シリーズ あの人この人の「働き方」
中小企業の社長に必要なもの
~ 作家 泉 秀樹(最終編)~
生き抜くためにどう巧妙に裏切りを行えばよいか
2025/3/31
作家の泉秀樹氏に事業継承をテーマに取材を試みた内容を前編 、中編
、後編
と3回連続で掲載してきたが、今回は最終回となる。泉さんは1943年、静岡県浜松市に生まれ、産経新聞記者を経て作家になる。1973年に小説『剥製博物館』で新潮新人賞を受賞。60年以上にわたり、歴史上の人物の評伝などを書き続けてきた。最新刊は、「士 SAMURAI」(有隣堂)。
現在は作家としての活動のほか、「J:COM湘南」で放送される歴史ドキュメンタリーの番組『歴史を歩く』の原作とナビゲーターも担当している。神奈川県を中心に、日本各地の歴史の舞台になった現場を元新聞記者らしく、精力的に訪ね歩く。そこで起こった事件の隠されたエピソードを、独自の視点や丁寧な調査や取材にもとづく、説得力のある偏見にもとづき、わかりやすく解説・分析する。J:COM湘南の数ある番組の中で最も視聴率が高く、ロングセラーとなっている。
01 ―――
「関ヶ原の合戦」を誘発するひとつの原因
「小牧・長久手の戦い」(1584年)以降、家康とにらみ合いに入っていた状況を、秀吉は外交交渉で解決しました。妹・旭姫(あさひひめ)を家康の正室とさせ、母親の大政所を人質に出して家康を従属させることに成功したのです。その後、秀吉は九州を制圧します。天正18年(1590年)には、小田原・北条氏を潰し、奥州も制圧。天正19年(1591年)2月に千利休に切腹を命じ、12月に太閤になります。
文禄元年(1592年)には朝鮮を征服し、さらに明国を平定するために36万の将兵を朝鮮に送り出します。「文禄・慶長の役」のはじまりです。明国平定が完了したら、天皇を北京に迎えて甥の秀次を明の関白に任じようなどと、秀吉の誇大妄想は壮大に膨張していくのです。
翌年の文禄2年(1593年)8月3日、秀吉の側室・淀君が男の子を生みました。秀吉は59歳という高齢に達していたし、これまで正室をはじめほかの側室にも子が生まれていなかったという事実から秀頼が秀吉の子どもではないという噂がひろがります。秀吉の行動を見ると、朝鮮出兵のために滞在していた肥前・名護屋(佐賀県東松浦郡鎮西町)から母・大政所が危篤だということを聞いて大坂に帰ったのが、文禄元年(1592年)7月29日です。
大政所が亡くなって再び肥前に向かって大坂を離れたのは9月末日だから、淀君が秀吉の子を受胎した可能性は充分あります。とにかく、秀吉は秀頼の誕生に狂喜しました。淀君が秀頼を妊娠した直前に、秀吉は関白の座を甥の秀次にゆずってしまっていました。年齢を考慮すれば、世継ぎの生まれる可能性はまずないという判断からでした。
秀頼が生まれて事情は急変します。秀次は、秀頼にとって邪魔な存在になったのです。父親として秀吉は、関白の座はぜひとも秀頼に継がせなければならなかったのです。秀吉は秀次に謀反の罪を着せ、高野山に追放し、切腹させました。秀次の妻子や側室も捕らえ、三条河原で処刑します。秀次をみずからの手で葬ったことが、のちの「関ヶ原の合戦」を誘発するひとつの原因になります。秀次は、豊臣家にとって重要な人材だったからです。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、「この少壮の関白殿(秀次)は優れた才能を持ち、気前のよい人で、多くの資質を備え、機敏、れいり、かつまれに見る賢明さの持主で、特に親切でその他にも多くの優れた徳を備えていました」(『関白秀次の最期』松田毅一訳)と記録しています。秀次は秀吉の死後の家康を牽制できるそれなりの力を備えた人物だったのです。
慶長3年(1598年)8月5日、豊臣秀吉が五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)にあてた遺言状には、死を目前にして愛するわが子の行く末を案じる父親の切ない気持ちが文面によく表れています。「文禄・慶長の役」のさなかである慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は伏見城で亡くなります。62歳でした。秀吉が伏見城に没すると、朝鮮に渡っていた将兵が続々と帰国し、文禄・慶長の役は終わります。
02 ―――
秀吉と利家の死
秀吉の死後、利家は五大老(利家と徳川家康、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景)の一人として活躍しますが、慶長3年(1598年)4月20日に隠居します。体調不良になったからです。秀吉の遺言状にもあるように、秀吉は自分が死んだのちも、幼い秀頼が庇護されてゆくように五大老と五奉行(石田三成・長束正家・増田長盛・浅野長政・前田玄以)の合議制によって政治を行うことを指示します。
指示した、というよりも哀願したのでしょう。が、それは実行されませんでした。死んだ独裁者のタワ言に等しい遺言など実行されるはずもなかったのです。朝鮮出兵で多くの将兵を失い、経済的にも精神的にも疲れ切っていた諸将たちの、豊臣家に対する不満も募りはじめていました。同時に豊臣家内部にあっても石田三成を中心とする文官派と加藤清正や福島正則を代表とする武闘派の亀裂が決定的になっていたのです。
機を見るに敏な家康は行動に出ます。子である忠輝と伊達政宗の女を結婚させ、松平康元の女を養女として福島正則の子である正之の妻にします。石田三成は、秀吉が生前に定めていた諸大名の私的な縁組や同盟の禁止条項を破ったとして家康を非難します。家康と三成の間を利家が調整していたからおおごとになりませんでした。利家は、家康の監視を怠らなかったのです。利家は、ついに家康と対立することになります。利家は少しずつ押されていき、政界は次第に家康色に染められていきます。
病に倒れた利家は慶長4年(1599年)の初春、家康が見舞いにくると、「はや是(これ)が御いと乞(ま)ごいにて候。我等は死にまする、肥前(嫡子・肥前守利長)事(がこと)たのみ申(もうす)ぞ」と気弱に依頼しています。越中・能登・加賀三国の守りを万全に固め、大坂城の秀頼になにかあったときは瞬時に8000の兵を差し向ける準備も万端ととのえた上の哀願ですから、家康は首筋をなでながら、今更ながらこいつはなんて手強い奴だ、と思ったことでしょう。
間もなく、利家が62歳で亡くなります。慶長4年(1599年)閏3月3日卯ノ刻(午前8時)のことでした。若いころは「傾奇者」(かぶきもの)として知られ、自慢の槍は超ハデで、利家が遠くにいるのを見かけると「槍の又左(利家のこと)が来る」といって人が避けたほどだったと『亜相公御夜話』にあります。「傾奇者」とは戦国時代から江戸時代初期にかけて若いものの間ではやったいわゆる「目立ちたがり屋」で、おおげさで異様な身なりをして奇矯な行動に走った無頼の輩のことです。
前田利家:撮影 泉 秀樹
信長から秀吉、そして家康へと激しい政情のうねりのなかを巧妙にくぐりぬけて北陸地方一帯を手中にしただけに、利家はなにごとをもおろそかにせず細心の注意を払って諸事に処しました。経済的感覚は当時のなみいる武将を押さえてピカ一でした。苦労して貯めた金を有力大名に貸しつけ、財テクにはげみました。これはとりもなおさず、貨幣経済の発展という近代的要素のあらわれともいえます。
ただの金貸しではなく、加賀藩の存続に都合のいいような政治的配慮を充分考えたうえで金を貸しました。それまでの政治的取引に娘を使って姻戚関係を結ぶという手段に経済的手段が加わったわけです。「とかく金もてば、人も世上もおそろしく思わぬ物也。すりきれば、世上も恐ろしく候也」(『亜相公御夜話』)。利家は常々こういっていたのです。金さえあれば、世のなか怖いものはない。「すりきれば」すなわち困窮すれば、世のなかは怖いものになると人に教えていたという。たしかにその通りでしょう。
利家は槍一筋で加賀、能登、越中の三国を取った武将ですが、お金が人生にいかに重要か、経済感覚をいかに磨き上げておかなければならないかを常に意識していたのです。利家がこういう感覚で生きていたから、領国の支配も自然に豊かになって文化的にも質の高い国になっていくことになり、有力武将のなかでも群を抜く権勢を誇ることができるようになっていったのです。
金沢城 石川門:撮影 泉 秀樹
金沢 主計町・浅野川:撮影 泉 秀樹
03 ―――
「犬」に徹したからこそ、「加賀百万石」と呼ばれる大大名として生きのびた
家康は石田三成のいうことなどどこ吹く風で、有力武将と次々に姻戚関係を重ねて権力の拡大充実をはかります。京都・高台寺に引きこもっていた北政所(ねね)を懐柔し、家康は着々と日本の統治者が座る椅子に向かって階段をのぼっていったのです。
三成は宇喜多秀家、大谷吉継、島津義弘らとの結びつきをより緊密にし、毛利輝元を盟主に担いだのです。三成は側近の島左近の案に従って家康暗殺を企て、一方、加藤清正たちも三成暗殺を実行しようとするなど、家康対三成の緊張は日を追って高まっていきました。慶長5年(1600年)、家康は福島の上杉景勝に叛意ありとみて、討伐のために諸将を率いて東上します。秀頼のためという大義名分をかかげてです。しかし、下野・小山(栃木県小山市)まで進んだとき、三成が挙兵したという報せを受け、家康は西へ向かいます。
三成は、大坂も江戸もあえて留守にするという家康の故意に見せた隙、挑発に乗せられたのです。かくして「関ヶ原の合戦」を迎え、三成たちは一日で潰走しました。利家の後継者・利長は三成から味方してほしいという書状を受け取ったのですが、家康陣営に加わります。利家は家康の大きさを知っていました。息子の利長に、家康とは決して戦ってはならぬといい残したに相違ないと思います。利家は最強の武将の下につき、生き延びることを常に選んでいった自らの生き方で、つまり、ナンバー2か3に徹することを後継者に教えていったのだろうと思います。

関ヶ原の功績に対して、家康は加賀南部の能美郡と江沼郡の二郡を加増しました。これで利長は総計120万石を領することになります。父子ともに「犬」に徹したからこそ、前田家は明治維新まで加賀・越中・能登三国を支配する「加賀百万石」と呼ばれる大大名として生きのびたのです。
そのおかげで、現代を生きる私たちは金沢という懐の深い文化都市を、日本の代表的な城下町として世界に誇ることもできるのです。京都の人々は歴史と文化を売って生きているが、金沢の人々は歴史と文化を生きている、といわれます。金沢の町を、歩いてみればわかります。心くばりの行き届いたすばらしい町であり、金沢は前田利家そのものなのです。


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