>イノベーションとは、試行錯誤なり(前編)
日本のものづくりが世界を席巻した時代が、もはや遠い過去の話のようになって来ている。世界にインパクトをもたらす、画期的なイノベーションが生み出されていない。その原因は、どこにあるのか。突破口はないのか。さまざまな疑問が浮かんでくる。そこで、今回はイノベーション経済学、イノベーション・マネジメントの大家である、神戸大学大学院経営学研究科の原田 勉教授に、話を聞いた。インタビューの前編では、日本企業におけるイノベーションの現状、加速させていくための要因などを語ってもらった。
目次

01人的資本経営の成功の鍵は人的資本投資を減らすこと
「人材版伊藤レポート」の公表以来、人的資本経営がクローズアップされています。改めて、ビジネス競争に勝ち続けるために今なぜ人的資本が重要なのかを教えていただけますか。
「人材版伊藤レポート」での人的資本経営に対する評価と、人的資本の重要性は分けたいと思います。まず、人的資本はご指摘の通り重要だと思います。これは何かと言うと、物的資産は市場で購入できます。しかし、市場で調達が難しいのが知識です。知識は、技術とか色々なものを含めて言っていますが、それを運用するのは人になります。やはり、知識を重視するとどうしても人的資本が重要になるわけです。
人的資本経営に関して言いますと、私はそれほど詳しくはないのですが、三つのポイントがあると思います。まず、資源ではなくて資本として見るということなのですが、資源はコストになり、資本は投資の対象になってきます。また、インビジブルアセット(見えざる資産:技術やノウハウ、ブランド、組織風土など)の中でも、人的資本が企業価値に強く影響するだろうというのが前提としてあります。人的資本は経済学においてスピルオーバー、収穫逓増(投入ベクトルをすべて k 倍 [k>0] したときに,産出量が k 倍より大きくなる状態)と言われています。これに関しては、「人材版伊藤レポート」では書かれていないと思いますが、非常に重要なところです。この三点については異存はありません。
ただ、これを人的資本経営として、この取り組みを外部にアピールするとなると私は問題が生じると思っています。具体的にどういう問題かというと、人的資本経営と言い出したときに、この取り組みを例えばIRで報告するとなってくると、人的資本への投資が果たして増えるのか、下がるのかと考えたときに、まず増えると考えられやすいのですが、そうでもなかったりします。
結局のところ報告目的、IR対策で何か形だけのものになる可能性があります。昔、ある重厚長大の伝統的な企業の人事部長さんがおられました。メディアで「新しい成果主義に取り組んでいる」など、色々発言されていたので、お会いしたときに「積極的に動かれていますね」とお声掛けしたところ、顔をしかめておられました。「本当は、やりたくないんだけれども、社長からIR対策で何か記事になるようなことがないか」と言われ、人事をいじるしかなかったようです。「IR対策でやっているだけであって、実際はやりたくてやっているのではないのです」とおっしゃっておられました。
つまり、広告目的の形だけのものになる可能性があるわけです。「こんな研修をやりました」というだけです。それがどれだけの効果を生み出しているのかは良くわかっていなかったりします。これが、一つ目のポイントです。
二つ目のポイントが、人的資本投資が下がる可能性が高いということです。例えば、ROE(株主資本利益率、自己資本利益率)が大事だと言ったときに、結局何が起こったかと言うと、ROEとは、分母にエクイティ(資本、自己資本・株主資本)が来るわけです。分子が利益となったときに、これを高めるには利益を高めるか、分母を低くすれば良いわけです。つまり、ハードウェア系であれば、結局投資を減らすという話になるわけです。要するに、投資はできるだけやらないという方向になりがちです。持たざる経営という方向に進むことになりますし、場合によっては投資をできるだけ減らそうということになるので、投資が阻害されてしまう可能性があります。
もちろん、それを上手くやれば良いのです。リースやレンタル、サブスク化など方法は色々あります。そういう方向でOKなのであれば、それで良いのですが、必要な投資もできなくなる可能性があります。人的資本経営といった場合はROHと言いますか、分母にヒューマンキャピタルのHが来るわけです(ROH=リターン/人的資本)。「このROHを高くせよ」という話です。そうなると、結局ヒューマンキャピタルに対する投資を減らせば良いという話になってしまわないかということです。
三つ目は、先ほどスピルオーバーと言いましたが、スピルオーバー効果とは何かというと、ある効果が他にも波及していくということです。これは、過小投資を招くと経済学で言われています。具体的な例で言うと、今第2新卒という言葉があります。大体1年以内に新卒が辞めて他社に移るということです。我々の頃には考えられなかった話です。しかし、今はもうそれが普通になっていて、3割以上の皆さんが経験しています。企業側からしても第2新卒は何がメリットかというと、結局新入社員研修のコストが要らなくなるわけです。だから、コストを掛けずに使えるから非常にありがたい存在だと言えます。
これもスピルオーバー効果です。新入社員研修は本来、自社の社員のために行うものですが、実は社員が転職したら他社にもすごい恩恵が被ることになるわけです。そういうスピルオーバー効果がある場合は、できるだけやめてしまおうという方向にどうしてもなりがちです。人に投資をしてもすぐやめるのであれば意味がないからです。
ここで私が言いたいのは、人的資本経営ということで外部評価を得ようとすると、人的資本への投資を低くした方が良いということになります。つまり、非常にパラドックスなのですが、結論としては「人的資本経営の成功には、人的資本投資を減らすことが鍵となる」と言えるわけです。これが株主資本経営で実際に生じていたことなのです。だから、人的資本が重要というのは、その通りだと思いますし、そこを大事にするのは良いものの、いわゆる人的資本経営と言ってしまうと、こうしたマイナスの効果の方が大きいと私は思っています。

02イノベーションとは、技術的成功+市場での成功
日本企業ではイノベーションの創出が叫ばれて久しいです。現状をどう捉えておられますか。
イノベーションに関して言いますと、まずイノベーションをどう捉えるかということですが、私は技術での成功プラス市場での成功、この二つが必要だと思います。技術的に成功して新製品を開発できたとしても、これが市場で上手くいかなければ駄目なわけです。だから、イノベーションというのは市場での成功を含んでいると一般的に捉えられるわけです。となると、今問題になっているのは、その技術での成功が減っているというよりは、市場での成功が難しくなっているということです。技術的な成果が出ていないというわけではないと思います。
つまり、新技術開発や新製品開発ができたとしても、それが収益化できていないというのが問題なのです。問題は色々とあります。一つだけ取り上げるとしたら、先進国市場では製品のライフサイクルが非常に速くなっていて、すぐに陳腐化してしまいます。しかも、どんどん高品質機能が必要となる一方、価格はどんどん下がっていくので、非常に儲かりにくくなっているというのが事実です。だから、この市場での成功が非常に難しくなっているわけです。これが、イノベーションの創出が上手くいっていない大きな要因と言えます。
ただし、我々はイノベーションと言うと一般的には製造業を考えてしまいがちですが、サービス業を考えると、色々な革新が見られます。例えば、学習塾で言いますと昔は予備校の有名講師が書いた難しい参考書を、一生懸命読んで勉強して受験をされた方が多いと思います。今は違います。コンテンツの時代になっています。難しい文字で書いてなくて、わかりやすくビジュアル化されていて、塾でライブクラスを受講するのではなく、配信映像クラスを視聴して、自分で確認問題を解いて帰っていくというふうに変わってきているわけです。それが、今のZ世代です。だから、一部の先端的な学習塾は、教えるという事業をやめています。コンテンツを配信して、ただ時間管理だけをやるというような形になってきています。
つまり、塾には来てほしい。そこで映像を見て、場合によって確認テストのチェックはするものの、基本的に授業はいらないというスタイルになっています。となると、講師を各校舎で雇う必要もなく、非常に高収益になってきます。結局、教育の領域だけを見てもかなり革新が起こっているわけです。
だから、実はサービス業に目を転じると色々なイノベーションが生じていると思います。結局は、領域によるということです。製造業では、先進国市場での成功は非常に難しくなっているので、イノベーションの創出も厳しくなっています。それが、一番大きな要因なのではないかと思います。

03製造業では「100億超の壁」が存在する
日本の製造業でイノベーションが加速しない原因はどこにあるとお考えですか。
結局、需要を予測し「こういうものができる」と提案をして、製品を上梓させてそれなりに上手くいったとしても、多くの場合、市場規模でせいぜい数十億程度の売上が達成できればよいほうではないでしょうか。新規事業で100億超えはかなり難しいのが実情です。例えば、売り上げが1兆円ある企業からすると、50億円しか売り上げが見込めない新規事業を手掛けるのかと言えば、「No」です。「そんなところにお金を投資するくらいなら、本業に力を入れよう」という話になります。だから、市場規模が取れないというのが、大きな理由だということです。それは、大企業であればあるほど顕著になってきます。
つまり、製造業には大企業が多くて売上規模が何千億もあったりします。そんな世界で数億から数十億のイノベーションにお金を出すのかという話です。それならば、「そもそもやめろ」ということになります。結局、そういうことで非常に難しくなっているわけです。
私のMBAのゼミに、ある製造業の事業部トップを務めている学生がいました。結局、そこは何が問題だったかというと、B2Cのビジネスだったのですが、他の事業が全部B2Bでした。彼は、大きな投資をしようと本社にお伺いを立てると、「全部蹴られた」と言うのです。なぜかというと、B2Bはどの会社からどれだけの受注が見込めるのかという根拠が示せるものの、B2Cはそれができません。それで、「結局投資が認められず、競争力がどんどん落ちてしまった」と言っていました。
では、サービス業はなぜイノベーションが起こりやすいのでしょうか。
サービス業に関して言うと、サービス系企業の規模はそれほど大きくはありません。なので、新規事業で数十億の売り上げが上がるというなら、全然OKなわけです。元々、学習塾だとほとんどが個人ベースで運営されています。そういうところが、大きくなって会社組織になっていくのですが、それでも何千億までは行っていません。売り上げ規模が小さいからイノベーションが起こりやすいということがあると思います。

04グローバルニッチを狙うのが王道
日本企業としては、イノベーションを加速するためにどうしたら良いのでしょうか。
色々な観点から捉えられると思います。まず一つ言えるのは、大企業に限られますが、先進国市場を狙うのが本当に良いのかという話です。その点、ホンダは上手くやっています。先進国を攻めつつも、開発途上国もターゲットにしています。後者は、非常に高収益であったりします。
韓国にサムソンという会社があります。サムソンは1980年代には、松下電器をベンチマークの対象にしていました。本社に幸之助部屋みたいなのがあって、松下幸之助に関連した色々なアイテムが展示されていました。しかし、バブルが崩壊し日本企業が赤字を出し続けていく様子を見ていて、「これでは駄目だ」と判断し、ベンチマークの対象とすることをやめてしまったんです。
そこでどうしたかと言うと、「先進国は儲からない。レッドオーシャンだ」と判断し、「ブルーオーシャンはどこなのか」と考え、結局途上国を攻めたのです。BOP(ボトム・オブ・ピラミッド:経済ピラミッドの底辺。主に途上国における経済的貧困層を指す)をターゲットにしたわけです。どうするかというと、そういったところは、高機能は必要ありません。付加的な機能を削って安くしたほうが良いのです。だから、テレビでも予約録画機能なんていらないわけです。視れれば良いのです。なので、非常にシンプルです。しかし、デザインは良くして、価格は安くする。デザインと基本機能だけは良くして、あとはできるだけカットするというやり方をしたのです。つまり、足し算ではなくて引き算の発想で勝負をしたわけです。
さらに、サムソンで特徴的であったのは、「現地専門家」です。これは何かと言いますと、例えばサムソンがアフリカのケニアに進出するとした場合、まずは社内の人材育成専門機関で3カ月間に渡り、その国の言葉はもちろん、文化や習慣などを叩き込み、その人材を「現地専門家」として半年から1年間ほど現地に派遣します。「現地専門家」はサムソンの中でも、もう選りすぐりのエリートばかりです。元々、サムソンは韓国No.1のソウル大学からでも中々入れない会社です。そういった企業の超エリートの中から選ばれた人が、ケニアに行くわけです。
しかも、条件があります。独身だったら仕方ありませんが、家族がいて子供がいたら必ず現地のパブリックスクールに通わせないといけません。これは、結構きついです。米国や欧州の先進国なら問題ないかもしれませんが、子供がケニアでスワヒリ語を覚えたとしても、将来役に立つかどうかはわかりません。加えて、保育水準や受験なども懸念されます。ただ、いくら厳しいと言っても、辞令が下ったら受けないとクビになってしまいます。
もっと言うと、例えば日本人のビジネスパーソンだと、現地駐在中の週末はほとんどがショッピングモールで家族と過ごしたり、日本人同士でゴルフを楽しんでいたりというのが、一般的なパターンです。ただ、サムソンではそれが許されません。必ず現地でボランティア活動を実践しないといけないのです。例えば、野球の経験があるなら審判を買って出たりします。そういうことを通じて、現地に溶け込もうとしています。日本人は絶対にやらないでしょう。日本人ビジネスパーソンのソサエティと現地のコミュニティは水と油のように接点はあるけども交流がないというのがほとんどではないでしょうか。
現地に溶け込むことができれば、例えばサムソンの電化製品とソニー、パナソニックの電化製品がほぼ同じであれば、現地の人はサムソンの製品を買うわけです。それで、結局のところ途上国市場をすべて制覇していったのです。しかも、引き算の発想だから新しいことをやる必要はありません。既にあるもので削っていくだけですから、開発費もそんなにかからないのです。しかし、残念ながら日本企業では優秀なエリート人材であればあるほど、このような途上国に行って家族とともに現地に溶け込むということはやりたがらないのではないでしょうか。かれらは米国を始めとして先進国には喜んで行くでしょうが、ケニアに行って、しかも「子供には必ずローカルスクールに入れてスワヒリ語で学ばせろ」と言ったら、「嫌だ」と言って転職されてしまいそうです。また、そのようなことを強制する日本企業もないでしょう。
だから、結局そういうことができるかどうかということが、市場での成功にとって非常に大きいというのが、一つ言えると思います。そこまで極端なことを言わなくても、日本の会社で儲かっているところは、ニッチ企業が多いです。非常に限定された市場、ニッチ市場で事業を展開している企業は収益がすごく高いです。そうした企業の中には、日本国内だけだと市場が狭かったりしても、グローバルに視野を広げると、非常に大きな市場になると言う例が多々あります。だから、グローバルニッチを狙っていくことは、やはり求められると思います。
そういう展開をしていくには、サムソンではないですが、海外において現地に溶け込んでやっていく人材がいないといけません。そういう意味で人的資本は大事になってきます。

05創造性を邪魔する制度が取り除けるかがカギ
日本企業が、サムソンと同じ取り組みをするのは難しいでしょうが、現地に溶け込む大切さは理解できました。
もう一点だけ付け加えておきますと、イノベーションというのは創造性プラス制度だと思います。創造性は既にあったとしても、制度が邪魔をすると言うケースは良くあります。結局、この制度にいかに邪魔されないかというところがあります。例えば予算で言いますと大体が積み上げ的になっています。ですから、予算申請をして年度初めから執行されるわけですけれど、不測の事態が起こったときに対応できる予算ないということが結構あったりします。なので、本当はできるはずなのに、予算がないからできないということがすごくあるわけです。そういうことが足かせになっていたりします。
シャープが一時的に上手くやっていたのは、緊急プロジェクト制度があって緊急事態に直面したら、社長直属の予算を使うという仕組みがあったからです。だから、やはり制度の問題は非常に大きいと言えます。
もう一つ、言っておいた方が良いと思うのが、ボトルネックへのサポートがないということです。つまり、何かをプロジェクトで例えば6カ月以内に完結させるというときに、どこかしらの部署、人物が足を引っ張るということがあったりします。そこのサポートがないから、どうしても遅れが生じてしまいます。本当は3カ月でできるのに、6カ月もかかる。これは結構良く見られます。
結局サポートがなければ、何が起こるかというとサバを読むわけです。例えば、「これは開発にどれだけの期間を掛かるのか」と聞かれたときに、「2カ月間掛かります」と答えたとします。でも、本当は「1回テストをするだけであれば2週間で終わります」と言っても良いのですが、万が一テストを3回ぐらい行うことも考えておこうとサバを読むわけです。そうでなければ、責任問題が生じてしまいかねません。ボトルネックにサポートがないから、結局サバを読むわけです。これは、多分多くの会社であると思います。
予算でもそうではないでしょうか。サバを読んで、少し多めに確保しているはずです。だから結局、年度末になると予算が余ってしまうわけです。そういう意味では、ボトルネックがどこなのかを明確化して、そこを予算的にサポートする仕組みにしないと、やはりサバ読みはなくならないと思います。サバを読むのではなく、できるかできないかわからない、フィフティフィフティでできるような水準を出して、できなかったら必ずサポートするようにしないと上手くいかない気がします。
申し上げたいのは、創造性プラス制度がイノベーションだとしたら、やはり制度が結構足を引っ張っているということ。その辺を改めていくことが実践的な施策であると思います。

原田 勉氏
神戸大学大学院
経営学研究科 教授
1967年京都府に生まれる。スタンフォード大学よりPh.D.(経済学博士号)、神戸大学より博士(経営学)取得。1997年、神戸大学経営学部助教授。科学技術政策研究所客員研究官(98-99)、INSEAD客員研究員(03~04)、ハーバード大学フルブライト研究員(04~05)を経て、2005年より神戸大学大学院経営学研究科教授。