日本企業、特に製造業でイノベーションが停滞している一因は、新規事業がせいぜい数十億円規模にしかならず、売上規模の大きな企業ほど投資を決めにくい「100億円の壁」にあります。神戸大学の原田勉教授は、突破口としてグローバルニッチを狙うことを王道に挙げ、顧客や従業員が本当に何に価値を感じているか、その「バリュードライバー」を見極めることが出発点だと語ります。
前編では、イノベーションとは試行錯誤であり、OODAループとPDCAを両輪で回すことの大切さを紹介しました。後編では、日本企業のイノベーションが停滞する構造的な原因と、その突破口を考えます。
本記事では、原田教授へのインタビューをもとに、製造業の「100億円の壁」、グローバルニッチとサムスンの途上国戦略、「人的資本経営」が人への投資をかえって減らしかねないというパラドックス、ジョブ型への見解、そして顧客と従業員の「バリュードライバー」を見極める重要性について解説します。
この記事でわかること
・製造業でイノベーションが加速しない「100億円の壁」
・グローバルニッチという王道と、サムスンの途上国戦略
・「人的資本経営」が人への投資を減らしかねないパラドックス
・日本企業にはジョブ型とメンバーシップ型の中間が合う理由
・顧客のWTPと従業員のWTSを決める「バリュードライバー」
取材協力:原田 勉 氏
神戸大学大学院 経営学研究科 教授(取材時)。1967年京都府生まれ。スタンフォード大学Ph.D.(経済学)、神戸大学博士(経営学)。1997年神戸大学経営学部助教授。科学技術政策研究所客員研究官、INSEAD客員研究員、ハーバード大学フルブライト研究員を経て、2005年より現職。専門はイノベーション経済学、イノベーション・マネジメント。著書に『OODA Management(ウーダ・マネジメント)』(東洋経済新報社)、訳書に『「価値」こそがすべて! ハーバード・ビジネス・スクール教授の戦略講義』(東洋経済新報社)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
製造業に立ちはだかる「100億円の壁」
原田教授は、製造業でイノベーションが加速しない大きな理由として、新規事業の市場規模を挙げます。需要を予測して新製品を出し、それなりにうまくいっても、多くの場合、売上はせいぜい数十億円程度です。新規事業で100億円を超えるのはかなり難しいのが実情です。
| 大企業(製造業) | サービス業・中小企業 | |
|---|---|---|
| 会社の売上規模 | 数千億円〜1兆円規模 | 比較的小さい |
| 数十億円の新規事業 | 「そんな事業に投資するなら本業に力を入れよう」となりやすい | 十分に魅力的な規模。投資しやすい |
| イノベーションの起こりやすさ | 大企業ほど起こりにくい | 起こりやすい |
出典:原田教授への取材をもとに編集部作成
原田教授のMBAゼミには、ある製造業でB2C事業の事業部トップを務める学生がいました。他の事業がすべてB2Bだったため、大きな投資を本社に提案しても、どの顧客からどれだけ受注が見込めるかを示せないB2Cの案件は、ことごとく却下されたといいます。その結果、競争力がどんどん落ちてしまったのです。
グローバルニッチを狙うのが王道
日本企業で儲かっているところには、限られた市場で事業を展開するニッチ企業が多いと原田教授は言います。国内だけでは市場が狭くても、世界に視野を広げると大きな市場になる例は少なくありません。だからこそ、グローバルニッチを狙うことが王道なのです(製造業のグローバルニッチトップ企業については、大木清弘准教授の解説記事でも紹介しています)。
サムスンの途上国戦略――「引き算」と現地への溶け込み
原田教授は、大企業が先進国市場だけを狙うのが本当によいのかと問いかけ、韓国サムスンの例を挙げます。かつて松下電器(現パナソニック)を手本にしていたサムスンは、バブル崩壊後に赤字を続ける日本企業を見て方針を転換し、先進国はレッドオーシャンだとして、途上国を攻めたのです。
| サムスンの途上国戦略 | 内容 |
|---|---|
| 引き算の発想 | 途上国では高機能は不要。予約録画などの付加機能を削り、デザインと基本機能だけをよくして価格を下げた。新しい技術開発が要らず、開発費も抑えられる |
| 現地に溶け込む人材 | 選りすぐりの人材に、その国の言葉や文化、習慣を学ばせてから現地に派遣する。家族帯同なら子どもを現地の学校に通わせ、週末は現地でボランティア活動をするなど、現地社会に溶け込むことを重視した |
| 結果 | 製品の性能が同じなら、現地の人はサムスンを選ぶようになり、途上国市場で存在感を高めた |
出典:原田教授への取材をもとに編集部作成(原田教授の紹介による)
日本企業の優秀な人材ほど、先進国への赴任は喜んでも、途上国で家族とともに現地に溶け込むことは望まないかもしれない、と原田教授は言います。だからこそ、海外で現地に溶け込んで事業を展開できる人材がいるかどうかが市場での成功を左右し、その意味で人的資本が重要になるのです。ホンダのように、先進国を攻めつつ途上国でも高い収益を上げている企業もあります。
「人的資本経営」のパラドックス――人への投資が減りかねない
原田教授は、人的資本そのものは重要だと強調します。物的な資産は市場で買えますが、知識は市場で調達しにくく、それを運用するのは人だからです。人的資本を資源(コスト)ではなく資本(投資の対象)として見ること、見えざる資産の中でも人的資本が企業価値に強く影響すること、人的資本には知識が他にも波及して効果が大きくなる性質(スピルオーバー、収穫逓増)があることにも異論はないといいます。
ただし、「人的資本経営」として外部にアピールしようとすると問題が生じると原田教授は指摘します。
| 原田教授が指摘する3つの問題 | 内容 |
|---|---|
| ① 形だけになりやすい | IR対策で「こんな研修をやりました」とアピールするだけになり、効果が検証されない。社長から「記事になることを」と求められ、やむなく人事制度をいじった人事部長の例もある |
| ② 人への投資が減りかねない | ROE(自己資本利益率)を重視したとき、分母を減らすために投資を抑える「持たざる経営」に向かった。同じように、人的資本あたりのリターンを高めようとすると、人への投資を減らす方向に働きかねない |
| ③ 過小投資を招く | 人への投資は、社員が転職すると他社にも恩恵が及ぶ(スピルオーバー)。新入社員研修を受けた人が早期に転職すれば、採用した会社は研修コストを省ける。そのため、自社では投資を控えようとする力が働く |
出典:原田教授への取材をもとに編集部作成
実際、大卒者の3年以内離職率は33.8%にのぼります(厚生労働省「新規学卒就職者の離職状況(令和4年3月卒業者)」)。原田教授は、外部評価を得るための「人的資本経営」は、人的資本への投資を減らすことが成功の鍵になるという逆説を生みかねないと、株主資本経営で起きたことになぞらえて警鐘を鳴らしています。人的資本を大事にすること自体は正しく、それを形だけのアピールにしないことが重要なのです(人への投資の考え方は、藤村博之理事長の解説記事でも紹介しています)。
日本企業にはジョブ型とメンバーシップ型の中間を
ジョブ型について原田教授は、IT系やモジュール型の仕事ならジョブ型になるのは自然だとしつつ、調整型・すり合わせ型の仕事では問題が生じる可能性があると言います。
例えば年末の繁忙期に部下が1週間の休暇を申請したとき、ジョブ型では「組織全体を考えるのは上司の仕事で、私の職務記述書には書かれていない」と言えてしまいます。個人単位で仕事を進めるIT系なら問題なくても、チームで進める仕事では機能しにくいのです。
かといってメンバーシップ型にも問題があります。そこで原田教授が勧めるのは、職種によってはジョブ型にするなど、両者の中間です。職場が共同体のような雰囲気を残す地方の中小企業などに、ジョブ型をそのまま持ち込んでよいかは疑問だといいます。
ジョブ型を職種ごとに部分的に取り入れるには、どの仕事をどう定義し、評価するかの全体像を整理しておくことが欠かせません。
職種に応じて、ジョブ型を部分的に取り入れる
ジョブ型とメンバーシップ型の中間を目指すなら、職種ごとに職務の定義や評価の考え方を整理し、全体として矛盾のない制度に設計することが大切です。JOB Scopeでは、ジョブ型人事制度を設計するためのフレームワークをまとめた資料を無料で提供しています。
顧客と従業員の「バリュードライバー」を見極める
最後に原田教授は、中小・中堅企業の経営者や人事責任者に向けて、自身が翻訳した『「価値」こそがすべて! ハーバード・ビジネス・スクール教授の戦略講義』(東洋経済新報社)の考え方を紹介しています。
| 用語 | 意味 | 例 |
|---|---|---|
| WTP(Willingness to Pay) | 顧客が製品・サービスに支払ってもよいと思う最大の金額 | ボールペンに100円までなら払う。好きなアイドルの持ち物なら1万円でも払う |
| WTS(Willingness to Sell) | 従業員やサプライヤーが、企業に労働や部品・サービスを提供するのに必要な最低限の報酬 | 通勤の便利さや職場の人間関係がよければ、より低い報酬でも働きたいと思える |
| バリュードライバー | WTPやWTSに大きな影響を与える要因 | 顧客:リスクや面倒の回避など。従業員:通勤の利便性、人間関係、仕事の面白さ、勤務時間の安定性など |
出典:原田教授への取材をもとに編集部作成
バリュードライバーは技術ではなく心理であり、論理ではなく感情だと原田教授は言います。例えば心理学の「プロスペクト理論」では、同じ額でも、利益を得ることより損失を避けることのほうが2倍ほど価値が高く感じられるとされます。「1万円得します」より「1万円の損を防げます」と伝えるほうが、WTPは高まりやすいのです。
人事にとっての「顧客」は従業員
人事担当者にとっての顧客は、社内の従業員です。従業員のWTSのバリュードライバーは、必ずしも研修や報酬アップとは限りません。通勤の利便性、職場の人間関係、仕事の面白さ、勤務時間の安定性などさまざまです。
流行に飛びつくのはよいのですが、あくまでもWTSのバリュードライバーを踏まえたうえで飛びつくことが大切なのです。
――原田教授
心理的安全性、ダイバーシティ&インクルージョン、ウェルビーイングといった言葉に飛びつく前に、自社の従業員にとって何が特に重要なのかを把握し、それを人事施策に反映させることが大切だと原田教授は語ります。
よくある質問(FAQ)
Q. 日本企業のイノベーションが停滞しているのはなぜですか?
A. 原田教授は、技術での成功が減っているのではなく、市場での成功が難しくなっていることが問題だとしています。先進国市場では製品がすぐ陳腐化し価格も下がるうえ、製造業では新規事業がせいぜい数十億円規模にしかならず、売上規模の大きい企業ほど投資を決めにくい「100億円の壁」があると指摘しています。
Q. グローバルニッチとは何ですか?
A. 国内では市場が狭くても、世界に視野を広げると大きな市場になる限定的な分野で事業を展開することです。原田教授は、日本で儲かっている企業にはニッチ企業が多く、グローバルニッチを狙うことがイノベーションを加速する王道だとしています。
Q. 「人的資本経営」にはどんな問題がありますか?
A. 原田教授は、人的資本そのものは重要だとしたうえで、外部へのアピールを目的にすると、IR対策で形だけになる、人的資本あたりのリターンを高めるために投資を減らす方向に働く、転職で他社に恩恵が及ぶため過小投資を招く、という問題が生じかねないと指摘しています。
Q. ジョブ型とメンバーシップ型のどちらがよいですか?
A. 原田教授は、IT系など個人単位で進める仕事はジョブ型が自然だが、チームで調整しながら進める仕事ではジョブ型は機能しにくいとしています。メンバーシップ型にも問題があるため、職種によってはジョブ型にするなど、両者の中間を勧めています。
Q. バリュードライバーとは何ですか?
A. 顧客が支払ってもよいと思う最大の金額(WTP)や、従業員が働くのに必要な最低限の報酬(WTS)に大きな影響を与える要因のことです。原田教授は、技術ではなく心理や感情で決まるものであり、顧客や従業員が本当に何を求めているかを見極め、戦略や人事施策に反映させることが重要だとしています。
まとめ:規模の壁を越え、本当の価値を見極める
- 製造業では新規事業が数十億円規模にとどまり、大企業ほど投資しにくい「100億円の壁」がある
- グローバルニッチが王道。サムスンは引き算の発想と現地に溶け込む人材で途上国を攻めた
- 外部へのアピールを目的にした「人的資本経営」は、人への投資をかえって減らしかねない
- ジョブ型は職種によって取り入れ、メンバーシップ型との中間を目指す
- 顧客のWTPと従業員のWTSを決めるバリュードライバーを見極め、戦略と人事施策に反映する
流行の言葉や他社の取り組みに飛びつく前に、顧客と従業員が本当に何に価値を感じているかを見極めること。それが、試行錯誤を通じてイノベーションを生み出し、人的資本を本当の意味で生かす出発点になります。
従業員の「バリュードライバー」を、データで把握する
従業員が会社で働き続けたいと思う理由は、報酬や研修だけではなく、人間関係や仕事の面白さ、働き方などさまざまです。何が特に重要なのかを把握することが、効果的な人事施策の出発点になります。DEFiDEの「生成AIワークバリュー・スコア分析」は、生成AIで従業員の属性や組織の特性に合わせた質問を作成し、働く人の価値観や組織の状態を迅速にきめ細かく可視化します。
▶ 前編:OODAループとは?PDCAとの違いと、イノベーションの確率を高める「試行錯誤のマネジメント」(内部リンク)
▶ インタビュー全文:イノベーションとは、試行錯誤なり(前編)(JOB Scopeマガジン)