シリーズ あの人この人の「働き方」
中小企業の社長に必要なもの
~ 作家 泉 秀樹(後編)~
生き抜くためにどう巧妙に裏切りを行えばよいか
2025/3/31
前々回(前編 )、前回(中編
)に続き、今回は作家の泉秀樹氏に事業継承をテーマに取材を試みた。泉さんは1943年、静岡県浜松市に生まれ、産経新聞記者を経て作家になる。1973年に小説『剥製博物館』で新潮新人賞を受賞。60年以上にわたり、歴史上の人物の評伝などを書き続けてきた。最新刊は、「士 SAMURAI」(有隣堂)。
現在は作家としての活動のほか、「J:COM湘南」で放送される歴史ドキュメンタリーの番組『歴史を歩く』の原作とナビゲーターも担当している。神奈川県を中心に、日本各地の歴史の舞台になった現場を元新聞記者らしく、精力的に訪ね歩く。そこで起こった事件の隠されたエピソードを、独自の視点や丁寧な調査や取材にもとづく、説得力のある偏見にもとづき、わかりやすく解説・分析する。J:COM湘南の数ある番組の中で最も視聴率が高く、ロングセラーとなっている。
01 ―――
秀吉こそ信長に劣らぬ天才であることを思い知らされる
利家は天下を取ろうとするような野心はなく、信長のような戦闘を走る武将の後を二番手、三番手として走ることに徹していたのです。誰が天下を取るのかを見極める目を持ち、そのそばにいる術を心得ていたのでしょう。今回は、その一例を述べます。
天正10年(1582年)2月、甲斐の武田勝頼を潰した信長は、次に北陸支配を目標に定めます。3月には柴田勝家を総大将とする佐々成政、そして利家たち三人の織田連合軍に、越中と越後の交通の要衝である魚津城(富山県魚津市)を3月から包囲攻撃させました。その前に織田連合軍は富山城(富山市)の争奪をします。危機感を抱いた上杉景勝は、5月19日に天神山城(富山県魚津市)に3800の兵とともに入って後詰の陣を張ります。
両者は、攻防戦を繰り返しました。織田連合軍は5月6日に魚津城の二の丸を占拠します。信濃・海津城の森長可や厩橋城の滝川一益が、背後を脅かしました。景勝は、5月27日に天神山城から陣を払うことになったのです。
そのあとも、織田軍と魚津城は攻防をくりかえします。6月2日から3日にかけて、魚津城を落城させました。3日の夜は、織田連合軍の将兵は勝利の美酒に酔いしれたでしょう。夜が明けて6月4日、二日酔い気味の織田連合軍に驚天動地の連絡がもたらされます。2日の朝、京都・本能寺で信長が明智光秀に殺されたという急報です。信長を殺した明智光秀を、羽柴秀吉はそれまで水攻めにしていた備中高松城(岡山市)から「中国大返し」して本能寺の変からわずか12日後に「山崎の合戦」(京都府乙訓郡・長岡京市)で苦もなく倒してしまいます。
利家は舌を巻いたことでしょう。それまでバカ話、滑稽なエロ話で人を笑わせるだけに見えていた秀吉が、みごとな戦略を駆使するのを見て、彼こそ信長に劣らぬ天才であることを思い知らされたのだと思います。秀吉が電光石火の動きを見せていたとき、利家は領国である能登で一揆が起きたり、石動山(石川県鹿島郡・七尾市・富山県氷見市)の僧兵や上杉方の兵が侵入してくる危険な情勢に対応するため、まったく動くことができなかったのです。
そうこうするうちに秀吉が、一躍「信長の後継者」の地位に成り上がっていったのです。秀吉の急激な成長によって、新たな混乱と対立が発生しました。織田一族が秀吉派と反・秀吉派に割れ、柴田勝家、滝川一益、佐々成政らが秀吉と対立します。清洲会議で信長の嫡孫・三法師をたてて秀吉が主導権を握ったことを、柴田勝家や織田信孝たちは許すことができなかったのです。
02 ―――
利家の人生と日本の歴史の運命を決定する談合
天正10年(1582年)10月15日、京都・大徳寺で信長の葬儀をとり行って1か月も経っていない11月3日、秀吉はこのころの居城であった山崎城(宝寺城・京都府乙訓郡大山崎町)において3人の男と会います。それは前田利家、不破勝光、金森長近です。3人とも柴田勝家の使者として秀吉を訪れ、和平について話し合ったのです。3人に対して、秀吉は和平に異存はないと快諾します。
あとになってから判明しますが、このときの話し合いが秀吉と利家と他の2人にとって重大な意味を持ってきます。この日の談合が、利家の人生の行方と日本の歴史の運命を決定することになるのです。
まず、秀吉は約束を守りませんでした。和平案を快諾したにもかかわらず、2日後に配下の筒井順慶を近江に出兵させます。12月9日には5万の兵をひきいて近江に侵入し、勝家の養子・勝豊がいた長浜城(滋賀県長浜市)を包囲し、戦うことなく手に入れます。
さらに織田信孝のいる岐阜城(岐阜県岐阜市)に迫り、降伏させます。勝家は、手を出せなかったのです。北ノ庄城(福井市)から出撃することを、きびしい冬の積雪にはばまれていたためです。勝家が冬の白い闇に閉じこめられている間に、秀吉は北伊勢を攻略します。その北伊勢も次々と秀吉の下に入るのを見て、勝家はみずから北近江に進出し、木ノ本(滋賀県伊香郡)一帯に火を放ち、余呉湖の北の内中尾山(海抜460m)に陣を構えます。天正11年(1583年)3月9日のことです。
秀吉はただちに北伊勢から佐和山城を経由して長浜城に入り、17日には余呉湖の南の賤ヶ岳(海抜422m)をおさえます。内中尾山に陣を構えた勝家に対して秀吉は木ノ本に進出し、あるいは長浜へ帰るなどして積極的に動かなかったのです。しかし、勝家に呼応する形で織田信孝が再び兵をあげたため、秀吉は急拠大垣(岐阜県)へおもむきます。
この機をついて、勝家の甥の佐久間盛政が秀吉側の大岩山の砦を攻めます。10日早朝のことで、両軍のバランスが崩れます。大岩山は佐久間軍に攻め落とされ、守将の中川清秀は戦死します。佐久間盛政はこの大岩山とすぐそばの岩崎山を占領し、そこに腰を据えます。盛政は現場には強かったのですが、大局は見えない男だったようです。
このとき勝家に与力していた利家は、嫡子の利長とともに、それまで守っていた別所山から茂山に移動します。それまでにらみあったまま動かなかった(動けなかった)両軍の陣形が変わります。秀吉は、急いで大垣から木ノ本へ戻ります。奪われた大岩山を木ノ本から攻め、退却する佐久間盛政の軍を追撃し、さらに盛政の弟・柴田勝政の部隊に襲いかかったのです。勝政は逃げて、盛政と合流して逆襲しようとしました。
ところが、このとき茂山に陣を張っていた利家の軍が、突然移動しはじめたのです。利家は盛政の左側面の背後を守っていたはずですが、前へ攻めて出ることをしないで、逆に退却しはじめました。盛政・勝政兄弟の軍が逃げて来るのを待とうともせずに、利家は自軍をまとめて退却逃亡したのです。敗走状態におちいった味方の様子を見て、勝家の軍からは敗走者があいつぎました。勝家の手もとには、3000ほどしか残らなかったといわれています。
勝家は、残りの兵で決戦に出ようとしたのですが、すぐ前面には羽柴秀長と堀秀政の大軍があり、勢いに乗った秀吉の本隊も迫っていたから、ここはひとまず北ノ庄城へ帰って決着をつけることにせざるをえなかったのです。北国街道を駆けて越前に入った勝家は、今ノ庄(福井県南条郡)を経由して利家の持ち城である府中城(福井県武生市)に入りました。
すでに府中城に逃げ込んでいた利家は、どんな顔で勝家を迎えたことでしょう。利家はいちはやく退却逃亡してしまったのだから、勝家に向ける顔などなかったはずです。府中城に立ち寄った勝家が「かくのごとくになったのは残念であり、なんら報いることができないことは申しわけない」といったという話があります。勝家は「かくなるうえは秀吉を頼め」といい、湯漬けを所望し、食し終わると馬をもらって走り去ったのです。
03 ―――
利家は合戦が始まる前から勝家を裏切っていた
勝家は、ひとことも利家の敵前逃亡を責めませんでした。そんな話はせず、いっとき懐しい昔話をし、それまで自分を「おやじさま」と呼んで親しく交際してくれたことに感謝し、そのうえ「秀吉に降れ」とまでいったともいいます。勝家はそういう潔さと侠気(おとこぎ)のある男だったのです。
勝家が走り去ったあと、秀吉も今ノ庄経由で武生に至り、府中城に立ち寄ります。秀吉は府中城に立てこもっている利家を説得するために堀秀政を差し向け、利家は降伏しました。ちょっと考えてみればわかることだが、利家は、その気になれば自分の城のなかで勝家か秀吉のどちらかを(あるいは両方とも)殺して、みずからが最も天下に近い席に座ることができる立場でした。
利家は、天下の頂上を目ざしていなかったのです。秀吉に向かって、オレは二番、三番走者だという意思を表明したかったからだと思います。それこそが、利家の生き方であったのです。秀吉は利家の府中城を攻めてもよかったのです。けれども攻めなかったのです。ここが、秀吉が天才であるゆえんなのですが、彼は、利家が、先頭を狙っていないことをとっくに見抜いていたのです。二番手か三番手ならば、攻め潰すより、味方にして利用するにしくはない、と綿密に計算していたはずです。
秀吉の幕下に入った利家は、勝家が立てこもった北ノ庄城攻撃の先鋒となりました。惚れた信長のために命をかけたように、今度は若いときからの親しい友である秀吉のために「犬」になって、利家は命をかけたのです。この律儀さ、誠実さもまた利家の身上であり、それが二番手がトップランナーに示すべき忠誠心というものだったのでしょうね。府中城に入った秀吉は、奥へ通って利家の妻・まつに「賤ヶ岳の合戦は利家が勝たせてくれた」と感謝したといわれています。

結論をいえば、利家は合戦が始まる前から勝家を裏切っていたのです。最初から秀吉と話ができていたのです。それは前年の11月3日、山崎城においてなされた密約です。勝家の使者として利家が不破勝光と金森長近とともに三人で和平交渉におもむいたことは先に触れたが、このとき秀吉に説得されたのです。勝家は、なにくれとなく利家に好意を示してくれた大先輩です。
しかし、秀吉に説得されて利家は他の二人ともども戦いもしないうちに戦線から離脱する約束をしたのです。この裏切りは、利家としては大層つらかったにちがいない。秀吉は、利家の娘・豪姫を養女に貰い受けていて実子のように可愛がっていました。利家は決定的な人質を取られていたから、秀吉に味方せざるをえなかったのです。
とはいえ、利家は三女の麻阿姫を勝家の家臣・佐久間十蔵に嫁がせてもいました。これもまた決定的な人質であるから、利家は苦しい立場にありました。どちらに味方しても、可愛い娘のどちらかを死なせることになる。となると、利家としては最終的には勝家と秀吉の戦力と時勢と運を冷静に天秤にかけたということでしょう。
賤ヶ岳の合戦における退却は見せかけの退却であり、それが秀吉の勝機になったのです。利家の動きがこの合戦の勝敗の最大の決定要因であり、利家隊の逃亡は前の年からひそかに約束されていたのです。利家は秀吉軍の先鋒となって「おやじさま」と呼んで敬愛していた勝家と信長の妹・お市のいる北ノ庄城に先鋒軍として押し寄せ、大いに戦果をあげます。秀吉は他の武将もしっかり調略してあったともいわれています。
戦いに敗れた勝家は北ノ庄城に火を放ち、お市とともに自刃します。北ノ庄城のなかにいた麻阿姫は侍女の阿茶子に助けられて城の櫓から町に逃げ出し、府中城から来ていた利家の軍に救われました。このときの利家の悩みの深さを想像すると、戦乱の世を、あるいは男が現代を生き抜くためにどう巧妙に裏切りを行えばよいか、自分の良心や心情と裏切り行為と、どのように折り合いをつけるかを考えさせられます。
(最終編へ)
シリーズ:『あの人この人の「働き方」 』
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