第17回
中小企業 2代目、3代目経営者の デジタル改革奮闘記
創業60年の旅館業の3代目が挑むDX
(前編)
2024/09/05
目次
本シリーズでは業界・業種を問わず、中小企業の2代目もしくは3代目の経営者の経営改革をテーマにする。特に「DX(デジタルトランスフォーメーション)への挑戦にフォーカスを当てる。ITデジタルの施策に熱心に取り組み、仕事のあり方や進め方、社員の意識、さらには製品、商品、サービス、そして会社までを変えようとしている企業をセレクトする。
今回から、4回(第17回)(第18回)(第19回)(第20回)にわけて伊香保温泉街にあるホテル松本楼(群馬県渋川市)の代表取締役社長である松本光男さんと女将の松本由起さんに取材を試みた内容を紹介したい。
株式会社ホテル松本楼(まつもとろう)は松本楼や洋風旅館ぴのんなどの旅館業をはじめ、セントラルキッチン・伊香保ベーカリー本店や湯の花パン石段店の企画・運営など経営多角化を進める。ホテル松本楼は、1964年の創業。60年にわたり、多くの観光客に愛されてきた。伊香保温泉に湧く「黄金の湯」「しろがねの湯」を楽しむことができる大浴場、露天風呂がある。2024年6月現在、正社員とパート社員を含めて112人。2023年の売上は、8億7千万円。2030年のビジョンとして「グループ10店舗」を掲げている。
松本光男社長は、3代目。創業者の孫に当たる松本由起さんとの結婚を機に、後継者となるべく2008年に入社した。今回の取材は、2人が同時期に同じ場所で回答する形で進められた。
01 ―――
洋食店からホテルの経営へ
以下は、女将の由起さんの回答。
「ホテル松本楼は、以前は洋食店であったのです。元号が明治から大正に変わる頃、私のひい祖父とひい祖母である松本久五郎、シュツ夫婦が、西洋料理の修業をするために上京しました。当時は職人として本格的に西洋料理を学ぶなら、都内では上野の精養軒か、日比谷の松本楼(まつもとろう)と言われていたようです。
久五郎、シュツは見習いとして働かせてほしいと日比谷松本楼に頼みました。ともによく働き、皆さんから気に入れられていたそうです。修行を終えた時に、日比谷松本楼は暖簾(のれん)わけのような形で送り出してくださったようです。お店を出す時には、「松本楼」を名乗ってよいとまで言っていただいたのです。大正初期の頃、2人は伊香保町(群馬県渋川市)で「西洋御料理 松本楼」をはじめました。多くのお客様に洋食が好まれ、繁盛していたと聞きます。特にハヤシライスは、大人気だったみたいです。
その後、時代は昭和となります。私の祖父と祖母が、2代目として受け継ぎました。1945年に戦争が終わり、高度経済成長期(1950年代後半~1970年代前半)になっていきます。この頃から、伊香保は観光客がさらに増え、旅館が足りないようになったのです。旅館を増やそうとする伊香保町の方針もあり、1964年の東京オリンピックの年に温泉旅館へと業態を替え、「ホテル松本楼」としたのです。祖父と祖母は、ホテル松本楼の創業者となります。今年(2024年)で60年目になります」
02 ―――
創業者である祖母の突然の死
「それまで洋食店の経営をしていた夫婦がさしたる準備がないまま、旅館業を営むのは大変だったと思います。様々な出来事や事情が重なり、祖母は精神的なストレスがたまり、体調を悪くし、創業から3か月後に急死しました。残された祖父はあまりに突然のことで強いショックとなり、疲れ切ってしまったようです。その時、大学4年生だった母(由起さんの母)が継ぐことになったのです。継がざるを得ない状況だったと聞きます。当初は学生ですから経営のことがまったくわからず、苦労したようです。
その頃、交際をしていた男性がその後、結婚する父(由起さんの父)です。父もまた、会社の経営者の息子であり、後を継ぐことを親に求められていたようですが、母が気の毒に見え、親を説得し、結婚したのです。2人は夫婦となり、ホテル松本楼の経営をするようになったのです。父と母は、ずいぶんと苦労をしたみたいです。子どもの頃からその姿を見てきていますから、がんばらなければいけないと思うことがよくあります」
03 ―――
英国留学で旅館経営を学びつつ、事業アイデアを温める
女性が1人でも安心して宿泊できるホテルを伊香保でオープンしたかったのです。伊香保ではその頃、61軒の旅館があったのですが、会社や学校など団体のお客様がほとんどで、若い人が個人として宿泊することは少なかったのです。まして女性が1人で泊まるケースは、めったにありませんでした。
当時は、日本国内の多くの旅館では若い女性1人だけを宿泊させることにはためらいがあったと聞きます。自殺をするために宿泊しようとしているのかもしれない、と懸念していたからだそうです。英国では、女性1人で宿泊することはごく普通にありました。ホテルにしようと考えていたのは、伊香保は61軒すべてが和風で、ホテルはなかったからです。このようなこともあり、女性が1人で安心して宿泊できるホテルをオープンしたかったのです」
04 ―――
「洋風旅館」にしたいきさつ
ホテルにも好きではないところがありました。チェックインをして浴衣に着替え、くつろいだ後、食事などのために部屋を出る時にまた着替えたりして服装をととのえます。それでは疲れてしまうかもしれませんよね。私としては、浴衣のままでも部屋を出ることができるようなホテルにしたかったのです。伊香保ならば、浴衣のほうが合うでしょう。旅館とホテルのいいところは継承し、お客様の立場で見つめ直した時に変えたほうがいいと感じるところを変えてみたかったのです。それで、洋風旅館としました」
05 ―――
帰国後はやる気が空回りし、精神的ストレスに
「こういうアイデアを大量に抱え、25歳の時に帰国し、やる気満々でホテル松本楼で若女将として働きはじめたのですが、上手くはいきませんでした。たとえば、「英国ではこうであったから、ここでもするべき」と言えば、古参の社員たちから「ここは、英国ではありません」と反感を招くことがありました。今にして思うと、皆さんは前々からホテル松本楼で長年働く人たちですから、そう言いたくなるのもわからないでもないです。当時の私はそれが十分にはわからずに、ずいぶんとストレスをためました。
「若女将(わかおかみ)」を「バカ女将」と言っているように聞こえる時もあったのです。被害妄想が強くなっていたのかもしれません。社員が小言で話していると、私の悪口を言っているようにも聞こえました。特にはじめの1年間は、空回りをしていたように思います。何かを言えば、「それは机上の空論」といったようなことを言われました。なかなか思い描いたようにはいかない。2代目や3代目には、これに近い経験をお持ちの方がいるのではないでしょうか。強いストレスのあまり、一時期はアトピー性皮膚炎になってしまったほどです。かゆくてかきむしり、皮膚がめくれ、全身が傷だらけになっていました」
06 ―――
危機の中、「洋風旅館ぴのん」をスタート
「ある時、職場で「あんな跳ね返り娘は、ほかの旅館に修行に行かせればいいのよ」いった声を聞きました。私がいないところで言っているつもりだったのでしょうが、こちらには聞こえていたのです。被害妄想ではなく、事実です。不愉快に感じつつも確かにそうなのかなと思うものもあり、父母と話し合い、福島県の旅館に1年間の予定で修行に行くことにしました。
ところが1か月が経った頃、ホテル松本楼で食中毒が発生したのです。両親から「お客さんが減り、経営危機になるかもしれない。修行どころではないから、早く帰ってこい」と言われました。それで、1か月で戻ったのです。
父は、帰ってきた私にこう言いました。「ここのマイナスイメージを払拭するためにも、何か新しい事業をしてみなさい。英国に留学中、手紙を送ってきていたが、あの中に書いてあった若い女性向けの旅館をはじめたらどうか」。私の居場所をつくろうとしたのかもしれませんね。社員たちから受け入れてもらっていないことを案じていたのでしょう。
かねてから温めてきた構想を具体化させ、ホテル松本楼の姉妹館として1997年にオープンしたのが、「洋風旅館ぴのん」です。伊香保で62軒目としての旅館となります。14部屋からスタートし、ありがたいことにお客様が増え、それにともない、部屋を増やし、2024年現在で20部屋をこえます。
62軒目で最後発でしたから、ほかと違うことをしたいと強く願ってきました。まず、伊香保では少なかった女性の1人旅やカップルなど少人数でのご利用を意識しました。そしてお食事は浴衣のまま、お箸でお召し上がりいただけるようにしています。メインディッシュに「ご飯、お味噌汁、お新香」のセットもお選びいただけます。お箸で食べられる洋食は、私たちのこだわりなのです」
07 ―――
毎日が楽しくなり、がむしゃらに働く
「洋風旅館ぴのんをスタートして以降、ずいぶんと楽しくなりました。たとえば、社員を採用する時には責任者である私が面接をして採否を決めます。ホテル松本楼では、父と母が採否を決めていました。ですから一部の社員は父や母には従うものの、私のことは「跳ね返り娘」として扱ってきたのだろう、と思います。自分が責任者として採用を行い、思いや価値観を共有できうると感じる人を雇い、ともに働くと毎日がおもしろくなりました。社員にも支えられ、私なりにがむしゃらに働きました。
あのような決断をしてくれた父や母には、感謝しています。私のがんばりを多少は認めながらも、古参の社員との間で良好な関係がつくれなかったことで修行に行かせたこと、洋風旅館ぴのんを後押ししてくれたこと。いずれもが、私の居場所をつくろうとしてくれていたのではないかなと思います」
「旅館の命は、施設そのもの。まずは、そのことを学んだほうがいい。旅館のことをわかっていないのに、営業に行っても上手くはいかない。今は、社員から信頼を得ることが最も大切。そのためにも、施設のことを正確にわかるようになったほうがいい」。
翌日以降、施設の掃除から温泉の管理まで現場の仕事をしばらくするようにしました。私の想像ですが、父は業績のことを心配するのではなく、社員たちから信頼されることを勧めてくださったのだろうと思います。実際、当時の業績は確かに厳しいものがありました。あの業績ならば、先を見据えることはなかなかできないのではないでしょうか。私に心配をさせることなく、本質的なことを教えてくださったのだと思います。心が広く、大きな方だとあらためて感じました」
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第16回 ATホールディングス(後編)
第17回 ホテル松本楼(前編)
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