シリーズ あの人この人の「働き方」
売上230億円企業への道のり
2025/3/3
今回は元プロ野球の巨人や近鉄(現、オリックス)の投手で、現在、建設会社・スチールエンジ株式会社中央区代表取締役社長である松谷竜二郎(まつたに りゅうじろう)さん(60歳)を取材した。
松谷社長は、1964年に大阪市で生まれる。1988年、社会人野球の名門・大阪ガスからドラフト2位で巨人に投手として入団。藤田元司、長嶋茂雄の2人の監督に仕えた。当時、巨人は槙原寛巳、桑田真澄、斎藤雅樹、鹿取義隆、ビル・ガリクソンなどをそろえ、「投手王国」と言われていたが、入団1年目で開幕1軍となる。一時期、2軍となるものの、イースタンリーグでノーヒットノーランを2度達成する。1995年に近鉄へ移籍し、1997年に戦力外通告となり、引退。
その後、建設業界の会社に就職し、2003年からスチールエンジ株式会社の社長を務める。同社の創業は1991年で、現在、2024年12月現在、売上は150億円、正社員は100人。2024年12月現在、13社で構成されるグループ会社の売上が約230億円、正社員は200人。
目次
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松谷社長にまず、グループの中核であるスチールエンジのビジネスモデルについて尋ねた。
「主に工事管理をしているのですが、大まかなビジネスモデルで言えば、まず、ゼネコン(ゼネコンコンストラクター=総合建設企業)から工事の依頼をいただいた後、私どもの協力会社にその工事の発注をします。協力会社は、全国に70社程あります。そこには、現場で建築作業をする職人さんたちが多数います。具体的には、全国展開する大手・中堅のゼネコンを中心に主に床版工事を請け負い、協力会社の作業員を1日約400人稼働させています。
一方で、私たちはその工事で使う材料をメーカーなどから仕入れて工事現場に届けるのです。その後は協力会社と連絡をとり、工事の進捗を確認しながら、安全、品質、工期を間に合わせるようにします」
松谷社長は、スチールエンジに入社する前に勤務した建設会社で再スタートをした。入社当初は営業部に配属された。当初は、慣れないために壁にぶつかることもあったという。
「1997年に引退した時に考え抜きました。『なぜ、自分はダメだったのだろう』と失敗した理由を考えると、今後、生きていくヒントが見つかるのではないかと思ったのです。そして、生き方や考え方を180度、変えてみようと決心しました。
まずは、プロの世界にいたという誇りを捨てることでした。当時、34歳。建設現場で働く18歳の職人さんから、『こんなことも知らないのか!』と罵声を浴びせられる日がありました。とても屈辱的で、何度も辞めたいと思いました。
しかし、巨人時代の藤田監督や末次利光コーチの紹介で入社させていただいた会社ですので、絶対にいい加減な辞め方はできなかったのです。見返すためにも、早く仕事を覚えようと必死でした。職人さんや営業先の方々と仕事の会話ができる知識を一日も早く身につけたい。その思いが、すべてでした。
企業社会は、違う意味で厳しいところです。プロでは毎年、年俸交渉があり、1年間はその給与が保証されますが、会社員は、ある日突然、倒産などにより職を失うことがあります。成績が良くても、報われるとは限らない場合もあります。メンタル面では、会社員のほうが厳しく、忍耐力が求められると思います」
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しだいに仕事に慣れ、営業成績が上がっていく中で高い評価を受け、スチールエンジに移る。ここまではまず、ゼネコンからスチールエンジに発注を再度してもらえることに特に力を注いだようだ。
「この業界もまた、新規のお客様を開拓するのと同じく、繰り返し発注してくださるリピーター率を上げるのが大切なのです。協力会社がいい仕事をしてくれると、ゼネコンが信用してくださり、信頼につながり、再依頼が来るケースが増えます。ですので、協力会社の皆さんが納得して、気持ちよく仕事をしてくれるように力を注いできました。いずれの工事でも、いい仕事をしていただきました。すると、ゼネコンからのリピートが増え、契約受注額を増やすことができたのです。これは、今でも感謝しています。
当時、『プロ野球で投手をしていた』と自分から話したことはありません。尋ねられればお答えしていましたが、こちらから話すものではないですから控えていました。『プロ野球をしていました』と言って通用するとは思っていません。むしろ、協力会社に限らず、営業でお会いする会社の方などとの人間関係づくりに特に気をつかっていました。
たとえば、信頼されるようになることです。営業の場で相手がここに困っているなと感じると、そこを中心に説明してきました。ご要望にできるだけ応えることができるようになると、相手がしだいにこちらによく接してくれるのです。その結果、受注できるようになってきたのです」
管理職となり、部下を持ち、チームをつくる立場になっていく。この頃から、人を評価する判断の軸としての「モノサシ」について考える機会が増えたようだ。
「今、振り返ると、相手の要望を感じ取り、それを満たすことができるようにするのは早いうちから比較的スムーズにできていたように思います。営業成績も順調に上がっていきました。その頃のスチールエンジの売上は数億円で、社員が少ないこともあり、営業部の責任者である部長になるのも早かったのです。
売上は多くのお客様や協力会社の支えがあり、4億円、8億円、16億円と倍々に増えていきました。この頃、仕事が楽しくて仕方がなかったのです。契約を次々と受注できる喜びを皆で共有できるから、さらに楽しくなります。
営業の社員を見て、『なぜ、相手の要望に応えようとしないのかな、どうして契約が取れないのかな』と感じた時はありますが、自分のモノサシだけで人を評価しないように気をつけてきました。
特に2003年からは社長となり、経営する立場となり、人材育成の難しさを一段と感じていました。私が30センチのモノサシだけをもっているならば、40センチの仕事をする人を『優秀』と評価し、5センチの仕事をする人を『なぜ、そんなにできないのか』と見るのかもしれません。このような1つのモノサシでしか、社員を判断することができなかったら、人は育たないはずです。ましてや、組織をつくることはできません。それでは、会社の成長は難しいと思います。
私も部下を持ったばかりの時期は、『なぜできないのか』と感じた時はあります。部下の数が少ないために、互いに至近距離にいたのでよく見えるのです。しかし、『なぜできないのか』といった態度を見せていては組織がつくれないと、売上で言えば特に16億円前後の時に考えたのです。この規模になると、私や数人の優秀な営業部員だけでは売上を維持し、さらに増やすのは難しくなるのです。
ですから、仕事についてはそれまで以上に説明を繰り返し、その後のフォローにも力を入れました。効率化は大切ですが、ある意味で非効率的とも言えるほどに時間をかけて丁寧に教えていかないと、人は育たないと思うのです。現在、スチールエンジの営業の中核として活躍している社員の多くは、この時期から私とともに学んできたのです」
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