人的資本の情報開示の最大のメリットは、求職者が働きやすい企業を見つけやすくなり、働きやすい企業ほど人材が集まって発展していく仕組みができることです。同志社大学の川口章教授は、開示は市場のメカニズムを生かし、しかも費用がほとんどかからない政策だと語ります。
人的資本経営への関心が高まる一方で、日本はワーク・ライフ・バランスやジェンダー平等で他の先進国に大きく遅れています。川口教授は2008年の著書で、すでに育児休業取得率や有給休暇取得率などの情報開示を義務化すべきだと主張していました。
本記事では、労働経済学とジェンダー経済格差の研究者である川口教授へのインタビューをもとに、人的資本という概念の歴史、人的資本経営が広まった背景、日本の人に関する情報開示の歩み、情報開示がもたらすメリット、そして働きやすさの土台となる労働時間の短縮について解説します。
この記事でわかること
・人的資本は経済学で1960年代から使われてきた概念であること
・人的資本経営という言葉が、ここ数年で急に広まった背景
・次世代法・女性活躍推進法から有価証券報告書へ――人に関する情報開示の歩み
・情報開示が「働きやすい企業が発展する」仕組みをつくる理由
・日本が長時間労働を見直すべき理由
取材協力:川口 章(かわぐち あきら)氏
同志社大学 政策学部 政策学科 教授(取材時)。1958年香川県生まれ。1982年京都大学経済学部卒業、1984年京都大学大学院経済学研究科修士課程修了。1991年オーストラリア国立大学Ph.D.(経済学)。メルボルン大学経済商学部講師、追手門学院大学経済学部教授などを経て、2004年より同志社大学政策学部教授。専門は労働経済学で、ジェンダー経済格差を生み出す社会構造の分析に取り組む。著書に『ジェンダー経済格差』(勁草書房)、『日本のジェンダーを考える』(有斐閣)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
人的資本は60年以上前からある概念
人的資本とは、人が持つ知識やスキルなどを、機械や建物と同じように投資によって高められる「資本」と捉える考え方です。川口教授によると、経済学では1950〜60年代にこの概念が確立されていました。人にお金をつぎ込むことも一種の投資だと唱えたのが、米国の経済学者ジェイコブ・ミンサー、セオドア・シュルツ、ゲーリー・ベッカーらです。ベッカーの著書『ヒューマン・キャピタル』は世界中で読まれ、日本でも1976年に『人的資本』として翻訳出版されています。
労働経済学が専門の川口教授にとって、人的資本は当たり前の言葉でした。ところが「人的資本経営」という言葉は、ごく最近のものです。川口教授が日本経済新聞の記事を調べたところ、2021年以前は1件もなかったのに対し、2022年に32件、2023年に63件と急増していました。
人的資本経営が広まった4つの背景
| 背景 | 内容 |
|---|---|
| ① 有価証券報告書での開示の義務化 | 上場企業に人的資本に関する報告が義務づけられた |
| ② 国際規格の登場 | 2018年に人的資本情報開示のガイドラインとして国際規格ISO 30414が定められた |
| ③ ESG投資 | ESG投資の中で人的資本が重視されるようになった |
| ④ 政府の後押し | 経済産業省や金融庁が人的資本経営のコンソーシアムを支援している |
出典:川口教授への取材をもとに編集部作成
財務指標が重視されてきた中で、人的資本の重要性が年々高まり、そこに「人的資本経営」という言葉がうまく当てはまった――川口教授はそう見ています。そして、人を大切にする企業、働きやすい企業を投資家が評価し、そうした企業が発展する土壌ができつつあることを、非常によい流れだと評価しています。
日本企業は「社内で人を育てる」ことに力を入れてきた
高度経済成長期に形づくられた日本的経営は、新卒者を採用し、終身雇用を前提に企業内で育成するスタイルです。欧米では即戦力の採用が一般的で、インターンシップなどで働ける力を証明しないと雇われにくいのに対し、日本では働いた経験がほとんどない大学生を大企業が採用し、育ててきました。正社員を企業独自に育成するスタンスは今も続いていると川口教授は見ています。
人に関する情報開示の歩み――次世代法から有価証券報告書へ
川口教授によると、人に関する情報開示の流れは、今回の有価証券報告書が初めてではありません。
| 時期 | 制度 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 2003年施行 | 次世代育成支援対策推進法(次世代法) | 子育て支援に取り組む企業が一定の条件を満たすと「くるみん」マークを使える(認定は2007年開始) |
| 2015年成立 | 女性活躍推進法 | 一定規模以上の企業に、女性活躍に関する項目の公表を義務づけ |
| 2022年改正 | 女性活躍推進法 | 男女の賃金の差異(男性を100とした女性の水準)の公表を義務化 |
| 2023年3月期〜 | 有価証券報告書での人的資本開示 | 上場企業などに、女性管理職比率、男性の育児休業取得率、男女間賃金格差などの開示を義務づけ |
出典:川口教授への取材をもとに編集部作成。制度の詳細な対象範囲は各法令で確認が必要
ただし、これまでの次世代法や女性活躍推進法が主に労働者に向けた情報提供だったのに対し、有価証券報告書での開示は主に投資家に向けた情報提供であり、意味合いが大きく異なると川口教授は指摘します。
「もっと多くの項目を開示してほしい」
初年度の開示では、ほとんどの企業が、管理職に占める女性の割合、男性の育児休業取得率、男女の賃金の差異の3つを公表していました。労働の研究者である川口教授は、残業時間や有給休暇取得率なども必要ではないかと考えています。初めて有価証券報告書を読んだという川口教授は、情報を探すのが大変で、もっとわかりやすく開示してほしいとも感じたといいます。
情報開示のメリット――働きやすい企業が発展する仕組み
川口教授は2008年の著書『ジェンダー経済格差』(勁草書房)の最後で、育児休業取得率や有給休暇取得率などの情報開示を義務化すべきだと強く主張しました。その理由は2つあります。
| 理由 | 内容 |
|---|---|
| ① 働きやすい企業が有利になる | 開示されれば、求職者は働きやすい企業を選んで応募する。よい人材が働きやすい企業に集まり、その企業が発展していく。市場の競争メカニズムを機能させるには、情報を隠していてはいけない |
| ② 費用がほとんどかからない | 保育園をつくるには自治体に億単位の費用がかかるが、情報開示なら、政府は開示のためのホームページを用意すればよい。税金をほとんど使わずに、働きやすい企業が発展する政策になる |
16年越しで、ようやく日本の制度がその提案に追いついてきた形です。開示項目はまだ少ないものの、すべての上場企業が開示するとなれば、かなりの変化が生まれると川口教授は期待しています。
働きやすさを強みとして伝えるには、まず自社の労働時間や休暇取得などのデータを整理し、わかりやすく示せる状態にしておくことが出発点になります。
自社の「働きやすさ」をデータで整理し、伝える
働きやすさを採用や投資家との対話に生かすには、労働時間や休暇取得、育児休業などの人的資本のデータを整理し、わかりやすく開示できる仕組みが欠かせません。DEFiDEの「HRキャピタルダッシュボード」は、人的資本報告の国際規格ISO 30414に基づき、11領域58指標のデータを企業規模に応じて可視化・レポートできるクラウドサービスです。大企業から中小企業まで、社内外への情報開示を支援します。
働きやすさの土台は「労働時間の短縮」
従業員が効率よく働くための人事制度として、川口教授が最も重要だと考えるのが労働時間の短縮です。日本は他の先進国と比べてかなりの長時間労働で、日本と大きく変わらないのは米国と韓国くらいだといいます。
| 国・地域 | 労働時間をめぐる取り組み(川口教授の紹介) |
|---|---|
| ヨーロッパ | 残業を含めて週48時間が上限。企業も政府も労働時間の短縮に取り組み、生産性の向上にもつながっている |
| ドイツ | 残業をすると収入が増えるのではなく、別の日に休む「労働時間口座」制度が広く普及している |
| ノルウェー | 決められた時間内に仕事を終えられない人は評価されない。残業をすると上司に注意される |
出典:川口教授への取材をもとに編集部作成
川口教授は、日本企業も残業しない人を高く評価するよう評価の仕方を変え、人件費を減らす努力をすべきだと言います。正社員なら2〜3時間の残業が当たり前という職場では、夫婦がともに正社員として働きながら子育てをすることはできません。
韓国の例――女性活躍が進んでも、長時間労働では少子化が深刻に
韓国も日本以上の長時間労働の国です。それでも女性の管理職は日本より多くなり、世界経済フォーラムの「ジェンダーギャップ指数」では韓国が日本を上回っています。一方で、長時間労働のまま女性の活躍が進んだ結果、仕事と子育ての両立が難しく、結婚や出産を選ばない人が増えたと川口教授は指摘します。
| 指標 | 日本 | 韓国 |
|---|---|---|
| ジェンダーギャップ指数(2026年版) | 117位(G7で最下位) | 101位 |
| 合計特殊出生率(2025年) | 1.14(過去最低) | 0.80(暫定値。前年0.75から上昇) |
出典:世界経済フォーラム「Global Gender Gap Report 2026」、厚生労働省「令和7年人口動態統計月報年計(概数)」、韓国統計庁(暫定値)
女性の活躍を進めるだけでは足りず、仕事と子育ての両立を可能にする労働時間の短縮は、少子化対策としても重要だと川口教授は語ります(働きがいと私生活の好循環については、上林憲雄教授の解説記事でも紹介しています)。
よくある質問(FAQ)
Q. 人的資本の情報開示のメリットは何ですか?
A. 川口教授は、開示によって求職者が働きやすい企業を選べるようになり、よい人材が働きやすい企業に集まって、その企業が発展していく市場の仕組みができることを最大のメリットに挙げています。また、保育園の整備などと比べて費用がほとんどかからない政策である点も評価しています。
Q. 人的資本とはいつからある考え方ですか?
A. 川口教授によると、人的資本は経済学で1950〜60年代に確立された概念です。米国の経済学者ジェイコブ・ミンサー、セオドア・シュルツ、ゲーリー・ベッカーらが、人にお金をつぎ込むことも投資だと唱えました。一方、「人的資本経営」という言葉が日本経済新聞に登場するのは2022年以降です。
Q. 日本ではいつから人に関する情報開示が求められてきましたか?
A. 2003年施行の次世代育成支援対策推進法(くるみん認定)、2015年成立・2022年改正の女性活躍推進法などで、子育て支援や女性活躍に関する情報開示が進められてきました。2023年3月期からは、有価証券報告書での人的資本の開示が上場企業などに義務づけられています。
Q. なぜ労働時間の短縮が必要なのですか?
A. 川口教授は、日本は他の先進国と比べて長時間労働で、正社員の夫婦が共働きで子育てをするのは難しいと指摘しています。ヨーロッパでは残業を含めて週48時間が上限で、生産性の向上にもつながっています。労働時間の短縮は、働きやすさの土台であり、少子化対策としても重要だとしています。
Q. 女性活躍が進めば少子化は改善しますか?
A. 川口教授は、韓国の例を挙げ、長時間労働のまま女性の活躍が進むと、仕事と子育ての両立が難しく、結婚や出産を選ばない人が増えると指摘しています。女性活躍とあわせて、労働時間の短縮で両立を可能にすることが必要だとしています。
まとめ:情報開示は「働きやすい企業が報われる」仕組み
- 人的資本は経済学で60年以上前から使われてきた概念。「人的資本経営」は開示義務化やESG投資を背景にここ数年で広まった
- 人に関する情報開示は、次世代法、女性活躍推進法を経て、有価証券報告書での開示へと進んできた
- 情報開示は、求職者が働きやすい企業を選び、働きやすい企業が発展する市場の仕組みをつくる。しかも費用がほとんどかからない
- 開示項目には、残業時間や有給休暇取得率なども加えてほしいというのが川口教授の考え
- 働きやすさの土台は労働時間の短縮。少子化対策としても欠かせない
後編では、長時間労働を美徳とする価値観の変え方、終身雇用の崩壊と新しい雇用のあり方、家事・育児の男女差、男性の育児休業の重要性、そして中小企業が働きやすさを積極的に発信すべき理由について解説します。
長時間労働に頼らない評価制度を、プロと一緒に
残業しない人が高く評価される職場をつくるには、労働時間ではなく役割や成果で評価する人事制度への見直しが欠かせません。DEFiDEの「JOB Scope」は、人事コンサルティングと人事クラウドの2軸で、経営に直結する戦略人事の制度設計から組織への定着までを支援する人事制度改革プラットフォームです。
▶ 後編:男性の育児休業はなぜ大切か?ワーク・ライフ・バランスが女性活躍につながる条件と、中小企業が「働きやすさ」を発信すべき理由(内部リンク)
▶ インタビュー全文:働きやすさに自信がある会社ほど、人的資本情報を開示する効果が大きい(前編)(JOB Scopeマガジン)