人的資本開示は、ガバナンス・戦略・リスク管理・指標及び目標の4つの要素で書くのが基本です。慶應義塾大学の浅野敬志教授は、現状の開示は横並びで定型的な記載が目立つとしたうえで、要素ごとに具体性を高め、経営戦略から指標までを一貫したストーリーとしてつなげることが重要だと語ります。
2023年3月期から、有価証券報告書に「サステナビリティに関する考え方及び取組」の欄が新設され、人的資本経営は開示の段階へと移りました。とはいえ、開示は1〜2年で定着するものではなく、多くの企業が試行錯誤を続けています。
本記事では、財務会計と経営分析を専門とし、企業情報と資本市場の関係を研究する浅野教授へのインタビューをもとに、投資家やアナリスト、格付機関が開示情報をどう使っているか、開示がもたらす「資本コストの低下」と「規律効果」、ストーリーで語るための「コネクティビティ」、そして4つの要素ごとの改善ポイントについて解説します。
この記事でわかること
・投資家・アナリスト・格付機関は人的資本情報をどう使っているか
・「手を抜いた開示」が意味をなさない理由
・情報開示の2つの効果――資本コストの低下と規律効果
・人的資本開示をストーリーで語るための「コネクティビティ」
・ガバナンス・戦略・リスク管理・指標及び目標、4要素ごとの改善ポイント
取材協力:浅野 敬志 氏
慶應義塾大学 商学部 教授(取材時)。横浜市立大学商学部卒業、慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程修了、博士(商学)。愛知淑徳大学講師・准教授、東京都立大学准教授・教授を経て、2023年4月より現職。日本銀行金融研究所客員研究員、カリフォルニア大学バークレー校客員研究員を歴任。専門は財務会計、経営分析。日経統合報告書アワードの審査員を務める。著書に『会計情報と資本市場 変容の分析と影響』(単著)、『ESGカオスを超えて 新たな資本市場構築への道標』(共著)、『戦略的人的資本の開示 運用の実務』(共著)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
サステナビリティ情報は企業価値にどう影響するのか
浅野教授の専門は財務会計と経営分析です。財務会計は、投資家などのステークホルダーが適切な意思決定を行えるよう財務情報を提供する仕組みであり、浅野教授はこの情報提供の機能に焦点を当てて研究してきました。近年は、環境・社会・ガバナンスに関するサステナビリティ情報にも関心を広げています。
研究の核心は、サステナビリティ情報が企業価値、特に中長期的な業績やリスクにどう影響するかを解明することです。ただし、サステナビリティ情報と企業価値の関係については、企業価値を高めるという研究もあれば効果は限定的とする研究もあり、まだ一貫した結論は出ていないといいます。浅野教授は、エビデンスに基づいて多角的に研究を続けています。
投資家・アナリスト・格付機関は開示情報をどう使っているか
| 情報の利用者 | 主な使い方 |
|---|---|
| 投資家 | 企業価値の評価と企業との対話。DCF法(将来キャッシュフローを現在価値に割り引く方法)などで、将来業績と割引率を推定する際に企業情報を使う |
| アナリスト | 企業情報をもとに市場分析や業績見通しを立て、投資家向けのレポートを作成する |
| 格付機関 | 信用リスクやESGを評価する。指標がばらばらで一つの数値に集約しにくいサステナビリティ情報を整理し、格付やESGスコアに変換する |
出典:浅野教授への取材をもとに編集部作成
人的資本情報は「中長期の成長力」を測る指標
浅野教授がアセットマネジメント業界の代表的な企業に聞いた例では、ある企業の離職率が業界平均より極端に低い場合、その背景を分析しているといいます。
- 離職率が低い理由が、優れた労務管理や定着の取り組みにあるかを確かめる
- 定着した経験豊富な従業員が、質の高いサービスを提供し、顧客満足度が上がる
- 採用・育成コストが抑えられ、生産性が上がり、売上の持続的な成長が期待できる
このように、人的資本情報は中長期的な業績予測に使われており、企業価値評価の重要な指標になっています。
「手を抜いた開示」は意味をなさない
会計の世界では、開示によって株価が動けば、その情報は「有用」とされます。一方、サステナビリティ情報には明確な測定基準がなく、見せかけだけの取り組みを示す「グリーンウォッシュ」や「ESGウォッシュ」も問題視されています。
投資家をだまし続けることはできません。
――浅野教授
資本市場では多くの参加者が積極的に情報を集めており、誤った株価の反応も次第に修正されていきます。投資家は誤導できるだろうと考えて適当な開示をしても、その努力は無駄になる――誠実で透明性のある開示こそが、開示の価値を高めると浅野教授は強調します。
情報開示の2つの効果――資本コストの低下と規律効果
浅野教授は、人的資本開示の現状について、「なぜ開示するのか」「開示がどんな効果をもたらすのか」が十分に意識されていない印象があると言います。開示の主な効果は次の2つです。
| 開示の効果 | 内容 |
|---|---|
| ① 資本コストの低下 | 透明性が高まると投資家にとってのリスクが下がり、要求されるリターン(資本コスト)が下がる。資本コストは将来業績を現在価値に割り引く「割引率」になるため、下がれば企業価値は高く評価される |
| ② 規律効果 | 開示によって投資家や規制当局など外部の目が強まり、その監視を意識して行動するようになる。ステークホルダーとの対話を通じて期待や批判を知り、経営に反映することで、企業の行動に規律が生まれる |
出典:浅野教授への取材をもとに編集部作成
一方で、開示にはリソースが必要で、競合に戦略情報が漏れるリスクもあります。企業はベネフィットとコストを天秤にかけて、戦略的に開示する必要があります。浅野教授は、情報開示は単なる報告義務ではなく、経営を規律付ける手段だと語ります(開示の意義については、川口章教授や庭本佳子准教授の解説記事でも紹介しています)。
人的資本開示は「ストーリー」で――コネクティビティの重要性
「人的資本開示は数字の羅列ではなく、ストーリーで語るべきだ」という意見に、浅野教授も同感だと言います。課題は財務情報と非財務情報の接続です。
| サステナビリティの取り組みで見られる課題 | 内容 |
|---|---|
| マテリアリティが共有されていない | 重要課題が社内で十分に共有されていない |
| 開示が目的化している | 重要課題は特定されているが、経営に組み込まれていない |
| 戦略と連動していない | 計画や目標が、重要課題や経営戦略と連動していない |
| 進捗が見えない | 取り組みの進捗が十分にモニタリングされていない |
| 本気度が伝わらない | 重要なESG指標が役員報酬と連動していない |
出典:浅野教授への取材をもとに編集部作成
こうした取り組みがばらばらに行われると、外部からは企業が何を目指しているのかが見えにくくなります。そこで重要になるのが、取り組み同士の「コネクティビティ(接続性)」です。
- パーパスとビジョンを設定する
- ビジョンを実現するビジネスモデルと経営戦略を考える
- 重要課題(マテリアリティ)を特定する
- 取り組みの進捗をKPIでモニタリングする
この一連のプロセスを一貫したストーリーとして描き、統合報告書などでわかりやすく開示することで、ステークホルダーに強いメッセージを送れます。そして、経営戦略を実行に移すのは結局「人」です。戦略を実行できる人が社内にいるか、ビジョンやパーパスが従業員に共有されているかを確認し、不足していれば改善することも重要だと浅野教授は言います。
TCFDの4要素で見る、人的資本開示の改善ポイント
有価証券報告書の人的資本開示は、TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)提言の枠組みに基づき、4つの要素で説明されています。浅野教授は、現時点では記載内容が横並びで定型的だとして、要素ごとの改善策を挙げています。
| 要素 | 求められること | 改善のポイント |
|---|---|---|
| ガバナンス | 取締役会やサステナビリティ委員会などが、人的資本経営にどう関与しているか | 機関の関係図、役割、開催頻度、議論内容を示す。監督と執行を分け、責任範囲を明確にする |
| 戦略 | 人的資本の取り組みが経営戦略と連動していること | 重要課題をSDGsと関連づけ、リスクと機会の観点で整理する。重要課題ごとに目標と取り組みを記載する |
| リスク管理 | リスクの特定から対応までのプロセス | 離職率の急増など具体的なリスクへの対応策やエンゲージメント施策を示す。従業員満足度などのデータで実効性を示す |
| 指標及び目標 | 時系列や企業間で比較できる指標 | 年度ごとの進捗と目標の達成度を継続して示す。業界で比較可能な指標の標準化を進める |
出典:浅野教授への取材をもとに編集部作成
なお、日本ではサステナビリティ基準委員会(SSBJ)が2025年3月に日本版のサステナビリティ開示基準を公表しており、時価総額の大きいプライム上場企業から段階的に適用される予定です。開示の質への要求は、今後さらに高まっていくと考えられます。
「指標及び目標」の比較可能性を高めるには、まず自社の人的資本のデータを継続して集め、時系列で見られる状態にすることが出発点です。
時系列・企業間で比較できる人的資本の指標を整える
人的資本開示の「指標及び目標」で求められるのは、年度ごとの進捗を継続して示し、比較できる形で開示することです。DEFiDEの「HRキャピタルダッシュボード」は、人的資本報告の国際規格ISO 30414に基づき、11領域58指標のデータを企業規模に応じて可視化・レポートできるクラウドサービスです。
よくある質問(FAQ)
Q. 人的資本開示はどのように書けばよいですか?
A. 有価証券報告書では、TCFD提言の枠組みに基づき、ガバナンス・戦略・リスク管理・指標及び目標の4つの要素で説明します。浅野教授は、現状は横並びで定型的な記載が目立つため、要素ごとに具体性を高め、パーパスから経営戦略、重要課題、KPIまでを一貫したストーリーとしてつなげることが重要だとしています。
Q. 投資家は人的資本情報をどう使っていますか?
A. 浅野教授によると、投資家は企業価値の評価や企業との対話に企業情報を使っており、人的資本情報は中長期的な業績予測に活用されています。例えば、離職率が業界平均より極端に低い企業について、その背景に優れた労務管理があれば、将来の業績向上につながる強みとして評価されます。
Q. 情報開示にはどんな効果がありますか?
A. 浅野教授は、透明性が高まることで投資家のリスクが下がり、資本コストが低下する効果と、外部の目やステークホルダーとの対話を意識して企業の行動に規律が生まれる「規律効果」の2つを挙げています。情報開示は報告義務ではなく、経営を規律付ける手段だとしています。
Q. コネクティビティとは何ですか?
A. 財務情報と非財務情報、あるいはサステナビリティの取り組み同士をつなぐ接続性のことです。浅野教授は、パーパスとビジョンの設定、それを実現するビジネスモデルと経営戦略、重要課題の特定、KPIによるモニタリングまでを一貫したストーリーとして示すことが重要だとしています。
Q. 人的資本開示の「指標及び目標」で注意すべき点は何ですか?
A. 浅野教授は、現状は指標が時系列でも企業間でも統一されておらず、比較可能性が低いことが課題だとしています。年度ごとの進捗と目標の達成度を継続して示し、業界で比較可能な指標の標準化を進めることが求められています。
まとめ:人的資本開示は、経営を規律付けるストーリー
- 投資家は人的資本情報を中長期の業績予測に使っており、企業価値評価の重要な指標になっている
- 投資家をだまし続けることはできない。誠実で透明性のある開示が開示の価値を高める
- 開示の効果は、資本コストの低下と、外部の目や対話による規律効果
- パーパスから戦略、重要課題、KPIまでをつなぐコネクティビティで、ストーリーとして語る
- ガバナンス・戦略・リスク管理・指標及び目標の4要素ごとに、具体性と比較可能性を高める
後編では、日経統合報告書アワードの審査員を務める浅野教授が見る統合報告書の現状、トップメッセージの重要性、財務情報と非財務情報の結びつけ方、就活生にとっての統合報告書、そして中小・中堅企業こそ情報開示に取り組むべき理由について解説します。
経営戦略と人材をつなぐ人事の仕組みを
人的資本開示をストーリーとして語るには、経営戦略を実行する人材の役割や育成、評価が戦略と結びついていることが前提になります。DEFiDEの「JOB Scope」は、人事コンサルティングと人事クラウドの2軸で、経営に直結する戦略人事の制度設計から組織への定着までを支援する人事制度改革プラットフォームです。
▶ 後編:統合報告書の質はトップメッセージで決まる――審査員が見る財務・非財務のつながりと、中小企業こそ情報開示すべき理由(内部リンク)
▶ インタビュー全文:情報開示の目的は企業価値の向上。ステークホルダーとの対話を大切に(前編)(JOB Scopeマガジン)