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第21回 創業143年の老舗印刷会社が目指す「印刷しない印刷会社」~大川印刷(前編)~

作成者: JOB Scope編集部|2024/10/18

第21回

中小企業 2代目、3代目経営者の デジタル改革奮闘記

創業143年の老舗印刷会社が目指す
「印刷しない印刷会社」

前編


2024/10/18


 

本シリーズでは、前シリーズ「ベンチャー企業がぶつかる「10億円の壁」をどう乗り越えるか! 「売上10億円を超えたベンチャー企業の管理職たちの奮闘!の続編として、業界・業種を問わず、中小企業の2代目もしくは3代目の経営者の経営改革をテーマにする。

特に「DX(デジタルトランスフォーメーション)への挑戦にフォーカスを当てる。ITデジタルの施策に熱心に取り組み、仕事のあり方や進め方、社員の意識、さらには製品、商品、サービス、そして会社までを変えようとしている企業をセレクトする。 

 

今回は明治14年(1881年)創業で、2024年で143年を迎えた株式会社大川印刷 (神奈川県横浜市)の大川哲郎代表取締役社長に取材を試みた。大川社長は、2005年に6代目代表取締役社長に就任。印刷業界が過渡期にあることを見据え、「風と太陽で刷る印刷」「印刷しない印刷会社」を掲げ、大胆な改革を次々と試みている。

同社は1990年代半ばから環境に配慮した経営に取り組んできた。2004年からは、「ソーシャルプリンティングカンパニー®」という指針をする。これは本業を通じて社会的課題を解決できる会社を目指すものだ。環境に配慮した取り組みの1つである「石油系溶剤0%インキの普及啓発を通じた地球温暖化防止活動」が評価され、2015年には「地球温暖化防止活動環境大臣表彰」を受彰した。

2017年に、持続可能な開発目標(SDGs)を経営方針の中核に定める。2019年からは自社の工場の屋根には太陽光パネルを大量に設置。印刷を含め、本社工場で使用される電力の約20%をこの太陽光パネルでまかない、残りのおよそ80%は風力発電の電力を購入し、再生可能エネルギー100%を実現している。2023年には、気候変動アクション環境大臣表彰「普及促進部門・緩和分野」を受賞した。2024年現在、印刷事業を中心にスキャニング事業、コンサルティング事業、映像製作・スタジオ運営を展開する。

NPO、NGOとの協働の経験から市民参加のワークショップなどでファシリテーターを数多く務める。社会課題解決型スタジオ「with GREEN PRINTING」を運営。毎月第3金曜日は映画上映会・交流会を開催している。

 

01 ―――

1881年創業で、国内有数の老舗印刷会社

 

創業者であり、初代社長の大川源次郎の実家本家は主に薬を扱う貿易商でした。子どもの頃から家業を手伝っていたようです。輸入医薬品のラベルを見て、美しさに惹かれるのと同時に印刷業が将来有望な産業になると思ったそうです。

そこで、日本における活版印刷の先駆者である本木昌造の門下生、平野富二が創設した東京築地活版製造所へ2人の弟に活版印刷を学びに行かせたのです。1年足らずで呼び戻し、1881年、横浜関内の太田町一丁目で創業したと伝えられています。特に医薬品に関する印刷を請け負うことが多かったようです。その後は横浜市を中心に企業や団体、公的機関から印刷を受注するようになりました。全国でよく知られるところでは、株式会社崎陽軒のシウマイ弁当の包装紙を印刷しています。


02 ―――

4代目社長の急死


2代目の大川重吉は私の祖父で、弊社の歴史を振り返るうえで特筆すべきものがあります。当時は、横浜市内に印刷会社がまだ少なかったのです。発注する企業や団体も多くはなかったのでしょうね。その中で会社の態勢をつくり、「医療に関する印刷は大川印刷」といった評価を得たのです。市内の印刷会社が参加する団体の運営にも力を注いでいました。

1987年、4代目の社長であり、私の父の英郎が医療事故で亡くなりました。私が、19歳の時です。突然のことですから、社内は大きく混乱しました。その頃の父に関するエピソードとして、1970年前半から半ばにかけての石油危機(オイルショック)があります。全国で紙不足となり、トイレットペーパーを買い求める人がスーパーや医療品を扱う店に押し寄せる騒動が起きました。

当時から弊社が印刷を受注していた崎陽軒の元会長が私に話してくださいました。「あなたの父上(4代目の社長)には、石油危機の時にずいぶんとお世話になった。(シウマイ弁当の包装紙に使う印刷の)紙は確保します。どうか、安心してくださいと言ってくれて、心強かったよ」

父は年齢からして志半ばで亡くなったのでしょうが、経営に真剣に取り組んでいたのでしょうね。残念ながら、父から教わることは多くはなかったのですが、生前をよく知る方から伺うと、業界の地位を向上させるためにほかの印刷会社と協力し合うことにも力を入れていたようです。

 

 

03 ―――

大川印刷の社長になるのを決意 


17歳のある日、父に呼ばれ、聞かれました。その場には、6歳上の兄もいました。2人の息子に自分の後を継ぎ、社長をする考えがあるのかどうかと尋ねたのです。兄は「自信がない」と答え、断りました。

私はとっさに「俺がやるよ」と答えました。高校生ですから会社の経営など知るわけもないのですが、父のことが好きでしたらそんな言葉が出たのかもしれませんね。兄がすぐに断ってしまうことに少々残念に思いました。その裏返しとして「俺がやるよ」と言ったのかもしれません。

兄はその後、40代前半で亡くなりました。6歳上であり、接点があまりなかったのです。社会人になった後は研究者を志し、20代から大川印刷で働く私とは進む道が違っていました。会社の経営について兄弟で深く語り合う機会はほとんどなかったですね。

 

04 ―――

母は専業主婦から突然、社長になった 

 

父の後を継いだのは夫人であり、母である大川幸枝です。専業主婦から突然、社長になったので苦労していました。相当な覚悟を持ち、経営をしていたのだろうと思います。自宅で愚痴や不満を漏らすことは、ありませんでした。従業員さんやお客さまの支援を得ながら、2005年まで務めました。

息子の立場からすると、専業主婦であった頃を知っているだけにすばらしいなと思います。多くのお客さまとしっかりとコミュニケーションをとり、良好な関係をつくり、維持しようとしているようでした。頼もしいなと感じたことも多々あります。

日々忙しく外に出ている私とのコミュニケーションを考え、交換日記のようにノートを書いてくれました。私が書いて返すことはありませんでしたが、母が書いたことに対して、会ったときに受け答えをしたりするのです。小さな会社の経営者ですから私も社内に長くいることがなかなかできません。ですので、ノートを使った意思疎通をしていたのだろうと思います。


05 ―――

社長である母と考えが合わない時があった

 

母は従業員さんに対し、優しく接することが多かったのですが、それは時に甘さになりえます。育てようとする時には、優しさと厳しさの双方が必要になります。そのあたりのバランスに私が不満を感じたことがあります。

意見がぶつかることもありました。私が、母に言っていたのはこのようなことです。「厳しく言ったとしても、本当にその従業員さんのことを思い、あえて言う場合もある。成長のために言わなければいけない時もある。従業員さんの言動や仕事に仮に問題があったとしても、上司が『いいよ、いいよ』と言っているだけでは無責任ではないのかな」。

その後、2005年に母の後を継ぎ、6代目の社長となり、2024年現在で56歳となりました。今にして思うとあの頃、母がなぜ、優しく接していたのかがわかるような気がします。たとえば、従業員さんにその時点ですぐに厳しく言うのではなく、その後のタイミングを見計らい、言おうとしていたのかなと思うことがあるのです。

56歳になった今だから、ある程度わかるのもしれませんね。優しさと厳しさを兼ね備えた育成は、つくづく難しいと思います。母は、現在94歳になりました。時々会いますが、その都度、「会社のみんなは元気なの?」などと必ず聞いてきます。

 

06 ―――

25歳で取締役社長室室長に就任 

 
日本の経済や産業、印刷業界のあり方が大きく変わっていく時代に経営を担うようになったのが、6代目の私です。印刷業界を取り巻く変化で言えば、電子化やペーパーレス、環境問題への社会の意識の高まりなどがあります。「印刷は不要」といった声も聞かれるようになってきました。こういう中でいかに社会の要請に応えていくか、が私に課せられた使命の1つです。

私は大学を22歳で卒業し、約3年間、同業他社に勤務しました。その後、大川印刷に取締役社長室室長として入社したのが、25歳です。社長を務める母を支える立場でした。主に業務改善や経営改革を担当していました。権限は、大幅に委譲されていたように思います。このことは、ありがたいと感じていました。



07 ―――

母と考えや意見が異なることが増えてきた

 

母が社長であった頃、様々な場で社外の人から「なぜ、100年以上も経営を続けることができたのですか?」と尋ねられました。その都度、母は「社員を大切にしてきたから」と答えていました。「人間尊重の経営」とも答えていました。

確かに従業員さんを大切にする会社ではある、と思います。それはいいことなのですが、時代はあの頃、確実に変わりつつあったのです。1990年代前半にバブル経済が終わり、特に90年代後半から深刻な不況が長引きます。弊社もまた、売上が伸び悩むようになりました。私は専務取締役となり、責任が一層に重くなりました。こういう状況で母とは経営や従業員さんの育成のあり方をめぐり、意見が異なる機会が増えてきたのです。

 

 

08 ―――

ストレスやもどかしさを感じた時  

 

あの頃、ストレスやもどかしさを感じたのはたとえば次のような時です。専務であった私が、従業員さんを育成しようとするために厳しくする場合がありました。従業員さんたちから、嫌われることがあったのです。

母が従業員さんに、「専務はみんなを思うからこそ、あえて厳しく言うの。だから、わかってあげてほしい」などと言ってくれているならばともかく、それがないのです。母は、私をフォローすることをしない。母にとって、子どもはいつになっても子どもなのでしょうね。専務としてではなく、息子として見ていたのだと思います。母にフォローを期待する私も甘かったのでしょう。これも、56歳の今だからわかるのでしょうね。



(後編)に続く

 

 

 

第19回 ホテル松本楼(後編)

第20回 ホテル松本楼(完結編)



著者: JOB Scope編集部
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