ゆる起業とは、事業を大きくすることよりも、好きなことや得意なことで無理なく暮らしと家族を支えることを目指す起業の形です。東京都立大学の高橋勅徳准教授は、海外で「ライフスタイル起業」として研究されてきたこの働き方を、会社勤め以外のキャリアの選択肢として、もっと身近に捉えてよいと語ります。
起業というと、事業計画を立てて資金を集め、上場を目指す――そんなイメージを持つ人が多いかもしれません。しかし、起業の相談に来る学生の多くが望んでいるのは、急成長ではなく「会社に振り回されず、自由に暮らせること」だといいます。
本記事では、企業家研究を専門とする高橋准教授へのインタビューをもとに、ゆる起業の考え方とそのモデルになった職人の生き方、成長を目指さない理由、ライフスタイル起業がオセアニアで生まれた背景と各国の例、そして「週3日の仕事で平均年収を稼ぐ」という発想を解説します。
この記事でわかること
・ゆる起業(ライフスタイル起業)とは何か
・あえて事業を大きくしない理由――規模拡大がもたらすリスク
・「低成長」「低関与」を貫く経営のあり方
・ライフスタイル起業がオセアニアで生まれた背景と、米国・日本の例
・週3日の仕事で平均年収を稼ぐという、起業のハードルの下げ方
取材協力:高橋 勅徳 氏
東京都立大学大学院 経営学研究科 准教授(取材時)。神戸大学大学院経営学研究科博士課程後期課程修了、博士(経営学)。沖縄大学法経学部専任講師、滋賀大学経済学部准教授、首都大学東京大学院社会科学研究科准教授を経て現職。専攻は企業家研究、ソーシャル・イノベーション論。第4回日本ベンチャー学会清成忠男賞本賞、第17回日本NPO学会賞優秀賞を受賞。著書に『ライフスタイル起業』(大和書房)、『なぜあの人は好きなことだけやって年収1000万円なのか? 異端の経営学者と学ぶ「そこそこ起業」』(集英社)、『アナーキー経営学』(NHK出版)など。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
ゆる起業とは――成長よりも「充実した生き方」を目指す起業
ゆる起業とは、高橋准教授が10年ほど前から提唱してきた概念で、成長を目指さず、好きなことや得意なことで生活と家族を支えられれば十分と考える起業のあり方です。海外では、ライフスタイル起業(ライフスタイル・アントレプレナーシップ)として研究されてきました。
高橋准教授が起業に関心を持ったきっかけの一つは、学生からの起業相談でした。相談に来る学生の約9割が、「会社勤めをしたくない」「自由な生活がしたい」と答えるといいます。ところが、書店に並ぶ起業の本の多くは、事業計画を立て、銀行から融資を受け、上場して株式の売却益を得るといった、ITベンチャー型の起業を前提にしています。
| 観点 | ITベンチャー型の起業 | ゆる起業(ライフスタイル起業) |
|---|---|---|
| 目的 | 事業を急成長させ、上場や株式の売却益を目指す | 会社に振り回されず、生活を楽しむための十分な収入を得る |
| 規模 | 拡大を前提にする | 家族が幸せに暮らせる規模にとどめる |
| 資金 | 銀行融資や投資家からの出資で、大きく投資する | 借り入れに頼らず、小さく始める |
| 働き方 | 経営に専念し、事業の成長を優先する | マイペースに働き、趣味や家族との時間も大切にする |
出典:高橋准教授への取材をもとに編集部作成
学生の志向と、既存の起業論との間にはずれがある。高橋准教授は2015年ごろから「ゆる起業の研究をする」と発信し始めました。同じころ、オセアニアでもライフスタイル起業家への注目が高まり、国際学会が開かれるまでになったといいます(低リスク・低投資で起業する「そこそこ起業」の考え方については、高橋准教授の前回の解説記事でも紹介しています)。
モデルは、大工だった父の生き方
ゆる起業のモデルになったのは、高橋准教授の父親です。団塊の世代の大工で、高度成長期に独立し、バブル期には関西圏で現場を渡り歩いて稼いでいました。同世代の大工の多くは会社をつくって工務店を経営しましたが、父は軽バンとトラックで仕事をこなし、釣りやソフトボールも楽しむマイペースな働き方を続けたといいます。
会社にすることを勧められても、父は断りました。会社にすれば自分は現場に出られなくなり、従業員に給料を払うために、気の進まない仕事も受けなければならなくなる――「そんなのは面白くない」というのが、その理由でした。高橋准教授は2010年ごろ、この考え方を改めて思い起こしたといいます。
なぜ事業を大きくしないのか――「低成長」と「低関与」
行列ができる人気のラーメン店でも、あえて支店を出さない店主がいます。高橋准教授は、その判断には合理性があると言います。規模を広げればリスクが増え、経営に専念するほど、自分が好きだった現場から離れることになるからです。
ライフスタイル起業は、2000年代初頭にニュージーランドのマッセイ大学などの研究者が提唱した概念です。研究の対象になったのは、ニュージーランドやオーストラリアで、B&B(朝食付きの小さな宿)や観光ガイドを営む小規模な事業者でした。
| 特徴 | 内容 |
|---|---|
| 低成長 | 成長を目指さず、常連客を中心に、家族が幸せになれる規模で事業を続ける |
| 低投資 | 借り入れをして改装や拡大をしないため、返済のために客を集め続ける必要がない |
| 低関与 | 行政や政治家、コンサルタントからの誘いや補助金は基本的に断る。ただし、自分たちの暮らしや、観光の資源になる自然を守る環境保護活動には関わる |
出典:高橋准教授への取材をもとに編集部作成
こうした経営は、かつての経営学では「未熟な経営」とみなされてきました。しかし2010年代以降、再評価が進みます。結果として、無理のない規模で経営してきた人のほうが長く事業を続け、成長を追い求めた経営者が突然行き詰まる例が多かったからです。例えば、コロナ禍で観光客が途絶えたときも、トレーラーハウスなど少ない投資で営む宿泊施設は生き残ったといいます。
ライフスタイル起業はなぜオセアニアで生まれたのか
高橋准教授は、ライフスタイル起業がオセアニアで生まれた背景には、欧米や日本とは異なる起業の環境があったと指摘します。
| 観点 | 米国・日本 | オセアニア(南半球) |
|---|---|---|
| ベンチャー向けの金融 | 1990年代に、米国のナスダックや日本のジャスダックなど、ベンチャー企業向けの株式市場が整った | ベンチャー向けの金融の仕組みの整備が遅れた |
| IT分野の人材 | 国内で起業する | IT分野を目指す若者は、語学力を生かして米国へ移る傾向があった |
| 国内の産業 | 多様な産業がある | 国内に残る人の多くは、主要産業である農業や観光業に従事 |
出典:高橋准教授への取材をもとに編集部作成
市場が小さく、競争相手となる大企業も少ない。そうした環境では、自分の手の届く範囲で営むスモールビジネスが、現実的な選択肢になったのです。
米国や日本にも、ライフスタイル型の起業はある
ライフスタイル型の起業は、オセアニアに限ったものではありません。米国では、小劇団やアート系の起業に多く見られます。上場とは縁の薄い分野で、創作の自由を守るために、あえて規模を広げないのです。日本でも、ラーメン店をはじめとする外食産業によく見られます。一方で、IT、バイオ、製薬などの分野では、今も上場と株式の売却益を前提とした起業が必要とされています。
高橋准教授がかつて赴任した沖縄でも、親族が出資し合って食堂を開き、十数人ほどの常連客で家族の生活が成り立っている例があったといいます。今では「おばぁの味」として観光資源にもなっています。食堂やダイビングショップ、民宿などで、週3日ほど働いて十分に暮らしている人も少なくないそうです。
なぜ今、ゆる起業が見直されているのか
高橋准教授は、豊かな人生を何より大切にする価値観は、もともと日本人にもあったと言います。それがいつの間にか忘れられ、「ライフスタイル起業」という言葉で再び注目されているのです。米国のZ世代にも、週3日ほど効率よく働いて今の年収を維持できるなら、会社を辞めてもよいと考える人が増えているといいます。
会社で働き、自己研鑽も会社の役に立つスキルに限られる――高橋准教授は、こうした働き方を、ほかの選択肢が見えないまま「余儀なくされている」状態だと捉えます。働く目的を「人生を楽しむため」という原点に戻し、その手段として起業があってもよい。これが、ライフスタイル起業の出発点です。
かつては多くの人が自営で生計を立てていました。ゆる起業は、平たく言えば自営です。それが今、キャリアの選択肢から外れてしまっていることに、高橋准教授は問題意識を持っています(会社に頼らず自らキャリアを切り開く考え方については、小杉俊哉氏の解説記事でも紹介しています)。
新自由主義経済の下で、足元から暮らしを楽にする
ライフスタイル起業は、政府の介入を最小限にし、市場競争による効率化を重視する新自由主義経済に対する、オルタナティブ(もう一つの選択肢)の一つとされています。経営者の報酬が大きく伸びる一方で、働く人の平均年収はこの30年ほど伸び悩んでいると高橋准教授は指摘します。
そのうえで高橋准教授が経営学の立場から提案するのは、経済の仕組みそのものを変えることではなく、豊かになった社会の仕組みを上手に利用して、気楽に稼ぐ方法を示すことです。例えば、SNSで依頼を受け付ける小さな仕事や、同人誌の世界でイラストを1枚2万〜3万円で描く仕事などは、営業のコストがほとんどかかりません。
月30万円の売り上げは、事業の規模としては小さくても、個人にとっては立派な収入です。そうした稼ぎ方が身近に散らばっていると知るだけでも、生きやすくなる――高橋准教授はそう考えています。趣味に打ち込みたい人、家族を大事にしたい人、愛着のある土地で暮らしたい人にとっても、ゆる起業は有力な選択肢になります。
社員がどんな働き方や暮らし方を望んでいるのかは、企業にとっても見過ごせないテーマです。働く人の価値観が多様になるほど、一人ひとりが仕事に何を求めているかを知ることが、人材を生かす出発点になります。
社員一人ひとりが仕事に求める価値観を把握する
働き方や暮らし方への考え方が多様になるなか、社員が仕事に何を求めているかを知ることは、配置や育成、定着を考える土台になります。DEFiDEの「生成AIワークバリュー・スコア分析」では、従業員が仕事に求める価値観を分析し、施策を考えるヒントを得られます。
週3日の仕事で平均年収を――起業のハードルを下げる
高橋准教授は前著『なぜあの人は好きなことだけやって年収1000万円なのか?』で、ライフスタイル起業の考え方を日本に紹介しました。反響は大きかった一方で、読者からは「熱中できる趣味も特技もない人は、ライフスタイル起業ができないのか」という質問が多く寄せられたといいます。
前著で取り上げた人の多くは、その分野のスペシャリストでした。年間に数千部を売る同人誌の作家や、日本一を経験したレーシングチームのメカニックが営むマウンテンバイクの専門店などです。しかし、そこまでの趣味や特技を持つ人は一握りです。高橋准教授は「それはもったいない」と感じ、趣味や特技がない多くの人でも取り組める方法を示そうと考えました。
| 観点 | 前著 | 新著『ライフスタイル起業』 |
|---|---|---|
| 想定する人 | 趣味や特技を極めたスペシャリスト | 熱中できる趣味や特技がない人も含む |
| 目標の例 | 好きなことで年収1000万円 | 週3日ほどの仕事で、世間の平均年収とされる450万円程度 |
| ねらい | ライフスタイル起業という考え方を紹介する | 「これならできるかもしれない」と思えるまでハードルを下げ、身近な実践例をマニュアル的にまとめる |
出典:高橋准教授への取材をもとに編集部作成
会社を辞めても今の年収を保つ、あるいは多少下がっても平均年収程度を稼ぎながら、労働時間は会社勤めの半分ほどにする。そうした方法は身の回りに多く存在し、実際に実現している人もいる――新著は、そのことを伝えるために書かれたといいます。
よくある質問(FAQ)
Q. ゆる起業とは何ですか?
A. 事業を大きくすることよりも、好きなことや得意なことで無理なく暮らしと家族を支えることを目指す起業の形です。高橋准教授が10年ほど前から提唱してきた概念で、海外では「ライフスタイル起業(ライフスタイル・アントレプレナーシップ)」として研究されてきました。
Q. なぜ事業を大きくしない起業が評価されるのですか?
A. 規模を広げるとリスクが増え、経営に専念するほど現場から離れることになるためです。2010年代以降の研究では、無理のない規模で経営してきた人のほうが長く事業を続け、成長を追い求めた経営者が突然行き詰まる例が多かったことから、再評価が進んでいます。
Q. ライフスタイル起業の特徴は何ですか?
A. 成長を目指さず家族が幸せになれる規模で続ける「低成長」、借り入れで拡大しない「低投資」、行政などからの誘いや補助金を基本的に断る「低関与」が特徴です。ただし、自分たちの暮らしや自然を守る環境保護活動には関わるとされています。
Q. ライフスタイル起業はなぜオセアニアで生まれたのですか?
A. 高橋准教授は、ベンチャー向けの金融の仕組みの整備が遅れたこと、IT分野を目指す若者が米国へ移る傾向があったこと、国内では農業や観光業が主要産業で市場も小さかったことから、手の届く範囲で営むスモールビジネスが現実的な選択肢になったと説明しています。
Q. 趣味や特技がなくてもゆる起業はできますか?
A. 高橋准教授は、熱中できる趣味や特技がない人でも取り組める方法があるとしています。新著『ライフスタイル起業』では、週3日ほどの仕事で世間の平均年収とされる450万円程度を稼ぐことを目標の例に、身近な実践例をまとめています。
まとめ:起業を、充実した人生のための選択肢の一つに
- ゆる起業とは、成長よりも、好きなことで無理なく暮らしと家族を支えることを目指す起業
- 規模を広げるとリスクが増え、現場からも離れる。あえて大きくしないことには合理性がある
- ライフスタイル起業は、低成長・低投資・低関与を特徴とし、オセアニアで提唱された
- 働く目的を「人生を楽しむため」に戻し、その手段として起業を捉え直す動きが広がっている
- 週3日ほどの仕事で平均年収程度を稼ぐなど、起業のハードルは下げられる
では、社員がこうした起業や副業を考え始めたとき、会社はどう向き合えばよいのでしょうか。後編では、副業や独立を「会社の損失」ではなく「経営のプラス」と捉える考え方と、社員のスピンアウトを支援してビジネスパートナーにする経営、そして中小企業こそライフスタイル起業の意義を理解すべき理由を紹介します。
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