シリーズ あの人この人の「働き方」
中小企業の社長に必要なもの
~ 作家 泉 秀樹(中編)~
信長に心酔し、憧れ、信頼し、崇敬し、信長を信仰していた
2025/3/31
前回に続き、今回は作家の泉秀樹氏に事業継承をテーマに取材を試みた。泉さんは1943年、静岡県浜松市に生まれ、産経新聞記者を経て、作家になる。1973年に小説『剥製博物館』で新潮新人賞を受賞。60年以上にわたり、歴史上の人物の評伝などを書き続けてきた。最新刊は、「士 SAMURAI」(有隣堂)。
現在は作家としての活動のほか、「J:COM湘南」で放送される歴史ドキュメンタリーの番組『歴史を歩く』の原作とナビゲーターも担当している。神奈川県を中心に、日本各地の歴史の舞台になった現場を元新聞記者らしく、精力的に訪ね歩く。そこで起こった事件の隠されたエピソードを、独自の視点や丁寧な調査や取材にもとづく、説得力のある偏見にもとづき、わかりやすく解説・分析する。J:COM湘南の数ある番組の中で最も視聴率が高く、ロングセラーとなっている。
目次
01 ―――
不遇の時代を送る利家にチャンスがめぐってきた
(前編 で述べたように)利家は信長のもとを離れ、不遇の時代を送っていたのですが、ある時にチャンスがめぐってきたのです。「桶狭間の合戦」(1560年)が勃発します。利家は黙って私的に織田軍に参加し、今川兵の首を三つ取ったのです。手柄をたてて、信長にゆるしてもらって帰参を願う算段だったのでしょうね。
信長は、これを無視しました。利家がとった首を田圃に投げ捨てたといわれています。それでも、利家はめげずに永禄4年(1561年)5月14日の美濃攻めの「森部の合戦」(岐阜県安八郡)にも、無断で個人的に参戦し「頸取くびとり足立」こと足立六兵衛という豪将を倒しました。これによって、又左衛門を名乗っていた利家は「槍の又左またざ」といわれるようになります。信長にようやく帰参をゆるされ、300貫の知行を得ました。
利家は、信長を尊敬していたのでしょうね。単なる尊敬ではなく、惚れていたとしかいいようがないのです。心底惚れていなければ、男が命をかけて戦に私的に参加して帰参を願うはずもないと思います。信長に心酔し、憧れ、信頼し、崇敬し、信長を信仰していたともいえます。なぜ惚れたといえば、それは魅力があったからでしょう。信長が、時代の先頭を走る天才だったからです。すさまじい天才とでもいうべき信長と自身の資質と分際を、利家はしっかり認識していたのでしょうね。
02 ―――
利家は前田家を相続できたことを信長に深く感謝した
利家の父・前田宗家の当主・利春が永禄3年(1560年)7月に亡くなると、惣領の利久が跡を継ぎました。利久は病弱なうえに、「将器なく」(『名将言行録』)といわれています。身体が弱く、将としての器ではなかったのです。
利久は、滝川益氏の妹(娘)を正室としていた。益氏は、織田家幕下の一流の軍団を率いる滝川一益の従弟です。利久は正室との間に娘をもうけ、その娘は織田秀信・信長父子に仕えていた熱田の富裕な商家であり、武将でもあった加藤隼人に嫁ぎます。しかし、永禄8年(1565年)に若くして亡くなってしまったのです。そこで利久は自分の弟の安勝の娘を養女にし、妻の実家である滝川益氏の庶子(次男)の滝川慶次を養子にもらい受けました。32歳の慶次を入婿にして自分の跡を継がせようと考えたのです。慶次は、のちの前田慶次です。
利久は、この養子縁組・後継者問題について信長に申請して許可を得ようとしました。永禄12年(1569年)10月のことですが、信長はこれを認めなかったのです。拒否したのには、それなりの理由がありました。信長は、前田家を警戒していたのです。前田家は林秀貞の配下にあったと述べましたが、秀貞は柴田勝家らとともに信長が対立していた弟の信行(信勝)を支持していたのです。
信長は永禄元年(1558年)に弟の信行を殺しましたが、信行を支持していた勢力に対する警戒を解いていたわけではなかったということです。慶次は前田家の直系の血をひいているわけでもないし、この反・信長勢力の末端に属していたから、信長が承認するわけがなかったのです。信長が14歳のときから忠誠を誓ってきて、身近で度々戦功を挙げていた利家を前田家の当主に選んだのは当然だったといえるでしょう。
信長は自分の近習として仕えている利久の弟の利家を前田家の後継にせよ、と命じました(『村井重頼覚書』)。この裁決を受け入れられなかった利久は、利家とのあいだが険悪になります。しかし、利久は信長の命令に従って、ただちに荒子城を利家に譲らざるをえなかったのです。利久は、不本意ながら剃髪して養子の慶次とともに城を出て隠居せざるを得なくなります。荒子城主(愛知県名古屋市中川区)となった利家は、2450貫文を知行することになりました。この年、32歳になっていた利家は四男坊でありながら、前田宗家を相続できたことを信長に深く感謝したでしょうね。
03 ―――
信長のために残虐な処刑も行う
信長のもとで、利家は手堅く戦功を挙げていきます。利家の実家の相続問題の前の年の永禄11年(1568年)、信長は越前の朝倉義景のもとにいた足利義昭を将軍職に就任させるため上洛するが、その前にまず近江に侵入し、六角氏の諸城を攻めました。
利家は、このとき箕作城(滋賀県近江市五個荘山本町)で一番槍で奮戦しました。元亀元年(1570年)4月、越前・手筒山城(福井県敦賀市)では先陣より先に突撃して勝機をつくったのです。伊勢の一向一揆でも、使番(伝令)としてよく働きました。「姉川の合戦」では、浅井一門であり、浅井長政の近臣である浅井助七郎と一騎打ちをやって首をとります。
天正元年(1573年)8月の小谷城攻めを経て越前・一乗谷城(滋賀県長浜市)の戦いのときは、最も激戦になった「刀根坂の合戦」(福井県福井市)で大将級の者の首を挙げました。「長篠の合戦」(愛知県新城市)では家臣の村井長頼が弓削を倒して、信長に羽織を拝領。さらに天正3年(1575年)8月、信長は柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、細川藤孝、荒木村重、そして利家ら3万の将兵を率いて越前に侵攻します。一向一揆鎮圧のためで、越前・府中(福井県武生市)の龍門寺に陣を置いて門徒宗の掃討戦を展開しました。
この作戦は、苛烈を極めます。15日、光秀と秀吉は府中で加賀・越前の一向宗徒を2万人斬殺します。18日には、勝家と長秀が鳥羽城(福井県鯖江市)を攻撃して500から600を斬殺。信長の小姓衆は、15日から18日までの4日間でなんと1万2250余名の一向宗徒を処刑しました。
この年の9月、信長は柴田勝家を越前八郡の国主に任じて北ノ庄城(福井城・福井市)に置き、利家(府中城)と佐々成政(小丸城)、不破光治(龍門寺城)の「府中三人衆」を、勝家を監視する目付として配置します。府中城(武生城・福井県武生市)で3万3000石を知行することになった利家は、北陸における百万石獲得の第一歩を踏み出しました。
この頃、上杉謙信が天正4年(1576年)から能登に侵攻し、丸岡城(福井県坂井市)に陣を構え、加賀に進出してきました。危機感から天正5年(1577年)8月、信長は柴田勝家を加賀(石川県)に進発させます。18日、手取川(湊川)を背に布陣した勝家軍と謙信軍が激突します。「手取川の戦い」(石川県白山市湊町)であり、上杉軍の猛攻に勝家軍は1000人を討たれ、残りは手取川に追い込まれ、大敗北を喫しました。
この合戦の前に参陣していた秀吉は、かねてから仲の悪かった勝家と争って無断で戦線離脱してしまっており、これも敗因のひとつでした。利家は勝家とともにこの戦に参加していたから、謙信の凄さに真っ青になって逃げたのでしょう。翌年の天正6年(1578年)には、摂津の国主・荒木村重が信長に叛旗を揚げて逃亡しました。翌7年の12月にはその妻子が京都の六条河原で処刑されますが、利家はその処刑の奉行衆の一人として刑の執行を行います。
この頃、依然として越前や加賀における一向宗徒に対する徹底した掃討戦がつづいていましたが、利家もまた天正8年(1580年)5月24日に残虐な処刑を行います。利家が好き好んでやったことではなく、信長の厳しい命令だったのだろうが、生け捕りにした1000人ばかりを殺す作業は辛かっただろうと想像できます。荒木村重の妻子の処刑と同様、後味の悪い仕事だっただろうが、信長の命令にそむくことはできなかったのでしょう。
32歳で前田宗家を相続してからずっと信長の忠実きわまりない「犬」として懸命に働き続けます。利家は着実に点数を挙げつづけ、天正9年(1581年)8月17日には越前・府中領を返上し、信長から能登四郡を下賜されたのです(『信長公記』)。
04 ―――
利家の思いやりとビジネス感覚が融合した民政家的な政策
利家は能登各地にかねてから土着していた40人ほどの長百姓(おとなびゃくしょう=有力な百姓)を「扶持百姓」として抜擢したのです。彼らの既得権を認め、扶持を給付してそれぞれの縄張りを支配させました。扶持百姓は、農地だけでなく能登半島の沿岸部をおさえていました。つまり、富山湾の制海権と経済活動もおさえていたのです。この支配体制は、利家の能登支配体制を補完強化することになりました。
扶持百姓は、のちに十数カ村をまとめて統治する加賀藩の「十村役(とむらやく)」として子孫に受け継がれていきます。前田家の軍事活動に協力し、年貢の徴収、夫役・奉仕、荒地の回復や新田開発、海の商売にも協力する義務を課せられました。統治者と被・統治者のウイン・ウインの関係を築いたということで、利家の思いやりとビジネス感覚が融合した民政家的な政策は実に巧妙だったといえるのではないでしょうか。
(後編へ)
シリーズ:『あの人この人の「働き方」 』
・ザリガニワークス(前編)
・ザリガニワークス(後編)
・木下サーカス(前編)
・木下サーカス(中編)
・木下サーカス(後編)
・木下サーカス(最終編)
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