇用」と紋切り型に言い切ると、企業が進める多様な雇用のあり方を見落とすおそれがあると言います。ジョブ型とメンバーシップ型は両極であり、実際にはその間に濃淡があります。どちらにも一定の合理性があり、従業員の貢献をどう引き出し、適正配置の土台をどうつくるかという点から合理性を判断すればよいというのが庭本准教授の考えです。社会構造や組織を取り巻く環境、他の人事制度との補完性なども踏まえて決めていく必要があります。
| ジョブ型雇用 | |
|---|---|
| メリット | 職責が明確で、職責・成果・賃金の関係を把握しやすい |
| 懸念 | 職務と賃金を動かしにくく、日々の仕事の中で変化するモチベーションに悪影響を与えるおそれがある |
| 欧米企業の実際 | 日々のモチベーションやスキル向上のため、かなり柔軟に運用していることが多い |
| 鍵 | ラインマネージャーと部下の日々のコミュニケーション |
出典:庭本准教授への取材をもとに編集部作成
ここでいうモチベーションは、長期的な働きがいとは別の、日々の仕事の中で変化するモチベーションです。ジョブとそれに応じた人事制度の枠組みの中で、ぶつからず、縛られすぎず、上司と部下が個々の状況に応じて意味のある仕事の仕方を見いだしていく。そのための日々のコミュニケーションが非常に大事になると庭本准教授は語ります。
雇用のあり方は多様化する――制度改革を阻む最大の壁
雇用のあり方が多様化するにつれ、各社は「自社はどうするのか」という立ち位置を、これまで以上に明確にせざるを得なくなります。これまでは各社が横並びのメンバーシップ型で、考える必要がありませんでした。今後は、ジョブ型に移る会社もあれば、メンバーシップ型を強める会社もあり、多様化していくと庭本准教授は見ています。
ジョブ型への移行は、下準備が大事で一気には変えられません。すでにジョブ型に移った企業も、何年もかけて制度改革を進めてきたといいます。そのため経営者からは、「他社の制度改定のプロセスを知りたい」という質問がよく寄せられるそうです。
「最大の障壁は、変わることに対する抵抗意識です。」
――庭本准教授
今の状況で利益を得ている人が多く、人はもともと臆病なものです。「うまくいっているのだから変える必要はない」と考える人が多いと、変えようとは言いにくくなります。そこで、危機感を従業員と共有する、あえて危機感を演出するといった工夫をしている経営者もいるといいます。
よくある質問(FAQ)
Q. 初年度の人的資本開示にはどのような特徴がありましたか?
A. 庭本准教授は、2023年3月期の東証プライム上場企業の開示を「防御的」と評しています。女性活躍推進法などですでに開示が求められていたダイバーシティ関連の指標に集中し、差異化は図られていなかったといいます。義務化されたばかりで各社が手探りなのは仕方がないとしています。
Q. 人的資本開示で独自指標を設定する意義は何ですか?
A. 庭本准教授は、法律で求められた数字に向き合う中で、人的な競争力を高めるために自社の強みや独自性を考え、独自指標を設定する企業が増えると見ています。独自指標を考えることは、自社の立ち位置や人的な強みを模索することにつながります。
Q. 人的資本経営は何が新しいのですか?
A. 庭本准教授は、戦略と連動した人事管理や、従業員を価値を生み出す存在と捉える考え方自体は、人的資源管理論では新しくないとしています。新しいのは、人材の価値を数値化して意味を見いだし、投資家の目線を意識して開示するという部分だと述べています。
Q. ジョブ型雇用のメリットと注意点は何ですか?
A. 職責が明確で、職責・成果・賃金の関係を把握しやすいことがメリットです。一方で、職務と賃金を動かしにくいため、日々の仕事の中で変化するモチベーションに悪影響を与えるおそれがあります。庭本准教授は、上司と部下の日々のコミュニケーションが鍵になるとしています。
Q. 人事制度改革を阻む最大の壁は何ですか?
A. 庭本准教授は、変わることへの抵抗意識だとしています。今の状況で利益を得ている人が多く、「うまくいっているのだから変える必要はない」と考える人が多いと、改革を言い出しにくくなります。危機感を従業員と共有するなどの工夫が必要です。
まとめ:「防御的な開示」から「自社らしい開示」へ
- 人的資本経営で新しいのは、人材の価値を数値化し、投資家目線で開示する部分。人に価値を置く考え方自体は昔からある
- 初年度の人的資本開示は、法律で求められてきたダイバーシティ関連の指標中心の「防御的」な内容だった
- 数字に向き合う中で、自社の強みを表す独自指標を考える企業が増えていく
- ジョブ型は職責と賃金が明確な一方、日々のモチベーションに注意が必要。上司と部下の日々の対話が鍵
- 制度改革の最大の壁は変化への抵抗意識。危機感を共有し、時間をかけて改革を進める
後編では、戦略人事を担う人事に求められるスキル、女性活躍推進で数値目標を掲げる意義、環境変化に適応する組織能力「ダイナミック・ケイパビリティ」とシェアド・リーダーシップ、そして中小企業が柔軟性を強みに変える方法について解説します。
時間をかけた人事制度改革を、プロと一緒に
雇用のあり方を見直す制度改革は、下準備から運用の定着まで時間がかかります。他社の改定プロセスも踏まえながら、自社に合った進め方を設計することが大切です。DEFiDEの「JOB Scope」は、人事コンサルティングと人事クラウドの2軸で、経営に直結する戦略人事の制度設計から組織への定着までを支援する人事制度改革プラットフォームです。
▶ 後編:ダイナミック・ケイパビリティとは?環境変化に適応する組織能力と、戦略人事を担う人事のスキル(内部リンク)
▶ インタビュー全文:従業員一人ひとりに日々向き合う。それが、人材マネジメントの根本(前編)(JOB Scopeマガジン)