2024年春、日経平均株価は史上最高値である4万円を突破した。2025年初頭でも大台をキープしている。だが、それをもって、「失われた30年からようやく日本は脱却しつつある」という声はほとんど聞かれない。むしろ、「日本は失われた40年に向けてまっしぐらで突入しようとしている」と説いているメディアすらある。本当に日本企業は、再び強くなることがないのだろうか。そこで、今回はコーポレートファイナンスの第一人者として活躍される慶應義塾大学総合政策学部教授の保田 隆明氏に、日本企業が変革を加速するための提言を寄せてもらった。前半では、人的資本経営の課題やウェルビーイングとの関りなどについて聞いた。 

01人的資本経営が目的化しつつある

人的資本経営の課題がどこにあるとお考えですか。

それ自体が目的化していることです。何のために人的資本経営をするのかがぶれている気がします。私は元々が株式市場の出身ゆえに、「企業は何のために存在するのか」と聞かれたら、「利益を上げるのが会社の使命です」と原則論をお答えします。富を創出する、利益を創出するために最適な組織体を作ることです。要は、稼げる組織にするというのが、人的資本経営の真骨頂だと思います。

ワークエンゲージメントを高めるとか、あるいは従業員満足度を高めるとか、パーパスを再策定するとか色々ありますけども、それ自体が目的化していて、その本当の先にある利益を出す、富を創出するという、そこを見失っている会社が少なくないというところが課題だと思います。

本来、企業は利益を出さないといけない。稼げる組織にしていかなければいけないのに何か違うところに目が行ってしまっているのではないかということですね。

そもそも、人的資本経営がなぜ注目されたのかと考えると、これは非財務指標(企業の財務的な側面以外の業績や価値を数値化して示す指標)の一つです。経営者の通知簿・通信簿というのは、基本的には財務諸表に現れます。売り上げを上げて利益が上がっている会社、あるいは貸借対照表と比べて生産性が高い会社など、収益性と生産性と成長性という三つで評価されるわけです。それらを反映するものが株価です。

したがって、投資家は株価を一つの通信簿とします。投資家にしてみると、将来の株価の先読みとなる変数や指標をずっと探しています。そうすると、例えば研究開発投資が高い会社、あるいは無形資産(特許など形を持たない資産)の割合が高い会社の業績や株価のパフォーマンスが高いということがアカデミックでわかってきました。要は、無形資産が重要だということです。

決算では、もちろん貸借対照表に載る無形資産もありますけれども、結構多くの無形資産は財務諸表に載りません。そのような財務諸表に載らない非財務情報、あるいは非財務指標なるものに着目が集まってきており、その代表的なものの一つが、人的資本経営であるということになります。あくまでも財務指標、財務情報に最終的には直結する形で見せていく、繋げていく必要があるのですが、人的資本経営そのものが目的化している部分があるのではないかと懸念しています。

資本としての社員の能力や意欲を高めるための投資を企業がどこまでしているのか。その辺りはいかがでしょうか。


これは、非常に重要な点です。それこそ能力、意欲を高めるためにエンゲージメントを高めるとか、モチベーションを高めようということです。能力という意味では多分、リスキリングをするとか、その辺りが入ってくると思います。そこについては、多くの企業が社内で研修プログラムや啓発プログラムを実施しています。

一方で、昨年10月に日本経済新聞で連載された「私の履歴書」は、米国大手の投資ファンド「コールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR )」のファウンダーでしたけれども、彼らは「エンゲージメントプログラム」を走らせていたりします。

それは何かいうと、その名の通りで従業員のエンゲージメントを引き上げようとしているわけです。プログラムの中身は非常にシンプルです。一つは従業員にもKKRが投資している会社の株を持たせます。投資ファンドが買ってくるような会社ですので、AIとかそういうピカピカな会社ではなくて、どちらかと言えば、オールドエコノミー型の会社であったりします。それで、経営の効率化を進めて企業価値を高めるということをしています。

もう一つは、労働環境の改善に投資をしています。例えば、工場であれば更衣室をすごく綺麗にするとか、古いトイレをピカピカにするとかですね。そういう物理的な労働環境を改修するみたいな、そこはあまり手がついてない会社が多いような印象があります。

労働環境への投資ですか。新鮮な視点でした。

それは、通常だと費用と考えがちなわけです。そこも含めて投資だと考えているわけです。

02パーパスを明確にすることで、ウェルビーイングやエンゲージメントが高まる

冒頭で、稼げる組織にしないといけないという話をいただきました。人的資本経営とウェルビーイングの推進に向けて、トップは何をすべきだとお考えになられますか。

これも明確です。その会社のパーパスを明確にして、そこに向けて行動指針を示すことです。パーパスが社員の行動指針、あるいは行動の軸になるはずですので、そこを明確にする必要があると思います。それが明確であれば、ウェルビーイングあるいはエンゲージメントが高い組織になってくると思います。

この前、主催している産学連携の研究会で行ったウェルビーイングをテーマとした回でのある企業の発表がすごく面白かったです。彼らは社員の睡眠に注目しているというのです。睡眠が取れていないと生産性も低くなります。結局、我々人間は24時間不連続な生活をしていますので、会社にいるときの私とプライベートの私は、何らかの形で時間的には繋がっています。なので、もし睡眠不足であればプライベートも充実しないし、職場で仕事もパフォーマンスを発揮できないみたいな話になります。

睡眠管理は、従来であれば個人で行うものと思われていたでしょうが、そこまで降りていくといいましょうか、手当をしてあげることで、最終的にウェルビーイングが高まって、パフォーマンスも高まるということです。なので、働きやすい環境を作るという意味においては、今までとは少し違う、境界線を少し越えたような範囲の発想も必要になってくるという気がします。

確かに、睡眠は個人の問題ではないかと思っていました。経営者としても、そこまで入って良いのかなみたいなところもあると思いますが、そこに踏み込むというのも今の時代プラスに繋がる部分があるのかもしれないという印象を持ちました。

踏み込むという表現は、もしかしたら誤解を招いてしまうかもしれません。どちらかというと、組織のパーパスと個人のパーパスをアライメントさせるということです。それを同一のところに持っていくことができるとお互いに楽なんだと思います。

ウェルビーイングも、結局組織のウェルビーイングと個人のウェルビーイングにわかれます。両方が高い方がもちろんハッピーなのは間違いありません。会社にいる時だけウェルビーイングが高くて、プライベートだと低いとか、またその逆の状況もあると思います。そういう意味においては、最近色々な会社でやっていますけれども、組織のパーパス・ミッション・ビジョン・バリューみたいなものを洗い出して、なおかつ個人のミッション・ビジョン・バリューみたいなものを洗い出して、上手く部分集合的なところを見つけて、よりそこにアライン(人々や考え、目標などを一致させる)する形で経営していくことが求められています。多分、睡眠時間が最適化されていなかったので、恐らくそれをやることで、個人のウェルビーイングも上がるし、組織のウェルビーイングも上がるという共通項として見つかったものだと思います。

03ウェルビーイングと企業価値はリンクする


ウェルビーイングと企業価値はリンクするのでしょうか。それとも、トレードオフの関係にあるのでしょうか。

結論としては、リンクすると思います。ただ、因果関係は正直わかりません。ウェルビーイングが高いので従業員のパフォーマンスが高くなって、業績・企業価値が高まることもある一方、業績も株価も順調という順風満帆な組織で働いていれば、自ずとウェルビーイングは上がっていくという両方の関係性があると思います。

アカデミックの研究でいきますと、基本的にはウェルビーイングが高いと企業価値が高まるという因果関係を統計的に分析している研究が多いです。そのときは、逆の因果関係はもちろん統計的な分析手法で手当てしてあげるのですが、ただいくら手当てをしたところで、逆の因果関係が絶対ないとは言い切れないので、基本的にはリンクするという表現が良いのではと思います。

トレードオフがどういうときに発生するのかというと、ウェルビーイングを高めるために色々な取り組みをするのですが、そのためには社内のリソースが必要です。端的にはコストが掛かるということです。コストを掛けてウェルビーイングを高めたにも関わらず、業績や株価が横ばいだとするとトレードオフになってしまいます。なので、トレードオフの会社さんも恐らくは存在はすると思います。

ただ先行研究も概ね、ウェルビーイングが高いと企業価値が高いという関係を見ていますし、やはりウェルビーイングが高い、すなわち従業員がハッピーである状況において企業価値が横ばい、あるいは下がることはなかなか考えにくい気もします。

これは日米共通ですが、人的投資がしっかりとできている会社は、業績もついてきています。ウェルビーイングを高める投資をした、ないしは費用を掛けた翌年には結果は出なかったけれども、2年後3年後に業績が上がってくるという、このタイムラグはあるのかもしれないですが、トレードオフのままでいるというのはなかなかないはずです。

04組織論と財務戦略には乖離があった

保田先生は著書『企業価値に連動する人的資本経営戦略』(中央経済社)を、どういった問題意識から執筆されたのですか。

慶應義塾大学SFC研究所と企業10社程度で、「企業価値に資する人的資本経営」というテーマで研究コンソーシアムを2023年から立ち上げています。その研究成果を広く日本企業の方々に還元するために、この書籍を執筆しました。

その研究コンソーシアムは、どういう経緯で立ち上がったのかというと、今までの人的資本経営は恐らくHRの領域、組織論ですとか組織管理論とかの領域のものでした。一方で、この人的資本経営に投資家も注目するようになって、投資家は財務戦略を主に見ています。それで私のような財務戦略畑の人間もこの領域を見始めるようになったんです。

ただ、この二つは、実は上手くコミュニケーションが取れていませんでした。HRの方々は、株式市場と対話したことがありません。財務諸表に反映するみたいな話も今までやってこなかったわけです。そういう断絶が起こっていた中で、パーソル総合研究所さんから、「ご一緒しませんか」とお声がけいただき立ち上がりました。ですので、どういう問題意識かというと従来の組織論や組織管理論の領域と財務戦略を融合させたかったということになります。

その著書を通じて、読者に最もアピールされたかった点も教えていただけますか。

経営戦略と財務戦略としての人的資本経営ということになります。最近、機関投資家がCHRO(最高人事責任者)に会いたがっているという話が増えています。その前段階として知恵を付けていただくというところが意識したポイントです。

保田先生は、上場企業の社外取締役も兼任されておられます。しかも、元々はご自身で起業も経験されています。それらが、今の研究で活かせている点がございますか。

それはあるかもしれないですね。そういう意味で私は研究テーマや研究分野は多様です。そもそも、学者には二つのパターンがあると思っています。一つはずっと同じ領域を深掘ってくというタイプです。特に理系は顕著です。何しろ、研究に着手してから花が開くまでに30年も掛かるなんてこともあります。この流れを受けて一つのテーマをずっと研究していくスタイルが、日本では割と是とされている印象があります。

ただ、私は違います。典型的なもう一つのパターンです。私自身は、社外役員などの業務経験の中で、経営戦略を見ているのですが、役員会でも毎月出てくるテーマが変わります。ある時は従業員のハラスメントに対応しなければいけない、ある時はカスタマー対応の議題が上がってきたりします。もちろん、収益状況の話は毎月上がってきます。なので、経営を1側面だけ見ているとなかなか全部議論できなかったりします。

そういう意味では私の場合は、各種のテーマを幅広く網羅するという形でやっているわけです。


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保田 隆明

慶應義塾大学
総合政策学部 教授 

外資系証券会社2社で投資銀行業務に従事した後に、SNS運営会社を起業し、同社売却。その後、ベンチャーキャピタルや神戸大学大学院経営学研究科教授等を歴任。2019年より約1年半スタンフォード大学客員研究員としてアメリカシリコンバレーに滞在し、ESG を通じた企業変革について研究。2022年4月より慶應義塾大学総合政策学部教授に就任。現在、サツドラホールディンスグ社外取締役(東証上場)、リンカーズ社外監査役(東証上場)も兼任。専門分野は、コーポレートファイナンス、ESG/SDGsを通じた事業変革など。
主な著書に、『企業価値に連動する 人的資本経営戦略』(2024年)、『ESG財務戦略』(2022年)、『コーポレートファイナンス 戦略と実践』(2019年)

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