中小企業 2代目、3代目経営者の デジタル改革奮闘記
あの旅が50年にわたり、博水社を支える商品と巡り合う原体験となった
~ 博水社 田中秀子 社長(前編)~
2025/5/26
今回は、レモンサワーなどの割り飲料として知られる「ハイサワー」を製造販売する株式会社博水社(目黒区)の田中秀子代表取締役社長に取材を試みた。博水社は焼酎やウィスキー、ワイン、ビールなどを割る各種飲料水を扱う。2024年の売上は6億円、2025年4月現在の正社員数は20人。
田中社長は1960年、東京生まれ。1982年、短期大学の卒業と同時に2代目社長である父が経営する博水社に入社した。製造や品質管理、営業、イタリアなど海外への商材の買い付け、総務、経理、広報などに幅広くたずさわり、父から経営の要諦を学ぶ。働きながら東京農業大学に通い、食品醸造や食品分析を学ぶ。「ダイエットハイサワーレモン」「ハイサワーハイッピー レモンビアテイスト」「ハイサワー缶チューハイ」などを開発し、ヒットに導く。
創業80周年となる2008年4月に3代目に就任。安定的に業績を維持し、発展する仕組みをつくってきた。田中社長いわく「お母さんのような存在」として社員の定着や育成にも熱心に取り組んでいる。
https://www.hakusui-sha.co.jp/
目次
01 ―――
ラムネを製造販売する町工場としてスタート
田中秀子代表取締役社長
今年2025年で創業97年となります。1928年に私の祖父である田中武雄が、品川区(東京都)で個人商店として創業しました。その後、1930年からラムネやみかんジュース、サイダーの製造をはじめます。近所の駄菓子屋さんにリヤカーで運び、売り歩いていたそうです。当時は、ラムネを製造する町工場は都内で250件程あったと言われていますが、その1つだったのです。祖父と祖母の間には、9人の子どもがいました。その長男が、私の父である田中専一です。
やがて戦争(第二次世界大戦)がはじまり、1940年代になると米軍による空襲が本格化し、家族は平塚市(神奈川県)に疎開をしました。しばらくはそこで生活をしていたのですが、祖父は長男である父だけを連れて都内の自宅や工場に戻る時があったようです。軍の命令により、配給で得た米と砂糖で甘酒を工場でつくり、軍に供給していたためです。
戦況が悪化し、物資が不足し、政府や軍から各工場や会社、家庭に鉄製のものを供出することが求められる時がありました。軍事兵器などをつくるためだそうです。父はラムネを製造する機械を供出すると、家族が生きていけないために土の中に埋めたと話していました。多くの家庭できっとそのようにせざるを得なかった時代だったのでしょうね。
02 ―――
清涼飲料水市場は拡大し、1961年に前年比700%増と急拡大
1945年に戦争が終わり、家族は品川区に戻り、祖父と父が中心となり、町工場としてラムネ製造を再開しました。戦後復興がはじまり、日本の経済が上向きとなります。小さな会社や工場の業績もしだいによくなっていきます。その頃、1952年に博水社として会社組織にしました。1954年に、現在の本社がある目黒区目黒本町に工場を移転させます。朝鮮戦争(1950年~53年)の好景気に沸いていた頃です。
祖父が急に亡くなり、父が24歳で2代目に就任しました。父の下に弟、妹が8人、祖母(父の母)と本人(父)で、10人家族の大黒柱になったのです。家計を支える人がほかにいないから、そうならざるを得なかったのでしょうが、私にはとてもできないと思います。24歳で10人の生活を支えるなんて想像するだけで苦しくなります。大家族を養い、守ったのですからすごいと思います。
景気がよくなると、町工場のあり方を変えざるを得ないようになってきました。1950年代~60年代には、海外から大手清涼飲料水メーカーが次々と進出します。たとえば、アメリカの世界的な清涼飲料水メーカーのコカ・コーラなどです。ラムネに変わりうる飲み物が売られるようになったのです。外資の清涼飲料水は、それらのメーカーの圧倒的な販売網や営業力で日本の市場に浸透しました。日本の大手ビールメーカーのソフトドリンク部門も各種ソフトドリンクを製造するようになりました。
清涼飲料水の市場は、1961年には前年比700%増と急拡大します。ラムネに変わる大きな市場となったのです。外資や日本の大手ビールメーカーに圧倒され、ラムネを製造していた町工場や小さな会社はしだいに業績難となりました。廃業や倒産するケースが増えてきたのです。父はどうしたらいいのか、と試行錯誤を繰り返したそうです。ラムネを製造販売する町工場は現在(2025年4月)、40社程と言われています。
03 ―――
博水社を支える商品と巡り合う貴重な旅
1960年代前半に博水社も変わります。当時はまだ、町工場としてラムネを製造し、販売をしていたのですが、ラムネ市場の先行きが見えない。そのうえ、夏はともかく、冬が売れないのです。とにかく、売れない。とはいえ、従業員には毎月、賃金を支給し、ほかにも様々な支払いがありますから、父は資金繰りにはこの時期、苦労をしていたのだろうと思います。業績を安定させるために、冬でも売れるものをつくろうと常に考えていたようです。
今で言うところのノンアルコールビールの開発に6年かけて取り組んだのですが、ホップのエッセンスの製造元であるアメリカの企業が倒産しました。当時は貿易の自由化が現在のように進んではいませんから、海外のものを簡単に入手できなくなり、結局、振り出しに戻ったのです。
博水社の本社(東京都目黒区)
その頃、1つの転機が訪れます。1975年に父がアメリカのロサンゼルスやサンフランシスコへの旅行に娘2人を連れていってくれたのです。私が高校生で、妹が中学生でした。3人の旅です。父には気分転換をしようといった思いもあったのかもしれませんね。
日本人の海外への団体旅行が盛んになった頃でもあります。英語の意思疎通が堪能な日本人の添乗員に数十人の日本人が1つの団体としてついていき、現地を旅するのです。私にとっては、初の海外でした。この旅はその後50年近くにわたり、博水社を支える商品と巡り合う貴重な原体験となるのです。この商品がなければ、父や私、従業員たちが長きにわたり、生活をすることは難しかったかもしれませんね。
04 ―――
「我輩の作ったサワー」を意味する「輩(ハイ)サワー」誕生
当時、国として勢いのあったアメリカでは様々な刺激を受けましたが、父が特に影響を受けたのは、ごく普通の感じのアメリカ人がバーで様々な種類のカクテルを楽しそうに語らいながら飲んでいたことのようでした。洒落たお店というよりは、庶民的な雰囲気で多くの人がウィスキーやワイン、ビールなどアルコールをいろいろなもので割っておいしそうに飲んでいたのです。日本ではアルコールはビール、ウィスキー、日本酒くらいしかなく、それらをそのまま、ストレートで飲んでいた人が多かった時代です。
父はカクテルという飲みものがあるのかと驚きながらも、今後、博水社が生きていくヒントをつかんだのです。楽しそうに飲んでいる姿を見て、ホップにこだわる必要はないと感じたのでしょうね。カクテルを、日本らしく焼酎ベースで作ろうと考えたようです。焼酎を割るなんて発想は、日本ではほとんどありませんでした。
あるいは毎年、冬は売上が落ち込むものの、酒類だけは忘年会が多い12月に増えることを前々から意識していたこともあったのでしょう。それで、お酒を割るための飲み物を作ろうと思ったそうです。会社の存続や従業員の生活をどうするかと常に考え抜いていたから多くのことを思いついたり、感じ取ったりすることができたのかもしれません。
当時はビール、ウィスキー、日本酒に比べて焼酎は低い立ち位置でした。今ほど蒸留の機械がよくなかったこともあり、くさくて質の低いお酒と見なされていたのです。焼酎をビール、ウィスキー、日本酒と肩を並べるほどの扱いを受けるようにしたかった思いもあったのではないでしょうか。
1964年からレモンの輸入自由化がはじまっていたので、まず、レモンの果汁で割ってみようとレモンサワーの開発に取り組みます。博水社の本社がある地域の老舗居酒屋「ばん」の人気メニューをヒントに焼酎を割る割り材の試作を繰り返しました。1980年についにレモンと炭酸の割り飲料ができました。父が精魂込めてつくったものですから、「我輩の作ったサワー」を意味する「輩(ハイ)サワー」と父自ら命名しました。この頃に清涼飲料水のラムネから撤退し、事業を割り材に集約したのです。父は、こういう判断も優れていたように思います。
05 ―――
社員や知人を巻き込み、それぞれの良さを引き出し、皆で進めていく
父は発想がよく、独創的なアイデアが豊富でした。「新しいことをしたい、しなければいけない」とよく言っていたし、考えてもいるようでした。好奇心旺盛でアンテナを張り、感度のいい人でもありました。たとえば、本社そばで道路工事をしている人がいると挨拶をしたり、立ち話をするのです。工事の内容や機械について尋ねるのです。「その機械は、どういうものなの?」「そこは、何センチくらい?」「刃型はどうなっているの?」。それに対し、相手の方が答えるとさらに聞いたりしていました。工事の邪魔にならない範囲となりますが。
娘2人を連れてのアメリカへの旅も新しいものを見つけるためが目的ではなかったのですが、現地に行くといろいろと感じるのでしょうね。好奇心旺盛ですから、貪欲に知ろうとするのです。高感度のアンテナを張る姿勢は、私にも多少は受け継がれているのかもしれません。中小企業でアイデアが豊富な社長の場合、その方が1人でどんどんと進めてしまうことがあると以前聞いたことがあるのですが、父はそういうタイプではありませんでした。社員や知人を巻き込み、それぞれの良さを引き出し、皆で進めていくようにしていくのです。特に現場の人と一緒に考え、行動するのが好きなようでした。
状況に応じて、社員たちには権限移譲を積極的にしていました。私が「任せてしまって本当にいいの?」と聞いても、「彼なら大丈夫」と言っていました。信頼しているようでした。丸投げではなく、問題が生じそうになるとフォローをします。権限移譲をする仕事の大枠や大切なところは父がきちんと管理し、それ以外のところをまずその仕事ができうる社員に任せします。その様子を見ながら、今度は大切なところも任せるのです。権限移譲をされた社員の多くは自分が信用されていると感じるのか、満足した表情で懸命に仕事をしているようでした。そんな働きに応じて賃金も上げていきます。これが、育てることになるのです。この一連の流れは、上手かったですね。
シリーズ:『あの人この人の「働き方」 』
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