第13回

中小企業 2代目、3代目
経営者のデジタル改革奮闘記

産業用電機機器の専門商社の2代目が挑むDX
株式会社サンヨーシステム~(前編)


2024/06/28

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本シリーズでは業界・業種を問わず、中小企業の2代目もしくは3代目の経営者の経営改革をテーマにする。特に「DX(デジタルトランスフォーメーション)への挑戦」にフォーカスを当てる。ITデジタルの施策に熱心に取り組み、仕事のあり方や進め方、社員の意識、さらには製品、商品、サービス、そして会社までを変えようとしている企業をセレクトする。

 

第1回 株式会社木元省美堂
第2回 株式会社木元省美堂
第3回 社労士法人名南経営
第4回 社労士法人名南経営
第5回 株式会社テクニカ

第6回 株式会社テクニカ

第7回 宮脇鉄管株式会社

第8回 宮脇鉄管株式会社

第9回 株式会社ツジマキ

第10回 株式会社ツジマキ

第11回 ヒグチ鋼管株式会社
第12回 ヒグチ鋼管株式会社



今回(第13回)と次回(14回)では、株式会社サンヨーシステム(川崎市)の2代目の代表取締役社長である鈴木圭祐氏を取材した内容を紹介したい。

同社は1996年の創業で、今年(2024年)で29年目。三菱電機の大型ビルや工場などで使われる産業用電機機器を販売する専門商社。鈴木社長は2005年に入社し、創業者である板倉陽三社長から10年かけて後継者になるべく、教育指導を受ける。2019年に2代目の社長に就任。社員や家族、取引先、顧客、株主、地域社会などを大切する経営を志している。2024年5月現在、正社員19人。売上10億円。 

 

 

 

01 ―――

先代は人本経営そのもの

 

「4年前(2020年)に創業者である先代が病気で他界しました。1938年生まれですから、ご存命ならば今年で86歳です。私が部下の頃から今に至るまで、常に尊敬する方です。これほどに立派な経営者とお目にかかったことはありません。

私の価値観からすると、すばらしい方でした。経営哲学や理念、経営者としての姿勢はまさに人本経営そのものです。会社を社員のものとして捉え、社員やその家族、取引先や顧客、株主などを大切にしていく姿勢です。経営者であり、オーナーである自分のことを優先することはしません。あの経営哲学を私なりに実践し、超えてみたい。これが、夢なのです。

先代の考えや経営、生き様がいかにすばらしかったかをせん越かもしれませんが、証明したい。少なくとも現時点までサンヨーシステムが多くの方に支えられ、きちんと存続できているのは、それが立証されているからだと思います。今の私があるのは先代のお陰ですので、機会あるごとにお墓参りをしています。血縁関係はないのですが、誕生日と血液型が不思議と同じでした」




02 ―――

先代に惹かれ、中途入社  

 

「先代は57歳で、1996年にサンヨーシステムを創業しました。それ以前は、三菱電機製品の特約販売店の会社に長く勤務していました。部下や同僚であった数人とほぼ同じ時期に辞めて、一緒に創業したのです。そのメンバーは中堅、ベテランが多く、お客さんも多数いたこともあり、創業当初から売上が多少ありました。はじめから脇をある程度固めて、ビジネスができる状態でスタートしたのでしょうね。

私は団塊ジュニアの世代であり、現在47歳です。2005年に28歳の時に中途採用で入社しました。募集要項に先代のお顔の写真が載っていたのですが、優しそうに見えました。今にして思うと、エントリーしたのはこの雰囲気に惹かれたことが大きいのかもしれません。三菱電機と資本関係はないものの、特約販売店ということで経営が安定しているようにも思えました。

正社員は10人前後で、売上は6億円程。入社すると先代はイメージしていた通りの方で、残業などはきちんと管理、規制されていて、ホワイトな会社で安心しました。その頃は私のような20代の社員が入社しても早期に離職するケースがあり、年齢層がやや高い気がしました。創業メンバーである中堅、ベテランの定着率は高かったのです」

 

 

03 ―――

中枢メンバーが一斉に退職 

 

「営業職として採用され、特にルート営業をしてきました。半年ほどの間、30代前半の気鋭の若手部長からマンツーマン指導を受け、その後は基本的には1人で動いていました。この部長はその後、退職するのですが、学ぶものは多かった気がします。仕事で大きな問題にぶつかったり、苦しむことはなく、私はルート営業に向いていたように思います。

入社1~2年後に社内事情で数人が退職しました。いずれも中堅、ベテランで、社の中枢にいた人たちです。聞く限りでは、会社の進んでいく方向性をめぐり、先代との間で考え方の違いがあり、退職し、会社を創立したようです。当時、私は29歳。経験が浅く、実績も乏しいですから、辞めていく人たちに誘われることはありませんでした。たとえ誘われても、きっとついてはいかなかったでしょうね。むしろ、頼りにしていた中堅、ベテランが辞めても、がんばろうとする先代を支えたいと思いました。人柄にとにかく惹かれていました」



04 ―――

70歳の「第2の創業」

 

「先代はこの時期に70歳になっていたこともあり、社長を退くことを実は考えていたようです。残った社員は、私など20代が6~7人しかいません。まだ戦力とは言いがたいレベルかもしれません。しかも、会社としてある程度の借入があったと聞きます。それでも「みんなが残ってくれるならば、私は経営を続ける」と話すのです。その男気にあらためて惹かれました。先が不透明ではありましたが、ついていきたいと思ったのです。先代にとっては、70歳の「第2の創業」といえるでしょうね。

もともと明るい性格のようですが、危機の時は努めて明るく振舞っていたように見えたこともあります。私は先代の後を継ぐ形で経営をしていますから、多少なりともわかるのですが、危機になると怖いことはあります。おそらく、先代もそれに近い思いになった時はあるのではないかなと思いますが、最後までそれを表わしませんでした。これは、なかなかできないでしょうね」

 

 

 

05 ―――

先代はどんなときも、社員に怒ったことがない

 

「どんなときも、社員に怒ったことがありません。いつもニコニコと笑顔でした。危機に陥ろうとも、穏やかでした。もしかすると、不安な時があったのかもしれませんが、それを表にしません。私たちが何かの問題やトラブルを引き起こしても、注意はしても怒ることは決してし

ませんでした。

たった1度だけ、怒ったのです。韓国への社員旅行の時に羽田空港に全員が集合しました。1人の社員が、遅刻をしたのです。当時、72歳になっていた社長が激しく叱ったのです。「なぜ、遅刻をするのか?今日は遊びだぞ。仕事ではないぞ」。この一言に、さらに惚れました。器が大きい方なのです。

職場では時々、「なんとかなる」と口にすることがありました。昭和13年生まれで、終戦(昭和20年)直後の焼け野原を知っているのです。「あの頃は空襲で本当に何もない。何もなくとも、死にはしない。あの時代に比べれば、今はたいしたことがない」。こんな具合に何度も話していました。2009年のリーマン・ショックの時にうちの会社は大丈夫ですかと尋ねた時にも、「心配はいらない」と言っていました。うろたえることなく、いつもほがらかで、明るかったです。本当に強い人でした」

 

 

06 ―――

経理は社長の報酬を含め、完全に公開

 

「マメな方でもあります。たとえば人の育成に熱心で、計画を立てるのです。私のケースで言えば、入社15年後の2019年に先代から事業を継承し、社長に就任するのですが、それよりも10年程前に言われたのです。「後継者になるように君を10年かけて育成したいのだが、どうだろうか」。心から惹かれている人から言われたのですから、意気に感じ、「がんばってみます」とすぐに返事しました。この10年を思い起こすと、今も涙が出てきます。

 

教え方は優しく、理不尽な厳しさはありません。特に中小企業経営者としての心構えを教わりました。経営理念については、念入りでした。先代は会社は社員のもの、と考えていました。たとえば、自分が保有する株式を社員にためらうことなく、譲渡するのです。詳細な経理公開も大胆に行っていました。隅々まで、全社員に見せるのです。

 

経理公開をする会社の中には売上や支出、利益などは見せるものの、社長をはじめ、役員の報酬はおおやけにしないケースがあります。先代は、自らの報酬をオープンにしていました。社員たちが働き、稼いだお金をどう使っているのかがきちんとわからないといけない、とよく話していました。そこには、こだわりがあるようでした。会社は社員のものとは言うものの、実際は経営者が私物化している会社があるのかもしれません。先代は、そのあたりに矛盾がないように徹底していました。社員のものと言う以上、様々な試みをして社員がそれを感じることができるようにしていくのです」

 

07 ―――

先代は社内の権力や必要以上のお金、財産を持たなかった 

 

「なぜ、矛盾がないようにしたのか、と先代が亡くなった後に考えることがあります。日頃、会社は社員のものと言いながらそれとは逆のことをしていると社員の心は離れていき、社内の状況がひどくなると考えていたからだと思います。先代は社内の権力や必要以上のお金、財産を持ちたくないようでした。名誉欲もありません。地元の経済団体から役職に就くことを打診されても、断っていました。何があっても、威張ったり浮かれたりすることはしません。社長であろうと、あくまで1人の社員として行動していました。

創業者であり、オーナーであるのにここまで謙虚で、控えめであるからすばらしいのです。私の想像でしかありませんが、自分で積み上げて手にしたものが必要以上になることの危うさや怖さを心得ていたのだろう、と思います。普通の会社員の平均レベルのお金や財産は持っているようでしたが、あるところ以上は決して持たない。持たないことの強さを理解しているようにも見えました。

手元にお金があるならば可能なかぎり、社員の育成につぎこんでいるようでした。だからこそ、すごい方であり、尊敬しているのです。お金は手段でしかない、とも教えられました。接した人たちがその姿勢に何かを感じていたのではないでしょうか。お墓参りをすると誰かが参りに来ていたようで、花がいつもたくさんあります。きっと、愛される方だったのでしょうね」



 

08 ―――

先代の死

 

「2019年に先代から事業継承をした後は1年程、会長をしていました。翌年、風邪をこじらせ、入院し、1週間ほどで亡くなりました。もともと心臓がやや弱かったようですが、中小企業を経営しているために中途半端な形で辞めることができなかったのだろう、と思います。私を後継者として育成する10年計画もありましたから。最後まで責任をまっとうしたのです。

延命治療には抵抗感があったようで、医師に何度も延命のための治療をしないようにと言っていました。葬式も不要と身内には話していて、お葬式はなかったのです。亡くなる3日前まで私は病院に行っていましたが、有言実行の人生、生き様を最後まで見させていただきました。ますます惹かれるようになりました。

亡くなった後、遺族のもとへ伺い、株式のことを相談すると奥様が「主人(先代)から、自分の死後に鈴木(2代目社長)が来たら、彼の言う通りにするようにと言われています」とおっしゃるのです。中小企業の場合、私が知る範囲でいえばオーナーなどの株式を譲渡してもらおうとその家族にお願いすると、もめごとになったりする機会があるようです。家族が経営に介入してくることもあるようです。先代はそれらの問題がないように、生前から家族に繰り返し伝えていたそうです。その意味でも、立派な方だと思います。先代のことを話すと、今も泣けてくるのです」

(第14回)に続く  another-window-icon



第1回 株式会社木元省美堂
第2回 株式会社木元省美堂
第3回 社労士法人名南経営
第4回 社労士法人名南経営
第5回 株式会社テクニカ

第6回 株式会社テクニカ

第7回 宮脇鉄管株式会社

第8回 宮脇鉄管株式会社

第9回 株式会社ツジマキ

第10回 株式会社ツジマキ

第11回 ヒグチ鋼管株式会社
第12回 ヒグチ鋼管株式会社



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著者: JOB Scope編集部
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