中小企業 2代目、3代目経営者の デジタル改革奮闘記
2025/6/16
今回は、株式会社キューピットワタナベ代表取締役会長の渡辺道代さんと代表取締役社長の渡辺英憲さんを取材した。会長が創業者で、社長が2代目となる。
同社(東京都昭島市)は1987年の創業時から企業や団体から委託を受け、ダイレクトメールの封入・発送を手がける。当初から身体、知的、精神などの障害者や少年院、刑務所を出所した人を従業員として雇い入れてきた。会長は「障害者などと健常者が一緒に働ける場を作り、両者を結び付けるキューピット役を果たしたい」という思いで、社名をキューピットとした。現在、従業員は数名の障害者を含めたおよそ20人。
http://www.cupid-watanabe.co.jp/
目次
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以下は、会長の渡辺道代さん。
創業前、都内の社会福祉施設に職員として勤めていました。知的障害者が100人程いたのですが、ある時、障害を持つ10代の女性が「就職先がない」と私のところへ来たのです。「バスに乗る訓練をしてきたのに、雇ってくれる会社がない」と打ち明けてくれました。いたたまれない思いになり、「探してあげる」と答えると安心した表情でした。
障害者雇用の実績のある会社に電話を入れることにしました。人事総務の方に事情を説明すると身体障害者の雇用ならば検討するものの、「知的障害者」と話すと態度を変えるのです。相当な数の会社に連絡を差し上げましたが、いずれも断りを受けました。そのことは、前述の女性にはとても言えません。
私のもとを訪れる彼女にとっさに「あなたが働く会社をつくってあげるから、もう少し待っていてね」と言ったのです。ずいぶんと喜んでいました。社会福祉施設を退職する考えはなく、それ以前に起業の経験もありません。会社をつくるなんて考えていなかったのです。おそらく彼女のことを思うあまり、口に出てしまったのでしょうね。これが、会社をつくったきっかけです。
彼女は、頻繁に「私の会社、どうなったの?」「会社、できた?」と尋ねてきます。朝、昼、夕方と1日に数回聞かれました。少々困ってしまったほどです。夫に話したところ、「小さな作業場をつくって、そこを会社にしてみたら?」と答えてくれました。その一言で、「やってみよう」と思ったのです。社会福祉施設を退職し、数か月間、不動産関連や契約に関することを専門学校で学んだうえで1987年に作業場を借りてスタートしました。
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ありがたいことに、企業や団体からラムネやお菓子を箱につめる作業を受注できたのです。こちらから営業をしたのではなく、障害者の関連施設から聞いて連絡をくださったようです。当初から、10~20代の知的障害者数人を従業員として雇っていました。前述の女性は結局、ここには勤務しなかったのです。
知的障害の人は箱詰めするような手作業がとても得意ですから、依頼をしてくださった企業や団体の評判がよかったのです。「丁寧な仕上がりになっている」と多くの方はほめられました、作業をするスピードはやや遅い人もいますが、全員が丁寧に正確に確実にしてくれます。集中力があるのです。
従業員たちへの賃金や作業場の家賃、光熱費、税金を支払うと、最初の月に手元に残ったのは700円。この時点で社会福祉施設の退職金は全額、運転資金や経費で使っていました。楽天家ですから、大きな不安は感じませんでした。「700円はラッキーセブンを意味するから、なんとかなるよね」と思い込んでいたのです。そのように言い聞かせていたのかもしれませんね。
主人が比較的、大きな会社に勤務していたので、家計には大きな不安はありませんでした。その頃、すでに息子(現在、社長の英憲さん)がいました。主人は「家計は、自分の給与でなんとかする」と言ってくれていました。不安がなかった大きな理由は、仕事の依頼が絶えなかったからでもあります。従業員の仕事の質が高かったことに加え、私が女性であるのも大きかったと思います。
40年程前は女性で、起業をする人は相当に少ないから口コミで伝わりやすかったのかもしれません。とにかく、次々と依頼がありました。同情もあったようです。私のことを「かわいそうな女」と見た方もいるみたいでした。女性が経営をすることに偏見があった時代なのです。
私の目的は、たった1つ。障害者の人たちに仕事をしてもらい、賃金を支給すること。それで、その従業員が生きていくことができるようにすること。ただ、これだけです。会社を大きくしたい、とは考えていませんでした。今もその思いは、変わりません。
依頼してくださる企業や団体には私が2トン車を運転し、出向き、ラムネやお菓子を受け取り、作業場まで運んでいました。時々、「あなたが社長なの?」と尋ねられます。驚いていたようでした。様々なところに出かけ、仕事をいただいていたのです。運転が好きだったこともあり、助手席に知的障害の従業員を乗せて出向いていました。そんな姿も、行く先々で印象に残り、話題になっていたのかもしれませんね。
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丁寧な作業をしてもらえるようにするためにはまず、私が丁寧な作業をすること。その時、作業の工程が1から10までに細分化できるとすると、そのうちでたとえば、知的障害者の従業員ができると思える部分を選びます。そこの仕方を繰り返し、わかりやすく伝えます。すると、教えたとおりに作業をするようになります。
大切にしているのはまず、一緒に作業をすること。「これをしなさい」と指示して終えるのではなく、たとえば「こうやって、こうして、次にこうやって・・・」と言います。すると、作業をする際に「こうやって、こうして、次にこうやって・・・」と同じように口にします。いったん覚えると、忠実にそれ通りに作業をします。
逆に言えば、違う状況になった時に臨機応援に対応を変えるのは難しい場合があるようですね。仮に新しい作業をするならば、それまでの作業の仕方をリセットし、新たな作業の仕方を「こうやって、こうして、次にこうやって・・・」と教えます。リセットし、教え直すことをしないと、混乱してしまうようです。
丁寧な作業で言えば、たとえば20年以上勤務した重度の知的障害で、自閉症の男性はその象徴的なケースでした。ダイレクトメールを手で折って封筒に詰める作業をしてくれていた時、折る位置がわずかにズレても納得できないようでした。その場合はやりなおす。こちらが指示するのではなく、彼自身が折りなおすのです。中途半端な仕事はしません。時間がかかるのかもしれませんが、発注者である企業や団体から正確で丁寧な作業と評価され、リピートになりやすい。
彼は、こういう作業をするのにはとても向いています。本当にすばらしく、毎回、完成度は最高!2020年にコロナウィルスの感染が深刻化した時からは、本人の家族と話し合い、過密を避けるために家で作業をするようにしています。最も多い時で、知的障害の従業員は3人でした。こちらからたとえば障害者の施設に連絡し、新たに雇いたいから紹介してほしいと依頼することはしません。障害を持つ人の家族から「うちの息子、娘を雇ってほしい」と連絡をいただくのです。
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きっとあるのでしょうが、楽天家ですから必要以上には考えないのです。創業期から、採用や育成で苦しんだ経験はほとんどないのかもしれません。会社の規模を拡大しようとして、次々に採用をしていたら混乱していたでしょう。身の丈に合ったことをしようとしてきましたから無理はしなかったのです。従業員は数人からスタートし、10~25人を推移してきているので隅々まで目が届きます。今は息子が常時、職場にいますから、私が1人の時よりは全員をきちんと把握できているように思います。
1つの曲がり角になったのは、創業期から10年前後です。この頃、手作業をする同業社の多くはダイレクトメールを折ったり、封筒に入れたりする機械を購入したようです。おそらく、相当なコストが発生したのだろうと思います。その後、1990年代後半から不況が深刻になりましたが、そのコストが経営の負担になったのではないかな、と感じます。しだいに同業社が減っていきました。
弊社は、そのような機械化はしませんでした。知的障害の人たちの雇用を守るためにも機械化はしなかったのです。今はごくわずかの台数ありますが、大半は手作業によるものです。手作業にこだわってきたことで障害者の人たちが働きやすい職場となり、それが口コミで伝わり、採用は比較的スムーズに進んできました。これが精度の高い作業となり、発注の依頼が安定したペースで続き、経営が安定した大きな理由ではないかと思います。創業時の「障害者の会社をつくりたい」といった思いを大切にし続けたのが、よかったのかもしれませんね。
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