人的資本経営が世界的に注目されるのは、企業を長期で保有する投資家が、将来の成長を左右する要因として「人」に目を向けるようになったからです。東京大学の大木清弘准教授は、さらに、開示という外圧にいち早く対応できるかどうかで、変化に強い企業かどうかが見極められている面もあると指摘します。
人的資本経営や人的資本の情報開示は、欧米が主導する制度的な流れの一つです。日本企業はその対応に追われていますが、そもそもなぜこれほど注目されているのでしょうか。
本記事では、日本の製造業の海外展開と人材育成を長く研究してきた大木准教授へのインタビューをもとに、人的資本経営が世界のトレンドになった背景、投資家が人的資本に注目する本当の理由、日本で特に注目される事情、そして「ものづくりは人づくり」と言われてきた日本企業の人づくりの実態について解説します。
この記事でわかること
・投資家の評価軸は「資産」から「数字」、そして「人」へと移ってきた
・人的資本が将来の成長を示す指標として注目される理由
・開示という外圧への対応スピードが、企業評価につながる理由
・日本で人的資本経営が特に注目される背景
・日本企業は本当に人を大切にし、人を育ててきたのか
取材協力:大木 清弘(おおき きよひろ)氏
東京大学大学院 経済学研究科・経済学部 准教授(取材時)。1985年神奈川県生まれ。2007年東京大学経済学部経済学科卒業。2011年東京大学大学院経済学研究科博士課程経営専攻単位取得退学。2014年関西大学商学部助教、同年10月から東京大学大学院経済学研究科講師を経て、2019年から現職。博士(経済学)(東京大学)。専門は国際経営で、日本の製造業の海外製造子会社のパフォーマンス向上などを研究。著書『多国籍企業の量産知識:海外子会社の能力構築と本国量産活動のダイナミクス』(有斐閣、2014年)で国際ビジネス研究学会「学会賞(単行本の部)」を受賞。
聞き手:JOB Scopeマガジン編集部
「人づくりは大事」という言葉への違和感から
大木准教授の専門は国際経営です。日本の製造業の海外製造拠点を中心に、数百の現場を訪れ、海外子会社のパフォーマンスをどう高めるかを研究してきました。数千人、1万人規模の従業員を抱える工場で大切なのは、現地の組織がしっかりしていること。駐在員と現地のナショナルスタッフのチームワークが鍵であり、そのために本社はどうあるべきか、人材育成をどうすべきかを研究してきました。
ものづくり企業は、国内外で人材育成をとても重視してきました。しかし2000年ごろから派遣や短期雇用が増え、人を固定費と捉えて削る動きも出てきました。現場では長期的な人材育成が難しくなっていたのです。だからこそ大木准教授は、多くの製造業が口にする「人づくりは大事」という言葉に、本当にそうなのかという違和感を持ちながら研究を続けてきたといいます。
2019年ごろには「人的資本の情報開示の流れが来ている」と聞き、2020〜21年ごろから人的資本に関する議論に加わってきました。トレンドになる前から人的資本経営に関わってきた研究者の一人です。
人的資本経営はなぜ世界のトレンドになったのか――投資家の視点
大木准教授は、人的資本経営が世界のトレンドになった背景を、投資家が「よい企業」をどう見極めてきたかという変化から説明します。
| 時代 | 投資家が注目したもの | 限界 |
|---|---|---|
| かつて | 企業が持つ資産や不動産 | 将来の成長を示すものではない |
| その後 | 利益率など会計上の数字 | 会計不祥事もあり、会計情報は現時点の状況で将来を保証しないとわかった |
| 近年 | よいビジネスモデルや新商品・新技術を生み出せる力 | 数字や一般に公開された情報だけでは見えにくい |
| 現在 | 人的資本(新しい知識やビジネスモデルを生み出す「人」) | 企業の人への投資は定量的に示されてこなかった |
短期的な利益を狙う投資家だけでなく、中長期の保有を前提に、企業の健全な成長を期待する投資家も少なくありません。長期的に成功する企業とは、新しい知識やビジネスモデルを生み出せる企業であり、それを生み出すのは人です。そこで、人への投資の情報を外部に示すよう求める流れが生まれた――それが人的資本の情報開示のトレンドの背景だと大木准教授は理解しています。
開示という「外圧」に、いち早く動けるかが試されている
大木准教授は、もう一つの見方も示します。ESGや人的資本の潮流は、企業にとって「やらされ仕事で面倒」と感じられるものです。こうした面倒な外圧に、いち早く動ける企業とそうでない企業があれば、投資家は前者を評価します。
いち早く動けるということは、世の中のトレンドを理解し、新しい要求にスピーディーに対応できる意思決定の仕組みを持っていることを示すからです。普段は甲乙つけがたい企業をあえて揺さぶることで、投資家はよい企業と悪い企業を見極めようとしているとも受け取れる、と大木准教授は言います。人的資本が本当に大事かどうかは別として、それに対応できること自体が、VUCAの時代に求められる「環境変化への強さ」の証明になるのです。
| 人的資本経営が注目される背景 | 内容 |
|---|---|
| ① 投資家の視点 | 長期的な成長につながる要因として、人的資本に注目が集まっている |
| ② 変化への対応力の見極め | 開示という外圧へのスピーディーな対応が、環境変化に強い企業の証明になる |
| ③ 日本の政策 | 株価の上昇を目指す政府の「資産所得倍増プラン」との関わり |
| ④ 人事コンサルティング業界 | 新たなテーマとして盛り上げている面もある |
出典:大木准教授への取材をもとに編集部作成
投資家に「いち早く動ける企業」として評価されるには、人的資本の情報を整理し、わかりやすく示せる体制を整えておくことが近道です。
投資家に伝わる形で、人的資本を可視化する
人的資本の情報開示にいち早く対応するには、人的資本のデータを体系的に整理し、社内外にわかりやすく示せる仕組みが欠かせません。DEFiDEの「HRキャピタルダッシュボード」は、人的資本報告の国際規格ISO 30414に基づき、11領域58指標のデータを企業規模に応じて可視化・レポートできるクラウドサービスです。
日本企業は本当に人を大切にしてきたのか
「ものづくりは人づくり」と言われてきた日本企業は、本当に人を大切にしてきたのでしょうか。大木准教授は「難しい問い」としたうえで、製造業を念頭に次のように整理します。
ブルーカラーとホワイトカラーの「待遇の近さ」
戦後の人手不足の中で、日本企業は高卒者を工場のオペレーターとして雇い、事務職に近い待遇を用意しました。その結果、ブルーカラーとホワイトカラーの待遇の近さが生まれたとされています。実際、大木准教授が紹介したジェトロ(日本貿易振興機構)の2020年のデータでは、日本では現場の作業者と課長の賃金格差が2倍以下なのに対し、タイのバンコクでは9倍にのぼります。ブルーカラーの待遇という点では、人を大切にしてきたといえます。
人手不足の中で辞めてほしくなかったからこそ、終身雇用や年功賃金で長く囲い込み、それなりの生活を保障してきた。その結果、「一億総中流」と呼ばれる状況が生まれました。
「人を大切にする」の意味が変わった
ただし、それを「人を大切にしてきた」と言えるかは、価値観によって変わると大木准教授は言います。
| かつての価値観 | 今の価値観 | |
|---|---|---|
| 「人を大切にする」とは | 頑張る人も頑張らない人も一定の待遇を受け、皆がそこそこ幸せであること | 頑張った人が報われること |
| 背景 | 会社が成長し、余裕があった | 成長が止まり、企業に余裕がない |
| 不満の声 | 少なかった | 「頑張っている人が報われない」という声が増えた |
かつての日本で人が育った3つの条件と「愛社精神」
人づくりを積極的にしていたのは事実だと大木准教授は言います。ただし、当時は今ほど体系立った育成ではなく、鉄拳制裁のような今でいうパワハラも多く、個人差もありました。それでも人が育ったのは、次の3つの条件がそろっていたからだと大木准教授は解釈しています。
- 生活の保障があった:終身雇用と年功賃金で、一定の暮らしが守られていた
- 長く残ることが前提だった:転職のハードルが高く、社内で成長するしかなかった
- 失敗の経験ができた:例えば1990年代の中国では、若手が現地スタッフと汗をかきながら工場を立ち上げるといった修羅場を経験できた
さらに、愛社精神のようなコミュニティ意識も見逃せません。特に地方では、会社や工場が地域を支え、社内の運動会や地域活動を通じて自分と会社が一体化していました。会社の成長のために自分も成長しようという意識が、結果として人づくりにつながっていたのです。
一方で今は、1990年代の中国と違い、すでに現地スタッフだけで回る工場に若手が行っても「お客さん扱い」になりかねず、同じ経験は得にくくなっています。かつての条件がそろわない今、人をどう育てるかを改めて考える必要があります。
よくある質問(FAQ)
Q. 人的資本経営はなぜ注目されているのですか?
A. 大木准教授は、中長期の保有を前提とする投資家が、将来の成長を左右する要因として人的資本に注目しているためだと説明しています。新しい知識やビジネスモデルを生み出すのは人であり、人への投資の情報を外部に示すよう求める流れが、人的資本の情報開示につながっています。
Q. 投資家は人的資本の開示で何を見ているのですか?
A. 人への投資が将来の成長につながるかに加え、大木准教授は、開示という面倒な外圧にいち早く対応できるかも見られていると指摘しています。いち早く動ける企業は、トレンドを理解し、スピーディーに意思決定できる仕組みを持つ、環境変化に強い企業だと評価されるためです。
Q. 日本で人的資本経営が特に注目されるのはなぜですか?
A. 大木准教授は、株価の上昇を目指す政府の「資産所得倍増プラン」との関わりや、人事コンサルティング業界が新たなテーマとして盛り上げている面もあると述べています。
Q. 日本企業はこれまで人を大切にしてきたのですか?
A. 大木准教授は、価値観によって答えが変わるとしています。戦後の日本企業はブルーカラーとホワイトカラーの待遇差を小さくし、終身雇用で生活を保障してきた点では人を大切にしてきたと言えます。一方、今は「頑張った人が報われること」が大切にすることだと捉えられるようになり、評価が変わっています。
Q. かつての日本企業で人が育ったのはなぜですか?
A. 大木准教授は、生活の保障があったこと、長く会社に残ることが前提だったこと、失敗の経験ができたことの3つの条件がそろっていたためだと解釈しています。加えて、会社と自分が一体化するようなコミュニティ意識も、人づくりにつながっていたとしています。
まとめ:人的資本経営は「変化への対応力」を示す機会
- 投資家の評価軸は、資産、会計上の数字を経て、将来の成長を生む「人」へと移ってきた
- 開示という外圧にいち早く対応できること自体が、環境変化に強い企業の証明になる
- 日本では政府の政策や人事コンサルティング業界の動きも、人的資本経営の注目を後押ししている
- 日本企業はブルーカラーの待遇を手厚くし、生活を保障してきたが、「人を大切にする」の意味は変わってきた
- かつての人づくりは、生活の保障、長期在籍、失敗の経験、コミュニティ意識に支えられていた
中編では、経営戦略に紐づいた人的資本開示の考え方、製造業でジョブ型とメンバーシップ型のどちらを選ぶべきか、グローバルニッチトップ企業の強み、そして海外展開での人材マネジメントについて解説します。
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かつてのように自然に人が育つ条件がそろわない今、人を育て、頑張った人が報われる仕組みを意図的につくることが求められます。DEFiDEの「JOB Scope」は、人事コンサルティングと人事クラウドの2軸で、経営に直結する戦略人事の制度設計から組織への定着までを支援する人事制度改革プラットフォームです。
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