両立思考とは、対立しながらも互いを必要とする2つの目標を前に、「どちらを選ぶか」ではなく「両方を実現する方法はないか」を考える思考法です。京都大学経営管理大学院の関口倫紀教授は、変化の激しい時代の経営者には、この両立思考に基づく「パラドキシカル・リーダーシップ」が求められると語ります。
短期の利益か、長期の成長か。既存事業か、新規事業か。経営の現場には、どちらかを選ばなければならないように見える課題があふれています。こうした対立や矛盾をどう乗りこなすかは、有能な実務家なら自然に実践してきたものの、従来の経営学では体系化されていませんでした。
本記事では、パラドックス研究の日本における第一人者である関口教授へのインタビューをもとに、人的資本経営やジョブ型雇用が注目される背景、パラドックスとは何か、両立思考とパラドキシカル・リーダーシップの考え方、実践のフレームワーク「ABCDシステム」、そしてパラドックス・マインドセットについて解説します。
この記事でわかること
・人的資本経営やジョブ型雇用への関心が示す、日本企業の危機感
・パラドックスとは何か――トレードオフとの違い
・両立思考とパラドキシカル・リーダーシップの意味
・実践のフレームワーク「ABCDシステム」
・パラドックス・マインドセットの3つの要素
取材協力:関口 倫紀(せきぐち ともき)氏
京都大学経営管理大学院 教授(取材時)。大阪大学大学院経済学研究科教授などを経て、2016年より現職。専門は組織行動論および人的資源管理論。欧州アジア経営学会(EAMSA)会長、日本ビジネス研究学会(AJBS)会長、国際ビジネス学会(AIB)アジア太平洋支部理事、学術雑誌Applied Psychology: An International Review共同編集長などを歴任。京都大学「パラドキシカル・リーダーシップ産学共同講座」代表教員、「女性エグゼクティブ・リーダー育成プログラム」コーディネーター教員(取材時)。共監訳書に、ウェンディ・スミス、マリアンヌ・ルイス著『両立思考 「二者択一」の思考を手放し、多様な価値を実現するパラドキシカルリーダーシップ』(日本能率協会マネジメントセンター、2023年)。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
人的資本経営やジョブ型への関心は、企業の危機感の表れ
関口教授は、人的資本経営への関心の高まりを、「このままではだめだ」という日本企業の危機感の表れだと捉えています。時代が大きく変わる中で、人のマネジメントを変えなければならないのに、劇的には改善できず、長年悩みを抱え続けている。だから、コンピテンシー、成果主義、ワーク・ライフ・バランス、グローバル人材、ダイバーシティ、働き方改革、パーパス経営、そして人的資本経営やジョブ型と、さまざまなコンセプトを試したくなるのだといいます。
人的資本経営そのものは、人を活用して企業価値を高めるという当然の考え方で、「企業は人なり」の発想はむしろ海外企業が日本から学んだものだと関口教授は言います。
ジョブ型が注目される理由は「接続性」
ジョブ型雇用が注目されるのは、グローバル化と人口減少で、男性中心のメンバーシップ型雇用がうまく機能しなくなってきたからです。海外の人と働き、高齢者や女性など多様な人材の力を総動員しなければならない時代に、日本独自の成功体験に固執すればガラパゴス化してしまいます。関口教授は、海外ともつながれる「接続性」のある人のマネジメントが必要であり、そうすればダイバーシティ・マネジメントや女性活躍、海外人材の活用も自然に進むと語ります。
パラドックスとは?――トレードオフに見えて、実は互いを必要とする関係
時代の移行期には、古いものを捨て、新しいものを取り入れなければなりません。しかしそれは一朝一夕にはできず、組織の中では古いものと新しいもの、さまざまな価値観がしばらく共存し、ある程度の矛盾を抱え込むことになります。
パラドックスとは、それぞれを独立して考えれば合理的なのに、同時に追求しようとすると対立してしまう関係のことです。ただし関口教授は、見た目のトレードオフが本当のトレードオフとは限らないと言います。
| トレードオフ(二者択一)の見方 | パラドックスの見方 | |
|---|---|---|
| 短期利益と長期成長の関係 | 長期の投資をすれば短期の利益が減り、短期の利益を増やせば長期の投資が犠牲になる | 短期の利益が積み上がってこそ長期の繁栄があり、長期の投資があるから短期の利益も出る |
| 2つの関係 | 対立している | 対立しながら、互いを必要としている(相互依存) |
| 問い | どちらを選ぶのが合理的か | 両方を実現する方法はないか |
対立しているのに、互いを必要としている――それがパラドックスの状態であり、だからこそ両方を追求することが大切なのです。
「両利きの経営」もパラドックス・マネジメントの一つ
新しい事業と既存の事業を両立させる「両利きの経営」も、パラドックス・マネジメントの一つです。限られた経営資源の配分で見ればトレードオフですが、新しい事業で得たノウハウが既存事業の守りに生き、既存事業の強みが新しい事業に生きるという相互依存の関係もあります。
すべてを両立させるわけではない――基準は「パーパス」
関口教授は、両立思考はトレードオフや択一思考を否定するものではないと強調します。両立を目指すべきなのは、両方とも大切なとき、特にどちらも会社のパーパス(存在意義)とつながっていて、どちらかを捨てることがパーパスに反するときです。そうでなければ、どちらかを選ぶ判断でもよいのです。
両立思考とパラドキシカル・リーダーシップ
パラドックスという概念自体は古代からあり、実務の世界でもパラドックスを上手に扱う人はたくさんいました。しかし経営学では、2000年ごろまで体系化されていませんでした。それを学術的に整理し、統合的なフレームワークにしたのが、関口教授が監訳者の一人を務めた『両立思考』の著者、ウェンディ・スミス氏とマリアンヌ・ルイス氏です。これを機に、パラドックス研究は一気に増えたといいます。
パラドキシカル・リーダーシップとは、「どれを選ぶか」「どちらを捨てるか」ではなく、「両方を実現する方法はないか」という問いに基づいて組織を導くリーダーシップです。その具体的な実践方法として『両立思考』で紹介されているのが、「ABCDシステム」です。
パラドックス・マネジメントの「ABCDシステム」
ABCDシステムは、パラドックスを乗りこなすための4つの要素からなるフレームワークです。AとCは私たちの姿勢や感情に関わる「人間軸」、BとDは組織の文脈に関わる「組織軸(文脈軸)」に分けられます。
| 要素 | 意味 | 軸 |
|---|---|---|
| A:アサンプション(前提) | 矛盾やパラドックスを悪いものではないと捉え、そこから生まれる緊張をポジティブなエネルギーとして会社の持続的な発展に生かす | 人間軸(思考) |
| B:バウンダリー(境界) | パーパスやガードレールといった境界を設け、その中にパラドックスと緊張を包み込む | 組織軸(安定・構造) |
| C:コンフォート(感情のマネジメント) | パラドックスがもたらす不快や不安と向き合い、「矛盾しているからこそ楽しんでみよう」と感情をマネジメントする | 人間軸(感情) |
| D:ダイナミクス(動態性) | 状況の変化を見ながら、動きながらバランスをとる(動的平衡) | 組織軸(変化) |
出典:関口教授への取材、ウェンディ・スミス、マリアンヌ・ルイス著『両立思考』をもとに編集部作成
興味深いのは、2つの軸そのものもパラドキシカルであることです。人間軸では思考と感情、組織軸では安定と変化という、相反しながらも両方必要なものが組み合わされています。
B:バウンダリー――パーパスと「ガードレール」
バウンダリーでは、まずなぜ両立が必要なのかの正当性として、企業のパーパスを置きます。例えば社会的企業なら、社会貢献をしながら利益を出すことがパーパスであり、どちらも捨てられません。
もう一つが「ガードレール」です。両立を追求していても、その時々では「今は利益を重視しよう」「次は社会貢献を重視しよう」と行ったり来たりします。ただし片方に寄りすぎて道を外れると、両立どころか状況が悪化しかねません。そこで、ここまで行ったら方向転換する、行き過ぎたら警告を出すといった境界を設けておきます。この範囲内で柔軟に動くことを、「構造化された柔軟性」と呼びます。
D:ダイナミクス――自転車のように、動きながらバランスをとる
関口教授は、ダイナミクスを自転車にたとえます。止まっている自転車は不安定で倒れてしまいますが、走っているときは安定しています。右に傾けば左に、左に傾けば右に重心を移すことを、私たちは無意識にやっているからです。同じように、止まって考えると矛盾やトレードオフに見えるものも、動きながら両方を追求すればうまく乗りこなせるのです。
すべてが変化する世界では、予期せぬことが起こります。両方をしっかり見ておけば、チャンスが来たときに有利な方向へ舵を切れます。大きな意思決定をして終わりではなく、資源配分や役割分担、組織図などを状況を見ながら小刻みに変えていく――それが動的平衡の考え方です。
こうした考え方を実践するのは、最終的には経営者やリーダー一人ひとりです。
成果を上げるリーダーに共通する行動を知る
相反する目標を両立させるリーダーシップを身につけるうえで、成果を上げているリーダーの行動を知ることは一つのヒントになります。利益率の高い会社のリーダーに共通する行動をまとめた資料を、無料で提供しています。
パラドックス・マインドセットとは?――3つの要素
パラドックス・マインドセットとは、パラドックスをネガティブなものや間違ったものではなく、ポジティブに捉える心の持ち方です。ABCDシステムの人間軸、とりわけA(前提)に関わる考え方で、次の3つの要素からなります。
- チャンスとして捉える:パラドックスを脅威や不快なものではなく、創造的な成果につながるチャンスとして建設的に捉える
- 自然な現象として両方を追う:パラドックスを自然に生じるものと捉え、両方を同時に追求する
- 取り組むことに喜びを感じる:パラドックスと向き合うことで元気づけられ、喜びを感じる
パラドックス・マインドセットが低いと、パラドックスを避けたり、逃げたり、どちらかを選ぶことに固執したりして、そこから生まれる緊張を組織の成長に生かせません。さらに、リーダーがパラドキシカル・リーダーシップを実践しても、メンバーのパラドックス・マインドセットが低ければ、リーダーの行動に拒絶反応を示し、不快感やストレスが増えてしまうこともあります。そのため、チームメンバーのパラドックス・マインドセットを高めることも、リーダーの役割だと関口教授は言います。
よくある質問(FAQ)
Q. 両立思考とは何ですか?
A. 両立思考とは、対立しながらも互いを必要とする2つの目標を前に、どちらかを選ぶのではなく、両方を実現する方法を考える思考法です。関口教授が監訳者の一人を務めた、ウェンディ・スミス氏とマリアンヌ・ルイス氏の著書『両立思考』で体系化されています。
Q. パラドックスとトレードオフの違いは何ですか?
A. トレードオフは、一方を取れば他方が犠牲になる関係です。パラドックスは、同時に追求すると対立する一方で、互いを必要とし合っている関係です。関口教授は、短期利益と長期成長のように、見た目はトレードオフでも実は相互依存しているものが多いと指摘しています。
Q. パラドキシカル・リーダーシップとは何ですか?
A. 「どれを選ぶか」「どちらを捨てるか」ではなく、「両方を実現する方法はないか」という問いに基づいて組織を導くリーダーシップです。その実践方法として、前提・境界・感情のマネジメント・動態性の4要素からなるABCDシステムがあります。
Q. ABCDシステムとは何ですか?
A. パラドックス・マネジメントを実践するためのフレームワークで、A(アサンプション:前提)、B(バウンダリー:境界)、C(コンフォート:感情のマネジメント)、D(ダイナミクス:動態性)の4つからなります。AとCは人の姿勢や感情に関わる人間軸、BとDは組織の文脈に関わる組織軸です。
Q. どんな場合に両立を目指すべきですか?
A. 関口教授は、両立思考はトレードオフや択一思考を否定するものではないとしています。両立を目指すべきなのは、両方とも大切なとき、特にどちらも会社のパーパスとつながっていて、どちらかを捨てることがパーパスに反するときです。
まとめ:「どちらか」ではなく「どちらも」を問うリーダーシップ
- 人的資本経営やジョブ型への関心は、人のマネジメントを変えなければという日本企業の危機感の表れ
- パラドックスとは、対立しながら互いを必要とする関係。見た目のトレードオフが本当のトレードオフとは限らない
- 両立思考は択一思考を否定しない。パーパスにつながる大切なもの同士は、両方を実現する方法を考える
- ABCDシステムは、前提・境界・感情のマネジメント・動態性の4要素で、パラドックスを乗りこなす実践的なフレームワーク
- パラドックス・マインドセットを自分とメンバーの双方で高めることが、リーダーの役割
後編では、エスノグラフィーを使ってパラドックスを体感する学び方、リソースの限られた中小企業にとってのパラドックス、サーベイを「小さな進捗」につなげる対話、女性リーダー育成の3つのアプローチ、そして自社独自のマネジメントを探求する意義について解説します。
自社独自のマネジメントを、人事制度から形にする
流行のコンセプトに正解を求めるのではなく、自社にとって大切なものを両立させる独自のマネジメントを築くには、それを支える人事の仕組みが欠かせません。DEFiDEの「JOB Scope」は、人事コンサルティングと人事クラウドの2軸で、経営に直結する戦略人事の制度設計から組織への定着までを支援する人事制度改革プラットフォームです。
▶ 後編:パラドキシカル・リーダーシップを中小企業で生かすには?育成と定着の両立、「小さな進捗」を生む対話、女性リーダー育成(内部リンク)
▶ インタビュー全文:これからの時代に必要なのは「両立思考」と「パラドキシカル・リーダーシップ」である(前編)(JOB Scopeマガジン)